裏切りの恋



 乱雑な雲は強風に散ってしまい、冷えた夜空に月が神妙に浮かんでいる。

 静寂を打ち破って、綾小路邸の玄関扉がギイと音を立てた。

 辺りを伺いながら外に出てきたのは咲だった。

 咲の後ろには、とことことルイがついてきていた。微妙に距離を置いている。彼女はルイが外に出ないように、注意深く扉を閉めた。

 咲は、しばらく庭を歩き回り、見回っていた下男に声をかけた。

 車を呼ぶようにお願いすると、下男は小走りで門の外で待機しているはずの鏑木の運転手を呼びに行った。

 咲が玄関に戻ると、外套を着、帽子と蘭子への贈り物を詰めてきたらしき革鞄を手に持った鏑木がちょうど外へ出てきたところだった。

「鏑木様、まだ中にいてくださいませ。すぐにお車が来ますから」

 と咲は言ったが、鏑木は白い息を吐きながら黙って後ろ手で扉を閉めてしまった。

 あの後、ダイニングルームを飛び出した蘭子は、キクやさくらの説得にも応じず、二階から降りてこなかった。他の使用人も、主人の勘気に触れたくないのか、それ以上は鏑木には構わなかった。

 その中で咲だけが一人、淡々と鏑木の食事を運び、懸命に給仕を続けた。さらには車を呼び、一人見送ろうとしている。

 彼女だけは主人の懲罰を一切恐れていないようだった。小さな身体に潜む勇気に、鏑木はほんのりと胸が熱くなるのを感じた。

「今晩はまた冷えるな……」

 月を見上げて鏑木がぼやくと、咲は憂いを帯びた瞳で鏑木をじっと見つめた。

「あの、鏑木様。今日はその、助けていただいてありがとうございました」

 畏まって礼を述べ頭を下げる咲に、鏑木の表情も自然と和らぐ。彼は目の前の娘を初めていと思った。

「何、たいしたことじゃない」

「ですが私の所為せいで、お嬢様とのお食事が台無しに……。大変申し訳ございません」

 それに、鏑木はどこか開き直ったように答えた。

「構わん。私は華族といえども最下級の男爵だからな。綾小路家の威光には到底及ばず、この家には婿に入るも同然だ。蘭子さんの言う通り田舎者で、料理の味もわからない。だが、悲観はしてないさ。蘭子さんもさっぱりとしたご気性だ。女王様のご機嫌が直るのをじっと待つさ」

「……お嬢様も酷い。夫君になられる方へのこの仕打ち。咲は悔しゅうございます」

 咲は唇を尖らせて、我が事であるかのように鏑木へのずさんな扱いを悔しがった。

 鏑木は、咲の唇を注視した。桃色の唇はふっくらと柔らかそうで、力を入れたら容易に噛み切れそうだった。

 密かに、この娘の瑞々しい柔肌、その下に脈々と流れる若い血潮を想像した。

 慎ましく纏められた黒髪に、黒鳶くろとび色の潤んだ瞳。これまでは当たり前すぎて気づかなかったが、鏑木は今こそはっきりと確信した。大和の純血の女こそが至善の美であると。

 この極めて和的で、正統なる同胞の美を愛でたいと。咲はまさに理想の造形かたちをしているように思えた。この娘との戯れは一体どのような味で、どれほどの奢侈しゃしな快楽をもたらしてくれるのだろう。

 鏑木は甘美な妄想にふけりながら、それを表面上はおくびにも出さず尋ねた。

「君は……ここへ来てどのくらいになる」

「まだひと月ほどです」

「そうか。ならまだまだ見習いだな。色々辛いこともあるだろうが、頑張りたまえ」

 知らせを受けた警備員が門を開いたのだろう。ヘッドライトをチカチカと瞬かせながら、鏑木の車が邸内に入ってきた。

 二人きりの短い時間が終わり、咲は名残惜しいのか鏑木を見つめたまま切ない吐息を洩らした。ロールスロイスが玄関前に止まると、運転手が降りてきて、鏑木のために後部座席のドアを開けた。

「……お気をつけて」

 咲が声をかけると、帽子を被った鏑木は一度だけ振り向いた。

 車に乗り込むと、車のドアは無情にも二人を隔てた。

 咲は寒さも気にせず車が門を通り抜け、完全に見えなくなるまで、その場にとどまった。

「……」

 鏑木が去ってしまってから、咲は指先で胸の辺りをそっと押さえた。

 そこには肌身離さず身につけているロケットペンダントの固い感触があった。彼女は制服の上からペンダントをぎゅっと握りしめた。

「ええ、見ていてねお母様。私、やってみせるわ……」

 誓うように呟いた咲のかおは、十六の娘とは思えぬしたたかな妖艶ようえんさに満ちていた。

 

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