懲罰、そして……



 草木も眠る丑三うしみつ時――。

 二階に籠った蘭子は早々にやすんだのか、新館の灯は消えていた。

 旧館はまだ灯りがついており、上階では人がうごめく気配がした。

「あうっ……あっ、やあ……」

 二階の奥の角部屋から、女の悲鳴とも嬌声ともつかぬかすかな声が、ビシッビシッと風を切るような音と共に洩れ出でてくる。

 咲の部屋だった。

 部屋の隅の柱に半裸にされた咲が両腕を縛りつけられており、ドアの方に白い背中を向けている。背中は既に真っ赤に腫れ上がり、幾筋も血がにじんでいた。

 皮の鞭が柔肌に容赦なく振り下ろさる。そのたびに、咲は苦悶の声をあげた。

 団子状に結っていた髪は落ちて乱れ、打たれるたびに華奢きゃしゃな身体に不釣合な大きな乳房がぶるぶる揺れる。哀れな風情ながら、匂い立つような淫猥さをかもし出していた。

 咲に容赦なく鞭を振るっているのはキクだった。

「全く、お嬢様のご命令に素直に従えば、こうはならなかったものを。よりにもよって鏑木様のお慈悲に縋るとはどういうことだい。ええっ?」

 老女は、苦痛に身を捩らせる咲を眺め下ろし、非情な責め句をつむぐ。

 その声は多分に嗜虐の悦びを含んでいた。色眼鏡の奥の目は充血して爛々と輝き、明らかに折檻せっかんを愉しんでいた。

「ああっ」

 一際強く打ち下ろされた一撃に、咲は一際高く叫んだ。

 束縛から逃れようと身を捩り、ハアハアと荒い息を吐いた。

「やっ……どうかお許し下さい。どうか……」

「ははっ、お嬢様がお許しになっても、私はそうはいかないよ。お前の不手際は私の監督不行届になるんだ。全くこんな夜中にねえ、余計な仕事を増やすんじゃないよ」

「……申し訳ありません。あうっ……」

 咲の侘びる声も聞かず、キクはさらに力を込めてバンバンと叩く。

「いいかい、今後は絶対にお嬢様に逆らうんじゃないよ。穴を掘れと言われれば黙って掘り、埋めろと言われれば埋める。それが奉公というもんだ」

「はい……」

「にしても、お前は随分といやらしい声で鳴くね。女中より淫売の方が余程稼げるのではないのかい。カフェーの女給にでもなって、客に身体をまさぐられる方がお似合いだ」

 キクは舌舐めずりをしながら、咲を卑猥な暴言で辱しめた。しかしその声は果たして彼女の耳に届いたのかどうか……。

 咲はとうとうその場に崩れ落ちてしまった。あまりの痛みに気絶してしまったようだ。

 床にのびた咲を見てキクはちっと舌打ちした。後ろから咲の髪を乱暴に掴んで引き起こそうとした。意識を戻させて、折檻を続行するつもりだった。

 しかし、そこに新たな声が響いた。

「やめなさい!」

 ドアを開け、勢いよく部屋に飛び込んできたのは愛刀・殿春を持ったさくらだった。

 さくらは自分の部屋で床についていたが、深夜の物音と微かな悲鳴で咲が罰を受けていることに気づいた。それでもしばらくは様子を伺っていたのだが、鞭打ちがあまりに長いのに、いてもたってもいられなくなったのである。

 予期せぬ闖入者ちんにゅうしゃにキクは振り返り、鈍く光る薙刀に目を見開いた。彼女は瞬時に右手に持っていた鞭を放り投げ、素早く逆手に持ち変えると腕を振り上げた。

「お前は……さくら!」

「やっぱり……。なんて酷いことを」

 さくらは叫ぶと、キクに向かって殿春を突きつけた。怒りを湛えた凛冽の瞳が、キクを真正面から睨み据えた。念のため殿春を持って来て良かったと思った。薙刀を本気で振るうつもりはないが、暴虐ぼうぎゃくを働く者へは牽制けんせいになる。

 二人は無言で睨みあったが、先に諦めたのはキクの方だった。構えていた腕をあっさりと下ろした。どう足掻いても、鞭では刃物に対抗できないことを悟ったのである。

 さくらはそれを見ると、薙刀を構えたままじりじりと倒れた咲に近づいた。キクの動きに注意しながら、片手で血にまみれた背中に触れた。

「咲、大丈夫なの。今助けてあげるから」

 声をかけても咲はぴくりともしない。

 さくらは、そのまま咲の腕に巻かれた縄を解き始めた。

 それを見て、キクはフフンとせせら笑った。

「さくら、何を勝手なことをしている。罰はまだ終わりではないよ」

「いいえ、いいえ。お願いです。もう勘弁してやってください。これ以上打てば、咲は死んでしまいます」

 さくらの必死の懇願にも、キクは残忍な相好を崩さなかった。手中の鞭を、遊ぶようにしならせる。

「だとしても、お前には関係のないことだよ。使用人が事故で死ぬなんてよくあることさ。私には、この子を罰する権利がある」

 それに、さくらはすかさず反論した。キクの言うことは、いくら権力を持つ華族の屋敷内であってもありえないことだった。

「いいえ、あなたにそんな権利はありません。お嬢様自らお手討ちになるならいざ知らず、いくら上役うわやくとはいえ、同じ女中間で折檻など許されません。それに私は見ていました。確かに咲は無礼を働きましたが、あの後お嬢様にきちんとお詫びしたではありませんか。お嬢様もあなたに鞭打ちなどは命じなかったはず。折檻はあなたの独断でしょう」

 それは図星だったらしく、キクは言葉に詰まる。

「キクさん、これ以上咲を痛めつけるというのであれば私にも考えがあります。この殿春は自衛のために持っていますが、場合によってはここで振るうこともやぶさかではありません。その結果、どんな不幸が起きたとしても私が罰を受けることはありません。そういう生まれですから」

 さくらの覚悟を決めた壮烈な眼差しに、キクもたじろぐ。咲を助けるために自分は引き下がらない、なんなら殿春で切り捨てることも辞さない、そうさくらは宣言したのだ。

 キクからすれば、咲はともかくとして、さくらは甚だ厄介な存在だった。

 使用人の中でも、さくらだけには強い態度には出られなかった。

 さくらは多喜見道場の娘で薙刀の名手だ。女中をしながらも空いた時間に鍛錬を続けていることも知っている。しかし、それはキクにとってたいした問題ではなかった。

 気になるのは彼女の身分である。さくらは平民ではなくれっきとした士族である。強固な身分制度は、何が起きても法的には上位のさくらに有利に働く。さくらがキクに怪我を負わせても、たいした咎めは受けないが、逆の場合はどんな理由であってもキクが罰を受ける。

 キクも愚かではなかった。己の不利を悟って、ここは引き下がることにした。

「……わかったよ。今晩のところは見逃してやろう。だが、今度同じことをしたら、お前も咲もここにはいられなくなるからね」

 捨て台詞を吐くと、キクは自棄やけ気味に壁に鞭を叩きつけ部屋から出て行った。

 廊下まで覗いてキクが完全に去ったのを確かめると、さくらは急いで寝台からシーツを剥ぎ取り、咲の背中にかけた。

「待っていて。すぐに手当てしてあげるから」

 そう言うと、さくらは包帯や消毒薬を取りに部屋を飛び出した。

「ん……、……あ……か、さま……」

 残された咲は悪夢に魘されているのか、何度もうわ言を繰り返した。

 

 

 翌朝のことだった。

 綾小路家に常駐する警備員たちが青ざめた顔で、屋敷へ飛び込んできた。

 門からは少し離れた塀に、何か動物の死骸らしきものが叩きつけられているという。当初は、動物同士の縄張り争いで死んだのかと思い、処理しようとしたが、ちょっと尋常でない有り様だと。それに動物には首輪がついており、人に飼われているもののようだと言った。

 使用人たちは家令の西田を筆頭に外へ出て、現場を見に行った。

 そして、彼らは絶句した。

 確かに、綾小路邸の白い塀のすぐ下、乾いた土の上に動物の死骸が転がっていた。

 塀は飛び散った血でべっとりと汚れていた。血と脳漿のうしょうをぶちまけ、完全に頭が潰れていたが、手入れされた黒の毛並みに見覚えがあった。蘭子の愛犬ルイだった。とても大事にされ、新館の一階で自由に暮らしていたルイだった。

 屋敷の外には出れないはずのルイが、どうしてか勝手に塀を越えて……無惨に死んでいる。

「これは……お嬢様の……。どういうことだ。誰か外へ出したのか。外に出たところを車にかれたのだろうか」

「撥ね飛されて壁に激突したんですかね。……にしちゃ、酷い。頭が完全にぶっ飛んでやがる」

 彼らは異臭に鼻を押さえながら、ルイの奇妙な死を不審がった。

 現場の状況からして車に撥ねられたというよりは、何者に壁に叩きつけられて殺されたように見えた。身体の損壊が酷く、何か故意に強い力が加えられたようにも思えた。例えば工具や機械を用いて頭を叩き潰したような……。それとも別の場所で殺され、その後死骸を塀にぶつけられたのか。

 周囲の民家から何事かと野次馬が寄ってきたのに、彼らはとにもかくにもと死骸を布で包んで屋敷内に持ち帰った。そして、恐る恐るルイの持ち主である蘭子へ報告した。

 起きたばかりの蘭子はルイの死にショックを受けたが、取り乱すことはなく冷静を装った。

 使用人の間で、ルイを外に出した、或いは殺した犯人を探す動きも出たが、それも押し留めた。

 内心は悔しかったが、「犬が事故で死んだだけ」と警察にも届けなかった。

 鏑木との結婚を控えている今、どんな些細なことであっても世間に勘繰られるような醜聞は避けたかった。

 哀れなルイは、邸内の薔薇園の近くにひっそりと埋められた。こんな悲惨な死に方をしてしまうのなら、屋敷の中に閉じ込めず、もっと外に出してやれば良かった。自然の中で遊ばせてやれば良かった。蘭子はそう密かに悔やんだ。

 

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