三、素人探偵の単純

こちらの芥川龍之介



 明新社めいしんしゃの記者、渡利公博きみひろの職場と下宿は共に神田にあった。

 実家は千葉で商売をしており、裕福でもないが貧乏でもなく、渡利も高等学校まで出してもらった。高校を卒業できたくらいなので勉強はそれなりにできたが、大学には進まなかった。

 気楽な三男坊で、実家は兄が継いだものの家業を手伝う気はなく、東京に出て日雇い仕事やバーのボーイなどしてふらふらしていたところ、運よく中堅出版社「明新社」に拾って貰った。ここ三年ほどは大衆誌「東京奇譚とうきょうきたん」の記者をしている。記者の仕事はそれなりに気に入っていたし、この未曾有みぞうの不景気に転職などは考えもしない。

 給料泥棒とそしられない程度には働き、適度に遊び、人並みに失恋なんかもして飄々ひょうひょうと暮らしていた。

 月一回発行の東京奇譚は「新聞が書けない帝都の秘密を暴く」情報誌をうたい、基本は時事を中心としているが、非科学的な迷信や伝承、怪奇譚、都市伝説といったオカルト寄りの記事も多かった。作家の連載も怪奇ものか、探偵小説がおもだった。


 二月の下旬に差し掛かる頃だった。

 その日、渡利は出社するなり編集長の大木戸おおきどに呼ばれた。

 「朝っぱらからなんだ、茶ぐらい飲ませろ」と心中で毒を吐きつつ、衝立ついたてで間仕切りされた奥の席へ行くと、大木戸は机の上に行儀悪く足を投げ出し、積み上げた資料や雑誌に埋もれるようにして煙草を吸っていた。

 大木戸は入ってきた渡利を視認すると破顔し、よっと手を上げた。

「おう、お早うさん。座れや」

「へーい」

 気の抜けた返事をしつつ、言われるがままに机の前に置かれた丸椅子に腰を下ろす。

 渡利も呼ばれた理由は薄々わかっていた。大木戸は定例の企画会議以外でも、こうして暇な時に部下を一人ずつ呼び、割り振った仕事の進捗を聞いたりネタ出しをさせる。

 大木戸自身が独自の情報網から仕入れたネタを与えて、取材させることもある。

 渡利は聞かれるであろう質問を想定し、背広のポケットから手帳を取り出した。

 パラパラと捲り、上司に話せるようなネタを探す。大木戸は美味そうに煙草を吸うと、灰皿に吸殻をぎゅうと押しつけて火を消した。

「おい、お前知ってるか。俺もさっき知ったんだが、近々芥川あくたがわが文壇復帰するらしい」

「えっ、本当ですか」

 渡利は驚いて、ネタ帳をる手を止めた。芥川と聞いて思い浮かぶのは一人しかいない。

「芥川って、芥川龍之介ですよねえ……。文壇復帰って、やっこさんいつの間に回復したんですか」

 渡利は不思議そうに首を傾げた。

 新進気鋭の小説家、芥川龍之介は若い頃から神経衰弱を患っていたが、病気以外にも様々な世俗の懊悩に苦しみ、とうとう昭和二年に大量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。

 が、以前から周囲にやたらと自殺をほのめかしていたため、発見が早く一命を取り留めた。その後は文筆を中断し、療養中ということになっていた。

「こっちも寝耳に水だ。でも復帰なら復帰つーことで、うちも連載の依頼をしようかと思ってる。しっかし、俺からだとちょいと頼みづらくてなあ」

「なんでですか」

 何げなく尋ねると、大木戸は渡利から視線を外し、ぽりぽりと頬を掻いた。渡利は嫌な予感がした。愛想よく笑いながらも、これは面倒なことを押しつけられるなと思った。

「いやあ、奴さんが自殺未遂したとき、うちは散々『狂言自殺』と叩いたからな。四年も前の話だが、作家どもの記憶力は抜群でしかも執念深い。芥川自身よりも同業の旧友……いや、熱烈な信者というべき輩が厄介だ。どうもウチに恨みを持っているようでな」

「それは事件への見解の相違でしょう。構われたがりの文壇の寵児が、死ぬ死ぬと幼稚に騒いだ挙句に狂言自殺……そういう見方もできると思いますがね。我々は世間が持ってる疑惑を代弁しただけですよ」

「ま、そうは言ってもな。細君や愛人、愛人の子まで巻き込んで過激にあおったことは否めんしな。最終的には俺が直に頼みに行くが、まずはお前が段取りつけてくれ。

 どうも菊池寛きくちかんが帝都新聞と交渉を始めるらしい。こっちもうかうかしてられん。お前なら四年前はウチにいなかったからな。もし過去の記事のことで何か言われても『知らぬ存ぜぬ。私はおりませんでしたので、ハイ』を突き通せばいい」

「わかりました。しかし、奴さん本当に書けるんですかねえ。薬の後遺症で廃人になったって噂もあるし。カルモチンだったかな、今でも中毒だったりして。こっちも迂闊なことは聞けないし、第一俺は純文学なんて高尚なもんはわからないですよ」

 渡利が愚痴をこぼすと、大木戸はハハハと乾いた笑いを洩らした。

「ハハッ、高尚とか。高尚なもんに拘ってる場合じゃないさ。お前、芥川が今復帰する本当の理由はなんだと思う。崇高な文学理念でも芸術的文体の追及でもない。金だよ、金。金しかない。とうとう貯金も借金のつてもなくなって、家計は火の車らしい」

「……それは大変だ」

 あくまでも他人事のように渡利は呟いた。実際他人事であるし、昨今の厳しい世情を考えれば、書かない作家に収入があろうはずがない。

「薬漬けだろうが、気が狂ってようが関係ない。芥川はペンを手に縛りつけても書かざるを得ない状況だ。何せ家には老人と嫁と子供が三人もいるんだ。親友の菊池寛だって、芥川の家族までは面倒見きれんからな。でも仕事の口利きしてやってるだけ菊池はいい奴だし、芥川の才能を惜しんでるんだろ。俺はな、正直死にたい輩は四の五の言わずにとっとと死ねばいいと思ってる。当人も艱難辛苦かんなんしんく溢れる現世に生きるより余程幸せだ。だが、家族からしちゃたまったもんじゃないな。家長が軟弱な家に生まれた子は、間違いなく不幸だ」

「こういうご時世ですからね、尚更ですよ。でも一体どんな小説を依頼するんです? 探偵小説なんてガラじゃないでしょう」

「それなんだが、ネタはある。四年前の奴の臨死体験だ。それを多少おどろおどろしくすれば充分さまになる」

「臨死体験……ですか」

 また胡散臭い単語が出てきたと渡利は思った。勿論、口には出さなかったが。

「ああ、前々から吹聴していたようだが、芥川は自殺未遂をした際に臨死体験をして、それを詳細に覚えているそうだ。当初は精神錯乱と思われて周囲は全く相手にしなかった。けど、その話があまりにも生々しく面白いようでな。その体験を小説にしてしまえばいいだろう」

「どんな体験をしたんですか」

「荒唐無稽な話だ。四年前の七月二十四日の未明、芥川は田端の自宅で睡眠薬を飲んだ。段々と意識が朦朧とし、奴はそのまま死ねる、これで楽になれると安堵した。ところが、そこで不思議なことが起きた。どういうわけか気がついたら、自分は寝巻きのままで、公園の芝生に寝そべっていたっていうんだな。ちょうど夜が明けて、電車が動き出す頃合いだった。浮浪者たちに囲まれて公園から逃げだした芥川は、とにもかくにも自宅へ戻ろうとした。通りすがりの紳士に頼み込んで電車賃を借り、電車に乗った。車内では呑気に婦人と世間話までしたりした。街はいつもと何ら変わりなかったが、行き交う人々にはどこか違和感があった。腰に刀や銃を差した男女は一人も見かけなかった。なんとか自宅に辿り着くと、そこは蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。警官が出入りし、見知った友人も続々と駆けつけてくる。細君や子供らしき泣き声も聞こえてくる。芥川は呆然としながらも、家を囲む野次馬の一人に何が起きたのか尋ねてみた。すると野次馬は答えた。この家の先生が亡くなったそうですよ、と」

「……芥川は自殺に成功した。とすると、芝生に寝ていた方は身体から抜け出した霊魂ってことですかね。自分の遺体を確認し、あの世へ行く前に家族に挨拶をしに戻ってきたとか。……いや、違うな。だったら路上で金を借りたり、婦人や野次馬と会話できるはずがない」

 渡利はうーんと首を捻った。大木戸はそこで、机の上に投げ出していた足を下ろし、真面目に座り直した。

「その通りだ。芥川の肉体はその場に確かに二つ存在していた。一方は自殺を遂げて遺体に、だがもう一方は生きていて意識があった。驚いた彼は、とにかく真相を確かめようと自宅へ入っていった。そこで奴ははっきりと現実を知った。自分は布団の上で冷たい骸になっていた。当然のことながら、家族も外から帰ってきた彼に仰天した」

「そりゃそうでしょうねえ……」

「場は混乱し、しばらく騒動が続いたが、結局家族は生きている方の芥川を受け入れた。死んだ方の芥川は秘密裏に葬られ、生きてる方の芥川はひとまず元の生活に戻った。腹が空くと細君が作る食事を食べ、見舞いに来る編集者や友人たちに会い、たまに子供たちと遊び、眠たくなると寝た。元通りの平凡な生活を送ったが、彼は徐々に周囲の人々の記憶や世界情勢、日本情勢、身分制度など自分が本来いたところとは違う細かい部分に気づいていった。つまり一度死んで公園で目覚めた時から、自分は『よく似てはいるが、全く違う世界』にいたと言うんだなあ」

「はあ……そりゃすごいですね。芥川は異世界においてはもう一人の自分、ドッペルゲンガーであったと」

 渡利は、少しげんなりしながら相槌を打った。

 この臨死体験とやらを信じるつもりは毛頭なかった。突然異世界に飛び、しかもその世界での自分は死んでいて、自分が代わりに芥川龍之介として生きる……。そう言われても、大層な夢を見たのだなとしか思えない。

 全く信じていないという点においては、大木戸も同じらしかった。

「ま、狂人のたわごとだとしても、なかなかウチ向きのオカルト話ではあるだろ。この臨死体験の詳細を書かせて連載しようっていう腹だ。文章さえしっかりしてりゃいける」

「はい、いいと思います。近日中にその線で依頼してきますよ」

 と言いつつも、渡利は仕事が増えたことには憂鬱だった。が、若手の下っ端ゆえに断れるはずもない。

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