偶然にしては……?



 夕暮れ時の、真っ赤な空の下、渡利は銀座の交差点をぼんやりと歩いていた。芥川家訪問の帰りだったが、やるせない徒労感に包まれていた。

 渡利はあらかじめ直接芥川に電話をし、在宅を確認してから原稿依頼におもむいた。誌名も告げたが、それについて何か言われることはなく、電話での反応は悪くなかった。

 しかし、実際家まで行ってみると本人は体調が悪くて臥せっており、面会は叶わなかった。対応した芥川夫人は、「主人は気鬱きうつの病の発作が起きて、とてもじゃないが人様にお会いできる状態ではない。お約束を守れなくて申し訳ない」と玄関に平伏して何度も侘びた。渡利は病の詳細を尋ねたが、夫人は言葉を濁した。

 電話をしたのは昨日である。面会日時も芥川の方から指定された。それなのに突然会えないと言われて、渡利は憮然とした。わざわざ呼びつけておいての嫌がらせなのかとも勘繰った。菊池寛が代理で交渉しているという帝都新聞の件も気になる。帝都新聞と連載の話がまとまって、ウチは断る算段なのかもしれない。だが、侘び続ける夫人の態度は誠実そのもので、嘘を言っているようには見えなかった。実際、夫人は渡利が持ってきた連載の件をとても喜んでいたし、「仕事に関しては必ず芥川より連絡をさせますので」と約束した。

 それで渡利は仕方なく、名刺と手土産の菓子折、「新世界」と仮題をつけた企画書を渡して芥川家を辞した。残念ながら本人には会えなかったが、連載の話はこのまま大木戸に渡してしまっても問題ないと思われた。

 

 有楽町で降りて銀座通りの雑沓を歩きながら、それにしても疲れたと嘆息する。

 このまま神田の会社へは歩いて戻るつもりだったが、どこかで一休みしたい気分だった。わざわざ有楽町で降りたのは、神田周辺の店では同僚や知り合いに会う可能性が高いからだった。

 渡利は安く休憩できるところを探して、裏道へふらふらと入っていった。

 細い路地の先に、カフェーの看板を見つけて覗いてみる。店名は「しらゆり」とある。

 カフェーと銘打ってはいるが、一番の目玉である女給の姿は見えない。どうやら風俗の方ではなく、純喫茶のようだ。

 ピカピカに磨き上げられた硝子ガラス越しに青色のソファが見えた。店内は空いているようだ。ここなら昼寝もできるだろうと踏んで、渡利は店内へ足を踏み入れた。

「いらっしゃーい」

 カウンターの中から、野太いながらも甘ったるい響きの声がした。

 坊主頭のマスターがにゅっと頭を出し、満面の笑顔で出迎える。

 渡利は彼の女のような言葉使いと巨躯に驚きつつ、店の奥を指差した。

「一人なんだけど、あのソファに座ってもいいかい」

「いいわよぉ。でもお客さんの入り具合によっては移動してもらうけど」

 やけに馴れ馴れしいが、嫌な気分にはならない。渡利は曖昧に笑うと、その場で珈琲と自家製らしきケーキを注文し、ソファ席の奥に腰を下ろした。

 暫くして、珈琲とケーキが運ばれて来ると三口ほどでぺろりと平らげ、背もたれに身体を預ける。

 他に客はおらず、クラシックが流れている他はとても静かだった。

 すぐに心地よい眠気が襲ってきて、渡利はハンチング帽を目深にかぶり両目を閉じた。そのまま意識を手放そうとした、その時だった。

 カランとドアが開く音がした。店に誰か入ってきたようだ。

「シモン」

 若い女の声がした。渡利は新たな客を内心意外に思った。

 確かにケーキは美味かったが、こんな裏道の小さな店に若い娘が一人でやってくるものなのだろうか。なんとなく気になって、渡利は目を開けた。

 カウンターの前に、小柄な少女が立っていた。

 灰色の地味なワンピースを着ていて、三越の紙袋と風呂敷を持っている。

 差し込む夕日を受けた白いうなじが眩しくて、渡利は目をすがめた。横顔しか見えないが、ハッとするほど顔立ちが整った美しい少女だった。

「あら、咲じゃない。どうしたの」

 店の奥から先程のマスターが出てくる。

 マスターがシモンで、咲というのが少女の名前のようだ。渡利は眠ったふりをして、二人の会話に聞き耳をたてる。

「あんた、もう出歩いて大丈夫なの。背中の傷は治ったの」

「ええ、もう大丈夫。今日は三越にお使いがあって、そのついでに寄ったの。私用だけど少し珈琲豆を分けてちょうだい。ここのは美味しいから」

「それはお安い御用だけど……、モカでいいかしら」

 咲が頷くと、シモンはカウンターの下から厚手の布袋を取り出し、スクープで珈琲豆を入れ始めた。パラパラと乾いた音を立てながら、豆が袋に吸い込まれていく。

 咲は、背中の傷とやらが痛むのか、時折顔をしかめた。それに気づいたシモンは、咲にすっと顔を近づけて声を顰めた。

「あんた……やつれたわね」

「そうかしら」

「あたし、心配だわ。あんたのお勤め先のことよ。綾小路蘭子ときたら、先代同様に癇癪かんしゃく持ちの暴君らしいじゃない。あの顔だって、匈牙利ハンガリーの残虐な伯爵夫人、エルジェーベト=バートリの生まれ変わりだとか。屋敷からは毎晩女の悲鳴が聞こえてきて、行方不明になった女中もいるとか……。これは半信半疑だったけど、あんたが鞭で打たれて確信したわ」

 綾小路の家名と、鞭打ちという物騒な単語に渡利は興味を持った。

 蘭子が、女吸血鬼のモデルになったバートリ伯爵夫人の生まれ変わりというのは眉唾すぎるが、このか弱そうな少女が綾小路邸で折檻を受けているというのは気になる。

 咲は咲で、シモンの懸念を否定しなかった。

「そうね。私も例外じゃないわ。お仕置きの後は二日も起き上がれなかったし」

「華族のお屋敷じゃ、そんな酷いことがまかり通っているのね。まるでみやびな牢獄だわ。いっそ辞めてしまえと言いたいくらいよ」

 憤慨して語気を荒くするシモンに、咲は緩く首を振った。

 懐から金のロケットペンダントを取り出すと、あがめるように光にかざした。

 ペンダントの表面の彫られた野茨の紋様に、渡利は目を見張った。これはどこかで見た覚えがある。下の方の熱で溶けたような歪み、黒ずみもはっきりと視認できた。

「仕方ないわ。私とお嬢様は浅からぬ縁。今は耐える時よ」

 咲の落ち着いた声に、シモンも深く頷く。

「そうね、悲願を遂げるためだもの。……あ、そうそう。頼まれていたものも入れておいたわよ」

「ありがとう」

「薬局じゃ、『あなたが飲むんですか。とても必要なようには見えませんが』なーんて言われたけどね。失礼しちゃうわ。身体は大男でも、心は繊細な乙女なのよ」

 シモンは茶目っ気たっぷりに笑いながら、咲の細い肩をポンと叩いた。

……」

 傷とやらに響いたのか、咲が悲鳴を上げる。

「あら、ごめんなさい。うっかりしてた。じゃ、お勤め頑張って」

 シモンが慌てて侘びる。もう渡利に聞かれてもいいのか、声のトーンは戻っている。

「ええ……また」

 咲は珈琲豆と「頼まれたもの」とやらが入った袋を受けとると、手早く風呂敷に仕舞った。豆の代金にしては高すぎる一円札を何枚かシモンに握らせると、店を出て行く。

 咲を見送ったシモンは、またすぐに奥へ引っ込んでしまった。

 渡利は誰もいなくなったことを確認すると、素早くコートを羽織った。卓上に飲食代の小銭を置くと外へ飛び出した。

 路上に出て、咲の姿を探す。彼女はすぐに見つかった。

 ゆっくりとした足取りで銀座通りに向かって歩いていた。

 渡利は、気づかれないように慎重に距離を置いて咲の後をけ始めた。

 咲は道に迷ったのか通りを行ったり来たりした後、有楽町から乗合バスに乗った。渡利も後からそっと乗りこんだ。水道橋近くで降りた咲が小石川の綾小路伯爵邸に入っていくのを確認してから、渡利は明新社に戻った。

 

 深夜の編集部の自席にて、渡利は今日あったことを振り返った。

 芥川家訪問はいいとして、夕方にカフェー「しらゆり」で見かけた、咲という少女は思わぬもうけものかもしれなかった。話を盗み聞きしたところでは、咲は綾小路家の女中であり、主人から酷い扱いを受けているようだ。

 元より渡利の興味は蘭子よりも婚約者の鏑木男爵にあったが、実は鏑木に近づく伝手つては全くなかった。

 鏑木の自宅に張りこんでみたものの、彼は過去の結婚から都内に屋敷を幾つも所有しており、特に本宅を定めず気まぐれに転々としていた。

 さらに厄介なことに、鏑木は自宅や外では常に屈強な護衛を連れていた。

 護衛はくるぶしまで届く黒いコートを着、同じく黒の帽子を目深に被った長身の男二人で、鏑木にぴったりと張りついており、渡利のみならず誰も近くに寄せつけなかった。不用意に近づくと、威嚇の奇声を上げて追い払おうとする。彼らは鏑木に「仁蔵」「以蔵」と呼ばれており、兄弟のようだった。

 やがて、日を追ううちに、渡利はあることに気がついた。

 鏑木はどういうわけか、護衛の仁蔵、以蔵を綾小路邸の中には決して同伴しなかった。

 兄弟も綾小路邸の前で来ると、そこで降りてしまいさっと姿を消してしまう。

 その事実を鑑みれば、綾小路邸は鏑木に接触する絶好の場所に思われた。

 だが、綾小路邸は華族の住まう、いわば治外法権とも言うべき領域だ。

 当然ながら警備員が常駐しているし、渡利が綾小路邸に忍びこんで見つかれば、すぐに不法侵入で逮捕されてしまう。

 渡利は鏑木に関するスクープをものにするのは、綾小路家の内部に協力者を作るのが一番手っ取り早いと考えた。婚約者の蘭子ならば鏑木のプライベートを知っているだろうし、蘭子付きの使用人も同様だろう。

 内部の情報を得るには、どうやら蘭子に対して私怨がありそうな咲が使えそうである。雇われて日も浅いなら、忠誠心も薄いだろう。

 彼女に接触して幾許いくばくかの金を握らせれば、鏑木についての情報が得られるかもしれない。

「でもなあ……まだ弱いんだよな。どうすっかねぇ……」

 誰もいないことをいいことに、独り言を繰り出しながら、渡利はふと同業の山田研介のことを思い出した。

 綾小路蘭子の婚約会見でひょっこり顔を合わせて以来だが、山田もまた綾小路家に関することを追っているかもしれない。

 他社のライバルでもあるが、彼の気さくで面倒見の良い性格を渡利はよく知っていた。

 気晴らしに彼と飲むのも悪くない。渡利は早速に山田と連絡を取り、サラリーマン向けの屋台が連なる新橋で会うことにした。

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