彼女の死亡通知
綾小路邸の新館二階にある客間で、渡利は緊張のあまり石のように固まっていた。
蘭子から突然招待を受けて慌てふためき、急遽給料を前借りして
舶来品らしき家具、調度品、絨毯も見たことないものばかりだ。神田の下宿の四畳半とは雲泥の差というか、雲の上すぎて比べものにならない。まずは視覚で綾小路家の財力に圧倒され、身分の上でも富裕な面でも、住む世界が違うことを思い知らされた。
それにしても、まさか初訪問で女主人の私室に招かれるとは思わなかった。
渡利は蘭子の厚遇の意図がわからず、怯えてすらいた。咲が出した紅茶や
さらに正面のマホガニーの肘掛椅子に深く腰かけた蘭子の、神々しいまでの美貌と威厳が渡利を圧倒した。間近で見る彼女の美々しさは完全無欠と言って良かったが、かつて渡利が評したような冷たい仏蘭西人形ではなかった。
ふくよかな胸は僅かに上下して呼吸をし、精緻な貌には確かに表情があり、
彼女は肌や髪や目の色こそ違えど同じ人間、同じ言葉と文化を共有する同胞だった。渡利は、婚約会見の頃の中傷じみた発言を恥じた。
さて、と蘭子は厳かに口を開いた。
「咲とあなたの個別の事情に関しては、妾は関知致しません。鏑木男爵のことは決着したと認識しています。渡利さんも色々思うことはあるでしょうが、そこは納得してくださいな」
「はい」
伯爵夫人自らに諭されて、いいえとは言えない。そこは渡利もおとなしく頷いた。鏑木は薬物中毒で廃人となり、おそらくもう病院からは出てこられない。彼は充分に罰を受けたのだと思う。
「しかし、まだ気になっていることがあります。異母妹の花澄のことです。妾が花澄を知ったきっかけはこれでした」
蘭子は、そこで章浩のみが写った細長い写真を渡利の前に置いた。渡利の後ろに立った咲も黙って写真を注視する。
「これが、亡くなった父の部屋に落ちていました。誰かが部屋に侵入し、妾が見つけるよう故意に置いていったと考えられますが……」
「これはまた奇妙な。左半分には誰が写っていたんでしょう」
「花澄でしょう。ですが、左の手指以外の姿態はわかりません。家は火事で全焼し、手がかりになるものはこれ以外何一つ残っていません。まるで彼女の存在自体を抹殺したかのような有り様なのです」
蘭子の含みのある言い方に、渡利は山田の話していたことを思い出した。
「あの、そのことですが、俺の友人が少し変なことを……。いや、そいつはもう事故で鬼籍に入っているんですが。その、花澄さんの母親は時游民ではないかって。それから俺を襲ったあいつらも……」
「時游民。それはなんですか」
「あ、いや……」
渡利は言葉を濁した。鏑木の護衛だった仁蔵、以蔵は襲われた夜以来姿を見せない。鏑木の反応を思い出すに、彼らが時游民である可能性は極めて高い。蘭子は時游民自体を知らないようだ。いや、知らない振りをしているだけかもしれない。時游民は甚だ危険な単語である。しかし、彼は決心した。
渡利は蘭子と咲に、友人の記者で死んでしまった山田のこと、山田の掴んでいた花澄と母の明夢の情報、時遊民のこと、そして自分も鏑木の護衛で異形の、およそ人間とは思えない力を持つ仁蔵、以蔵に襲われたことを話した。二人共、渡利の話を遮ることなく興味深く聞き入った。
話し終えると、蘭子は何かに納得したように頷いた。
「そうですか、わかりました」
あっさりとした反応に、渡利は拍子抜けした。
話の荒唐無稽さに呆れられたり、軽蔑されたり、もしくは狂人扱いされてもおかしくないと思っていた。
「あれ、驚かないんですね」
「……妾も、その、思い当たる者がおりますので」
思い当たる者というのは、勿論新宿二丁目に棲む鷹丸と鵄丸である。
彼らの恐るべき速さと怪力、容赦ない殺戮を蘭子はこの目で見た。仁蔵、以蔵と同じく彼らも人間とは思えない。
蘭子は鷹丸の言動を思い出した。
確か彼は、「華族から、何度も人探し(という名目の暗殺依頼)を請け負った」と言っていた。あれは、自分たちが上流階級と繋がっていることを暗に示していたのか。蘭子を終始小馬鹿にした態度だったが、華族以上の者は時游民を使役するのが常識なのか。だとしたら、彼は色んなヒントを散りばめた軽口を叩いていたように思う。
「では、花澄は時游民の血を引く可能性があるのですね。鏑木の護衛もそうだったのなら、彼らが帝国の中枢に暗躍しているというのも本当かもしれません。もしかしたら、明夢と花澄の殺人にも関係しているのかも……」
「ですが、伯爵夫人。まだ花澄さんは死んだと決まったわけでは」
「妾もそれを信じたいのですが。しかし残念なことに、花澄は既に法律上は死者と成りました」
「と言いますと?」
蘭子は咲に命じて、書類を何枚か持ってこさせた。
渡利は卓上に並べられた書類を端から順に読んでいった。それは五年前に章浩が出した花澄の捜索願の写しと、三日前に宮内省から届いた綾小路花澄の死亡通知書だった。
蘭子は書類を指差しながら、一枚一枚丁寧に説明した。
「行方不明になった者で、家族が望む場合は警察に捜索願が出されます。当家もそうで、父が秘密裏に花澄の捜索願を出していました。ですが、行方不明者の捜索は満五年で打ち切られ、その後は死亡の扱いとなります。最近になって花澄の件も時効を迎え、生きていた時の全ての権利を失いました。華族名簿からも名前を抹消されたはずです。父は妾を疎んじていましたから、花澄を失って意気消沈し、やがて生存を諦めたのでしょうね。晩年は横暴な振る舞いをし、他所に後継ぎを設けようとしていました」
「つまり、花澄さんが生きていたとしても、今となっては家督相続権はない……。もしかして、明夢を殺した犯人はこれを待っていたのか」
「ええ。そうでしょう。でも花澄とその母が、妾の襲爵を願う者に殺されたのだとしたら、やはり寝覚めが悪い。犯人は罰されるべきと考えます。……そして、実はその犯人についても心当たりがあります」
「本当ですか。どうしてわかったのです」
蘭子は懐から小さな紙を取り出して、渡利に見せた。
渡利は紙を書いてあることを声に出して読み上げた。
「『野原咲ハ野花ニアラズ ユメマボロシノ花澄ナリ』……なんですかこれは」
「これは妾自身が筆跡を誤魔化すために、左手で書き殴ったものです。専門家に鑑定されればわかってしまいますが、屋敷の者は
「えっ。どういうことなんです」
「ちょっとした罠を仕掛けてみたのです。しかし、これからどうしたものやら……」
蘭子は悩ましげに首を振り、窓の方を見た。大きく溜息をつく。
彼女の中に迷いがあるのが渡利にもわかった。
そこに、それまで黙っていた咲が口を開いた。
「お嬢様、私に良い考えがこざいます。どうかお任せくださいませ」
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