幕間
銀座は晩春とも初夏ともつかぬ季節の狭間で、雲一つなく晴れ渡っていた。
午後を回り、ランチの客も捌けた頃、カフェー「しらゆり」の扉に貸切の札がかけられた。店の中はがらんとし、カウンターに制服姿の少女が一人座っているのみとなった。贅沢なことに、彼女一人で貸切にしたようだ。
咲はいつものお使いの途中に、書店と「しらゆり」に立ち寄った。
彼女の手には、発売されたばかりの「東京奇譚」の最新号があった。
「夏の怪奇特集第一弾」と銘打ったおどろおどろしい表紙には、「絶世の美男子・鏑木男爵の鬼畜残忍な過去。元妻は全員殺されていた?」の見出しが躍っている。記事は渡利が書いたものに違いなかった。彼にとって、鏑木の薬物中毒による突然の退場は不本意だったろうが、一歩間違えば命を失っていた。告発もできず、法廷にも引き出せなかったが、
シモンが洗い物をしながら、珈琲を飲む咲にしみじみと言った。
「じゃあ、これで大団円てことね」
「私に関してはね。悲願は遂げられたわ。ありがとうシモン。あなたが協力してくれたおかげ」
そう、と呟いた後、シモンはどこか寂しそうに笑った。
「咲、ごめんね。兄さんのこと。ずっと謝らなくちゃって思ってたんだけど」
「……」
黙って顔を上げた咲に、シモンは深々と息を吐いた。
「庇うわけじゃないけど。兄さんはね、優しい人だったのよ。静さんを本当に愛していて、婚礼の日を今か今かと心待ちにしていた。だからこそ彼女が妊娠したと知った時は酷く動揺して
咲はシモンの兄に対しては何の感情もないのか、あっさりと答えた。
「当然よ。船橋呉服店にとっては、到底受け入れられることじゃないわ」
「……ったく鏑木の野郎が狼藉を働かなければ、あんたは兄さんの娘で、あたしの姪だったのにさ。悔しいったらありゃしないわ。
でも兄さんは、あんたたち母子を見捨てたことをずっと後悔してたの。病気になってからはしきりに静さんに会いたがってさ……その頃、彼女は既に仏さんだったわけだけど。結局兄さんも死んじゃって、次男坊のあたしが店を継いで。ま、今となっては老舗に生まれて良かったと思ってるわ。積み上げた伝統と信頼というのは偉大なもんね。おかげであんたを綾小路家に送りこめたもの」
「……シモンが私を探し出したのは、罪滅ぼしみたいなもの?」
咲の問いに、シモンは少し照れたように頬を赤らめた。
「違うわ。実を言えば、あたしも静さんに会いたかったの。彼女はあたしの初恋の人だったから。兄さんの手前、生前は言い出せなかったけど」
それは咲も意外だったらしく、思わず持っていたカップを取り落としそうになる。
「……そ、そうなの? てっきりシモンは男の人が好きだとばかり。鏑木が好みとさえ言っていたじゃない」
「違うわよ。あたしは人そのものが好きなの! 男とか女とか、性別なんて瑣末なことよ」
「……もしかして私の後見人になったのも下心あってのこと?」
それはとんでもないとばかりに、シモンは露骨に嫌そうな顔をした。
「はあ? ちょっと、冗談はやめてよ。あんた、静さんとは外見も中身もちっとも似てないじゃない。あんたはね、間違いなく鼻持ちならない華族の
唾を飛ばしながらの糾弾に、咲は微苦笑する。
「酷い言いよう。……最も私もそれは認めるけど」
「それでも……あたしは信じてるから。あんたにはちょっぴり、ほんのちょっぴりかもしれないけど良心がある。根が悪道であっても、父親のような外道には堕ちないわ。そんなことになったら、あたしが身体を張って止めるんだから。覚悟してなさい」
「ありがとうシモン……。大丈夫よ」
咲は自身に言い聞かせるように呟くと、香り高い珈琲を飲み干した。
「で、今後はどうするの。目的は達成したんだし、女中は辞めて帰ってきたら。呉服店の方を手伝ってくれると助かるんだけど」
シモンの提案に、咲は少し逡巡したが、んーと気のない返事をした。
「……やめておくわ。実を言えば、着物より洋服の方が好きなの。綾小路家の制服も洋食の賄いも気にいっているし。それに私……お嬢様のことが、個人的にとっても好きだし」
「ゲエ。何それ。気持ち悪い。忠義心でも芽生えたの」
「違うわよ。忠義・忠道は先輩の領分だわ。私はただ、お嬢様のことが純粋に好きなの。お傍に
うふふと妖しい笑みを零す咲に、シモンは冷静に突っ込む。
「……あたし、今から綾小路家に行って匿名で投書してこようかしら。伯爵夫人の身の安全のためにも、お宅の腹黒淫奔な女中を解雇すべしってね」
とてもじゃないが、人のことを言えたものではないとシモンは呆れた。咲の方こそ「美しいもの」に対しては、性別の頓着はないようだ。
尚も咲はどこか夢見心地に呟いた。
「今日も午後からお茶会なの。お嬢様が渡利さんを招いたのよ。帰ったら念入りに準備しなくてはいけないわ。お湯の温度、茶葉の選定、茶葉の量、蒸らす時間、カップに注ぐ頃合い。お嬢様はお茶一杯にも厳しいのよ」
「あんた、変なハーブ入れるんじゃないわよ。にしても、お嬢様も記者を自宅に招くなんてね。随分変わったもんね。以前は平民と口も利かない主義だったんでしょ」
「それは……私もよくはわからないけど、外にお出かけになるうちに色々吹っきれてしまわれたようよ。根はたぶん気さくな方よ。ただお立場が窮屈なだけ。……それにお嬢様は答え合わせをされたいのだわ」
「答え合わせって?」
「まだ謎が残っているもの。花澄様の行方もわかっていないし」
咲はポケットから一通の手紙を取り出し、シモンに手渡した。
封筒は、表面にも裏面にも何も書いていない。シモンは封筒から皺くちゃの便箋とチラシを取り出した。
紙面には、新聞から広告から切りとられたカタカナや平仮名を組み合わせて、こう書かれていた。
イバラさキ姫
このロケッとぺんダントをモつテ、奇のコウジ家へイクべし
ヤがテ姫のえんじや狂べし
姫ノちからデ青ヒゲノふこうノ連さヲ断つベシ
シモンは何度も奇怪な手紙を読み返し、うーんと唸った。
チラシを開いてみると、それは幻想影絵芝居「新・青ひげ」の公演案内だった。
見覚えがある。誰が来て置いていったのか、いつの間にかしらゆりにあったものだ。
「演者。……縁者。来るべし……。これは鏑木男爵のことよね」
「半年前、婚約報道の直後に届いたこの手紙が全ての始まりだった。封筒の中にはこの手紙と、熱でひしゃげたロケットペンダント、そして公演案内のチラシが入っていたの。ロケットペンダントは、おそらく『当主の証』ね。
送り主は、私を伊原咲と知って父への復讐を示唆してきたのよ。私はこの会ったこともない送り主の言うままに、綾小路家へ潜りこんだ。父の悪行を止めるためにね。……でも、送り主の本当の狙いは別にあるわ。恐らく私は
「あんたを綾小路花澄と思わせたかった……てことかしら」
「そう。そのために
「ねえ、送り主ってのは誰なの」
シモンは怯えたように声を顰めた。
咲は、シモンが持ったチラシを指差した。
「この『新・青ひげ』の台本を書いた人物ではないかしら」
「どういうことよ」
「私たちは……たぶん黒幕が書いた舞台の役者なのよ。操り人形と言った方が正しいかもしれない。ねえ、シモンは青ひげの話は知ってる」
「仏蘭西の童話でしょ。詳しくは知らないわ」
「もし、黒幕が青ひげのあらすじ通りに話を進めたいのなら、おかしいわ。青ひげが殺した妻は全部で六人。お嬢様が七人目の唯一助かった妻としても、犠牲者の数が合わない。お母様、鏑木の前妻三人合わせても四人。あと二人犠牲者が足りない」
「やだ。意味がわからないわ。まだあと二人死ぬってことなの」
シモンは、お手上げとばかりに両手を軽く挙げてみせた。咲は真剣にチラシを見つめながら、何事かじっと考え込んだ。
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