綾小路蘭子の秘密
芥川の件はこれで済んだとばかりに、大木戸は両手で膝を叩いた。
「じゃこれは良し。次の話な。綾小路伯爵夫人の件はどうなった。次の華族特集に間に合いそうか」
「それはこの前お話したとおりです。会見で本人を間近に見ましたけど、ありゃすごい。どこからどう見ても大和の顔じゃない。ただ不義の子説は他紙が散々書いてるんで、赤ん坊の取り替え疑惑か影武者路線でいこうかと」
「馬鹿、いくらなんでも苦しすぎる。赤ん坊でも影武者でも、やるならもっと穏便な人選をする。赤毛で碧眼である必要はどこにもない」
「ですよねえ……」
渡利は、ひょいと肩を竦めてみせた。実際自分で言っていても、無理がありすぎると思っていた。大木戸は渡利の顔を面白そうに眺め、意味深に笑った。
「伯爵夫人の出生ネタは、ここいらで打ち止めにした方がいいかもしれん。やりすぎて名誉棄損で訴えられたら適わん。うちみたいな弱小なんてあっという間に潰される。それに……俺は確信している。伯爵夫人は綾小路章浩の
「え、それってどういうことなんです」
上司からの予期せぬ断定に渡利は驚いた。
「まあ、待てよ。一服させろ」
大木戸は再び煙草を取り出し、マッチで火をつけた。大きく吸ってから、天井に向かって口を
「……お前、
「ええ、そりゃまあ。親の持つ劣性遺伝の特徴が、子ではなく孫に出るってやつでしょう。優性遺伝なら、親の遺伝形質がそのまま子供に現れる。具体的には髪の色や血液型って聞きますけどね」
「そうだな、肌の色は黒が優性、白が劣性だ。髪も同じだな。その劣性遺伝がだ、確率何百万分の一か知らんが、突然変異で
「……曾孫に。つまり、綾小路蘭子の先祖に西洋人がいたってことですか」
「そうだ」
「どうなんですかね。鎖国中も貿易をしていた長崎界隈ならともかく、綾小路家は元は京都の宮家ですよ。何百年も近親婚を繰り返してきたガチガチの保守なのに、そんなことあり得るんですかね」
「別に父親の血筋とは限らんだろう。母方の藤堂家は、元は『入江』という平民だ。ここは商人の家系だが、蘭子の母親の祖父にあたる入江
「白人の女奴隷……」
「奴隷といっても商品じゃない。幕府は奴隷の輸入を厳しく禁じていたからな。どっかから
「千代美……。伯爵夫人と同じ容姿ですね」
「不思議なことに、千代美は何年経っても若く美しいままだった。周囲が妖魔じゃないかと怪しむほどだったらしい。やがて千代美は入江家に居づらくなったのか、成人した息子を置いて行方をくらませた。
で、その千代美が産んだ息子ってのがすこぶる優秀でな、末弟にも関わらず、他の兄弟を押し退けて入江家当主に収まっちまった。そいつが入江忠道だ。蘭子の祖父だな。忠道は秀才中の秀才で葡萄牙語、
「そう上手くはいかなかったってことですよね」
「ああ、どういう拍子か、曾孫の蘭子に西洋の血が色濃く出た。千代美の持つ劣性遺伝子が現れたんだな」
「色濃くってレベルじゃないですけどね。何がどうなったらああなるんだか。ありゃいっそ呪いの
今の話が本当なら、奴隷だった千代美は世界を漂流した末、最期は遠い異国の日本で生涯を終えた。彼女の筆舌に尽くしがたい苦しみ、悲憤、怨恨が数代を経て無情にも子孫に
大木戸はフンと鼻を鳴らした。
「呪いか。また非科学的なモンが出て来たな。最も俺らはそれで飯を食ってるんだが。とにかくだ、綾小路蘭子は章浩の子だよ」
「大木戸さん、今の話は何処で仕入れてきたんです」
「宮内省の貧乏役人だよ。酒を
「へ……宮内省」
予想外の組織の名に、渡利は素っ頓狂な声を上げた。
「奴が言うには、綾小路の襲爵の手続きはすんなり通ったようだ。綾小路蘭子は、宮内大臣の下問に『自分の特異な容姿は、極めて希な先祖返りである』と答えたらしい。先祖の
「なるほど。じゃあ最初から知ってたんだなぁ、伯爵夫人は」
「襲爵があっさり認許されたところを見ると、世間が騒ぐほどお上は外見上の色なんて気にしてないようだな」
「あの、今大木戸さんが言った説を掲載するのはどうなんです。高貴な伯爵夫人の曾祖母が白人の女奴隷っていうのは、読み物として受けるんじゃないですかね」
「所詮は嫁の実家の話だ。パンチが弱い。忠右衛門が綾小路のお殿様なら面白くなったかもしれないが」
渡利はうーむと唸った。元々、彼は綾小路蘭子にはさほど興味はなかった。
伯爵夫人の出生云々より、今度彼女の夫となる鏑木惟光の方が気になっていた。
「なら、やっぱり俺は鏑木の方を調べますよ。奴さんも新華族の一員だが、旧家の綾小路家より余程胡散臭いんで」
「鏑木男爵か……。身分の分け
「どうしても気になるんですよ。人格者と評される割にはどうも……」
「まあいい。時間はある。綾小路家と鏑木家の婚儀は六月だからな。鏑木が臭うなら、式直前にスッパ抜けばいい。しっかりやれよ」
大木戸は渡利に向かってひらひらと手を振った。もう行けという意味だった。
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