六、死者と為った者
生還
――ピチャンピチャンと、水滴がシンクを打つような音がする。
単調な音は徐々に大きくなっていき、深い意識の底に一筋の光が降りてくる。
横たわった青年の顔に薄い光が差し、彼はゆっくりと目を開けた。
渡利が意識を戻すと、そこはコンクリートが剥き出しの倉庫のような部屋だった。
四畳半ほどの広さで、隅には木箱が乱雑に積み上がっており、丸い高窓から陽光が差し込んでいる。どうやら今は昼間のようだ。備品や食材の他に小さな机と椅子もあり、帳簿の束や
渡利は、木箱を並べただけの簡易な
「ここは……?」
呟きながら身を起こした瞬間、頭部に鋭い痛みが走る。
「あいたっ」
叫んでから頭を押さえると、乾いた布の感触があり、幾重にも包帯が巻かれていた。手当てされている。
「あら、やっと目覚めたのね」
悲鳴を聞きつけたのか、部屋の入口にかけられた暖簾がばさりと上がり、大きな影が部屋に入ってきた。シモンだった。
「ここは……どこだ」
渡利が掠れた声で尋ねると、シモンはどこかホッとした表情で言った。
「しらゆりの事務所よ。倉庫も兼ねている店のバックヤード。あんた、半日以上も眠ってたのよ。呑気なもんね」
シモンは一度店の方に戻ると、またすぐに戻ってきた。
その手には自前のものか、洗いたてのパリッと糊のきいたシャツを持っていた。彼はシャツを渡利に差し出した。
「これあげるから着たら。そうそう、あんたの背広とシャツは処分しちゃったわよ。血が飛び散って着れたもんじゃなかったし、不衛生だから」
「……俺は一体どうしてここへ。確か、鏑木の護衛に追いかけられて……追いつかれて。いや、あいつらじゃない。別の誰かに……そいつに殴られたんだっけ。……は? なんでだよ」
ぶつぶつ呟く渡利に、シモンは呆れた声を上げた。
「まだ
「違う。俺は殺されかけたんだよ。そもそもマスターはどうやって俺を助けたんだ」
「助けたも何もないわ。あんたが店の裏口で倒れているのを見つけて、中に運び込んだだけ。……全く殺されるなんて大袈裟ね。あんたの頭の傷は、軽い切り傷程度。血は沢山出たけど全然たいしたことないわ。どうしたの、酔っ払いの喧嘩にでも巻き込まれた?」
「いや、そんな甘いもんじゃない。俺は鏑木の……鏑木男爵の手先に殺されそうになったんだ。あの化け物みたいな兄弟……ゾッとする」
渡利は昨夜の恐怖を思い出し、ぶるりと肩を震わせた。
シモンは深刻に受け止める気はないようで、ふーんと鼻白んだだけだった。純喫茶のカフェーとはいえ、歓楽街で飲食店を経営している。客の怪我ぐらいで、いちいち騒いでいられない。そう言いたげだった。
「そう、命を狙われたってわけ。だとしたら、あんたを殴った奴ってのが、ここへあんたを運んだのかもね。怪我も手が滑って切った、とかそんなオチかも。殺す気ならもっと徹底的にやるもの」
「そういえば『ごめん、外した』みたいなこと言ってたような……」
渡利は首を傾げながら、シモンのシャツを羽織った。シャツはサイズが大きくてぶかぶかだったが、アイロンの熱が残っていてじんわり温かかった。とりあえず命拾いしたことに安堵し、木箱の簡易寝台から降りる。
「じゃ、あたしは店に戻るから。今は昼時で忙しいの」
「ああ……ありがとう」
シモンに礼を言って、そこで渡利ははたと気づいた。
自分が鏑木に襲われたからには、咲にも危険が迫っているのではないだろうか。
彼女は鏑木の情報を自分に洩らしたのだ。もし、そのことを鏑木が知ったら咲は一体どうなるのだろう。
渡利は慌てて店に戻りかけたシモンを呼び止めた。
「なあ、マスター。咲さんはどうしてる」
「……咲。ああ、今は大変みたいよ」
「大変? 何があったんだ」
「今朝電話があったけど、屋敷に警察が来て大騒ぎみたい」
「警察……?」
状況がわからず困惑する渡利に、シモンはにやりと笑った。
「あんた、さっき鏑木の手下に襲われたって言ってたけど、これからはその心配はないかも」
「……なんでそう言い切れるんだ?」
「何せ当の男爵がひっくり返っちゃったんだから」
「えっ……ひっくり返っただって」
渡利は仰天し、思わず素っ頓狂な声を上げた。
あまりにも話が急展開すぎてついていけない。
「どういうことなんだマスター。何があったんだよ」
「ちょっと、あたしは忙しいのよ。続きはランチタイムが終わるまで待って」
シモンは語気を荒げ、渡利を置いて店に戻ってしまった。残された渡利はぽかんと口を開けたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。
「結婚直前の鏑木男爵、綾小路邸で意識不明の重傷。自殺の線も」と題されたニュースはその日のうちに世間を駆け巡った。
豪雨が降った次の日の明朝、鏑木男爵は一人、婚約者である綾小路家の一階の客間に倒れていた。
彼がどうやって屋敷内に入ったのか、どうして客間にいたのかはわからなかった。 先に帰された鏑木の運転手は、主人はいつものように銀座で飲んでいると思っていた。
鏑木を発見したのは、藤堂子爵家から帰還した蘭子と使用人たちである。
驚いた蘭子はすぐに警察へ通報し、鏑木は担架に乗せられて病院へ運び込まれた。
その後、屋敷内の全ての人間が集められ、一応にも警察の捜査が始まった。
男爵が、誰かに手引きされて屋敷に入った形跡はなかった。
現場には、睡眠薬であるカルモチンの錠剤が散乱していた。
警察は蘭子とその使用人たちも事情聴取したが、蘭子はその目立つ容姿から前日の夜、歌舞伎座で多数の目撃証言があり、その後も藤堂子爵家で忠次とその家族に歓待されていた。
使用人たちにも全員アリバイがあった。
食事係の野原咲は、休暇を貰い、後見人である銀座の船橋呉服店を訪ねていた。夜は店に泊まっていったと、店主の船橋恭太郎が証言した。咲は船橋呉服店の車で送られて、蘭子よりも遅くに戻ってきたが、その時既に鏑木は発見されて大騒ぎになっていた。
自殺未遂にしても、自殺するような理由は見当たらず、結局「服用していた睡眠薬の中毒で心神喪失状態に陥った」という線に落ち着き、警察も事故として処理した。
婚約者の鏑木が倒れてしまったため、蘭子は予定していた結婚式を中止せざるを得なくなってしまった。
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