ましろの精神病院
六月の中旬の、初夏に差し掛かる蒸し暑い日だった。
雨上がりの新緑がきらきらと眩しい田舎道を、場違いに豪勢な白のフォードががたごとと音を立てて走り抜けた。
車は、郊外にひっそり建つ白亜の精神病院の中へ入っていった。
フォードから降りた蘭子は、供の咲を連れて、入院患者を収容している病棟へと足を踏み入れた。
建物は改装途中なのか、ま新しいペンキの匂いで充満していた。
蘭子は幾分険しい面持ちで、患者の家族専用の面会室へ入った。
彼女は看護婦が勧めるまま、正面の黒皮のソファに腰かけ、その後ろに咲が畏まって立った。
暫くすると医師が現れ、入院している患者の病状を簡潔に説明した。
蘭子は微動だにせず、その説明を聞いた。
やがて待機していた看護婦が、一台の車椅子を押して部屋に入ってきた。
車椅子に座っていたのは、白麻の簡素な寝巻きを着た白髪の老人だった。
顔には幾つもの深い皺が刻まれ、目は白濁として虚ろであり、口はだらしなく半開きのままで歯をカクカクと打ち鳴らしている。入院生活で筋肉が落ちたのか、ひどく痩せ衰え、
彼は一見すると五十代にも六十代にも見えたが、実年齢はまだ三十代半ばであるはずだった。
「惟光様……」
蘭子は老人に向かい、静かにかつての婚約者の名を呼んだ。
今は見る影もないが、在りし日の鏑木の精力に溢れた一挙一動を思い出すと、現在の憔れぶりが信じられなかった。鏑木は蘭子の呼びかけにも反応せず、大きく仰けぞったり、ガクンと俯いたりして、「ああ」だの「うう」だのと呻き声を洩らした。
咲は鏑木の変貌ぶりを直視できないのか顔を背け、ポケットから取り出したハンカチで口元を押さえた。
医者がカルテを見ながら、淡々と鏑木の実情を告げた。
「伯爵夫人。百聞は一見にしかず、です。誠にお気の毒ですが、濫用した薬物が鏑木様の精神を完膚なきまでに破壊してしまったようでして……。今となっては、ご自分のことすらもお分かりになりません」
堪えきれなくなったのか、蘭子は立ち上がった。車椅子の前まで行くと、鏑木の前で中腰になった。
「惟光様、惟光様。おわかりになりませんか。妾です。蘭子です」
蘭子の呼びかけも、鏑木には届かないようだった。
鏑木は落ち着きなく辺りをきょろきょろと見渡し、尚も意味不明なことをブツブツ呟いている。
すっかり廃人と化したかつての婚約者に、蘭子は大きく嘆息した。これはもうどうしようもない。医者の言うとおり、現代医学を以ってしても回復は難しいだろう。
「ああ、なんてことかしら」
嘆く蘭子に、咲が歩み寄ってきて華奢な肩にそっと手を置いた。
そのまま咲は、蘭子を抱きかかえるようにして一旦椅子へ戻した。
医者が再び重い口を開く。
「恐れながら、ここで患者と接していてもお辛いだけかと。我々は一旦退出いたしましょう。綾小路様はここでしばらくお休みになって、後程一階へお越し下さい。事務のお手続きがございますので。入院費のご相談ですが……」
「わかりました」
蘭子はしおらしく答えた。
医者と看護婦は一礼し、鏑木を乗せた車椅子と共に出て行った。
面会室には、蘭子と咲だけが残された。
「……信じられないわ。あの晩一体何があったというの」
少しして、探るように呟いた蘭子の声は至極冷静だった。元婚約者でありながら、鏑木への憐憫は感じられなかった。入院費をはじめとして、彼の面倒は見るつもりではいる。だが、それだけだ。蘭子は今、別のところへ思考を飛ばしている。
思慮深い青の瞳は、次に傍らの咲へと向けられた。
「咲、お前はどう思う。惟光様のことよ」
急に話を振られた咲は、いかにも悲しげに声を震わせた。
「恐れながら……鏑木様はあの夜、極限の理不尽、つまり不幸な事故に遭われたのではないかと思います」
「事故……。事故、ねえ」
「まさか薬物の中毒とは……思いもしませんでした。鏑木様がそのようなことをなさる方とは思わず……いつから心身を蝕まれていたのでしょうか。悲しゅうございます」
「そう。では何故、お前は先程惟光様を見た時笑ったの?」
「……」
蘭子の突然の指摘に、咲は押し黙った。蘭子の声に怒りは感じられない。
「笑っておりました……でしょうか」
「ええ、本当に微かだけど。ハンカチで口を押さえながら、確かにお前の嘲笑を聞きました。……なんと非情な女。お前は惟光様を慕っていたのではなかったの。取り入って、愛妾になろうと画策していたのでは。屋敷の者は皆そう思っていたわ」
蘭子はそこでゆっくりと振り向き、咲を睨み据えた。だが、咲は蘭子の視線に怯まなかった。不適にも主人を見つめ返した。
「いいえ、とんでもありません。私は只の使用人。鏑木様も大切な御方ではありますが、あくまでお嬢様の夫君という認識です。私の主人は、お嬢様お一人。天に誓って、この忠義の心に嘘偽りはありません」
「随分と大層な言い回しね。まるで芝居のようだわ」
「この数カ月、私の浅はかな言動から誤解をお招きしたことはお詫びします。ですが、私は決してお嬢様を裏切ってはおりません。私の役目は常にお嬢様をお助けし、お守りすること。さながら女騎士のように」
「女騎士ねえ……。それなら、さくらで充分間に合っているのだけど」
蘭子は、ほとほと呆れたように息をついた。
咲は縋るようにして、蘭子の手を両手で包み込んだ。
「お嬢様、どうか信じてくださいませ」
咲の目が、ふわりと儚く潤んだ。みるみるうちに透明な水滴が盛り上がったかと思うと、はらはらと
けれども、蘭子は咲の狡猾な演技には乗らなかった。
咲の手を振り払うと、そのまま右手を振り上げ咲の頬を打った。
パンと威勢のいい音がし、咲はハッとしてその場から半歩下がった。
「お嬢様……」
「あら、女中の身分も
「……」
咲は打たれた頬を押さえながら、さっと指先で涙を拭った。
今度は開き直ったように、したたかに微笑んでさえみせた。全てを見通しているらしき主人の前では、もはや演技は無意味であるらしい。
「親子……。そうですか。お嬢様は、私と男爵の関係に気づいておられたのですか」
「ええ、恐らくは一親等以内の関係だろうと踏んでいたわ」
「……それはいつからでしょう」
「確信したのは、お前に髪を梳かせて、真珠の耳飾りをつけさせた朝からね」
どこか悔しそうに顔を歪ませながら、咲は尚も食い下がった。
「……どのようにしてお分かりになったのです」
「どうということはないわ。古来から伝わる、最も原始的な判定方法を試してみただけ。お前と惟光様には、共通点があることに気づいてね。まず、感情が昂ると二人とも右腕が震える癖が不思議だった。最初は偶然かと思っていたけれど、その他にも身体的特徴が重なればおかしいと思うわ」
「具体的には、どのような特徴でしょう」
「二人共に左手の小指の第一関節が内側に曲がっており、爪の同じ位置に縦の白線が走っていること。次に二人共に三日月耳で、耳介の形が完璧に同じ。この二つは親子遺伝によく見られる特徴よ。そうそう、帝大の山中教授の話では五十パーセントの確率で方向音痴も遺伝するそうよ。お使いに出すと、お前はよく道に迷っていたわね」
「帝大で聴講されていた生物学とは……生物遺伝学でしたか」
「思えばこの屋敷に来て半年近く、お前は妾には何も仕掛けてこなかった。逆に惟光様に露骨に
「私を、花澄様であるとはお思いにならなかったのですか。そう思われるように振る舞ったりもしたのですが」
そこで、蘭子はふふっと声を上げて笑った。心底愉快そうだった。
「……それはあり得ないわ」
「何故でしょう」
「これはお前は知らないことだけど。妾は断片ではあるけれど、花澄の写真を持っているの。彼女の容姿はわからない。でも写真に左手の小指は写っている。花澄の小指は先端までまっすぐで曲がっていない。左手を見た瞬間、お前が花澄でないことはわかったわ。写真を置いていった者のミスかしら。いえ、意図的にそうしたのかもしれない」
蘭子の言葉に、咲の身体からすうっと力が抜けた。
この綱渡りのような半年間、気丈に見えた少女の日々も、また極度の緊張に晒されていたに違いなかった。
「参りました、お嬢様……。ええ、実は私も急いでおりました。父が私の身辺を調べれば、いずれは船橋呉服店から母の伊原静に行きついたでしょう。娘と知れれば命が危なかったので、お嬢様の婚儀前には決着をつけねばならなかったのです」
咲は観念したように、両手を蘭子に向かって差し出した。その瞳は緩やかな諦念に満ちていた。
「さあ、お嬢様。どうぞ私を警察にお引渡しください。私はお嬢様の婚約者に毒を盛り、生ける屍にしたのですから」
蘭子の反応は意外だった。咲の降参に、彼女はしれっとして答えた。
「あら、どうしてお前を捕らえなくてはならないの。惟光様は、偶然にも不幸な事故にお遭いになられたのよ。休暇を与えていた使用人を糾弾し、罪を負わせてどうなるのかしら」
「お嬢様……」
蘭子は、あえて咲の罪を問わなかった。
平民が華族を、それも女中が私怨で主人を社会的に抹殺したとなれば、世間に真実を暴くことはできても、当人は極刑か無期懲役を免れない。警察に引き渡せば、咲の人生は十六にして終わったも同然だった。
蘭子は蘭子で、鏑木と正式に結婚すれば、財産狙いで殺されていたかもしれなかった。
考え方によっては、咲に助けられたとも言えた。
「さて、お前の正体は同族。華族の一員であるからには、妾もそれなりに敬意を払いましょう。鏑木男爵家令嬢、鏑木咲。父の惟光は廃人となり、妾も早急に彼との婚約を解消するつもりでいます。お前にその気があるならば、嫡子と名乗り出て家督相続や財産相続を主張できるわ」
しかし、咲は蘭子の提案に首を振った。そんなものはいらなかった。犬の餌にもならないと思った。
「いいえ、私は全ての権利を放棄します。今更落ちぶれた貧乏華族の体裁を守って何になりましょう。鏑木家は父を最後の当主とし、以降は爵位を返上し、断絶を望みます。私は只の咲です。伊原咲です。お嬢様さえよろしければ、これからも綾小路家の女中で在り続けます」
「よろしい。ならば妾も、これ以上お前の正体について言及や他言はしません。毒や薬に詳しいならば、綾小路の影となり、古代
蘭子は、揶揄するようにロクスタの名を出した。当然、冗談である。咲は歴史上最も有名な女毒薬使いの名を聞いて、思わず吹き出しそうになった。
何故ならロクスタが仕えた主人、希代の悪女・アグリッピナとその息子である皇帝ネロは残虐な暴君だったからである。
「……それでは、お嬢様はさながら暴君ネロでございますか。いいえ、暴君でも構いません。その注意力。洞察力。絢爛な美貌。やはり、あなた様は私が仕えるべき御方です。理想の主君と恋焦がれ、叶わぬ想いに身悶えるに相応しい御方です。小悪党の父と結婚せずに済んで本当に良かった。気高く美しく、そして賢いお嬢様は、最も強き者。則ち最強なのですわ」
咲はうっとりと、心酔したように蘭子を褒め称えた。反対に蘭子は背筋がすっと寒くなった。咲の忠義は、さくらと違ってどこか不気味である。
「お世辞は結構よ。お前が言うと気色が悪い。にしても、ここは空気を吸っているだけで身体が強張りそう。屋敷に戻ってお茶にしましょう。咲、お前が淹れてちょうだい」
「はい。それからお嬢様、実は近々ご紹介したい方がおります。父の過去を調べていた記者なのですが……。彼からは私たちが知らない話を聞けるかもしれません」
「では、近々屋敷に呼びましょう」
鷹揚に言って、蘭子はハイヒールを鳴らして扉へと向かう。
廊下は暗い面接室とは打って変わり、
蘭子は鏑木の黒い影から解放され、伯爵夫人の威厳を満面に浮かべて歩き出した。
咲の顔も、雲一つない蒼天のように晴れ晴れとしていた。
さて――。
ここまで記した通り、伊原咲、野生ともいうべきいばら姫の仇討ちは成就した。
しかし、まだ謎は残っている。
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