女の方が尊くて



 結局、記者たちの綾小路伯爵夫人にかけた意気込みは空振りに終わった。

 彼女へのインタビューは叶わないまま、報道陣は警備の警察に解散させられた。

 蘭子と鏑木は、裏門の前に待たせてあった、綾小路家の白のフォードへ乗りこんだ。

 助手席にはキクが座り、運転手の平松に小石川の綾小路邸へ向かうよう命じた。

 ドアが閉まり、フォードがのろのろと滑り出した瞬間、鏑木の表情がぴしりと強張こわばった。彼は腹の底から不機嫌そうに言った。

「蘭子さん、めでたい婚約発表の日にこのようなことは言いたくないのだが。先程のあなたの振る舞いは如何なものだろう」

 蘭子もさすがに婚約者である鏑木を無視はしない。足に纏わりつくドレスの裾を直しながら、落ち着きはらって答える。

「あら、どういう意味ですの。わたくしにはわかりかねますが」

「どうもこうもない。報道陣に対するあなたの態度です。まさか彼らに無視を貫徹かんてつされるとはね。緊張なさって声が出なかったのですか」

 鏑木の指摘に、蘭子はきっと顔を上げる。

「違いますわ。あの者たちの無礼な態度に呆れ果てていただけです。なんですかあれは。門が開いた瞬間、飢えた野良犬のごとく走ってきて、喧しくカメラを切って。妾たちの晴れがましい門出を土足で踏みにじられた思いでした。あのような下賎のやからは口を利くに値しないと思い、黙っておりましたの」

 憤然と捲し立てる蘭子に、鏑木は呆気に取られ、それから大きく溜息をついた。いっそ両手で頭を抱えたい気分にもなった。

「蘭子さん、そんな態度が許されるのは現人神あらひとがみの血族たる皇族だけですよ。いえ、皇族の方々でもそのような大人気ないことはなさいません。これでは明日の新聞に一体何と書かれるやら……。

 いいですか。内心はどうであれ、彼らには穏健に接し、微笑みの一つでもくれてやってください。あなたは突出して美しいのだから、それだけで彼らの悪意のペン先を懐柔かいじゅうできるのです。ただでさえ我々華族は、無為徒食むいとしょくの能無しと世間から叩かれやすい。むやみに民衆の反感をあおるべきじゃない。あなたの態度は誇り高いのではなく、ただ幼稚なだけです」

 と、懇々こんこんと諭しつつも、鏑木も内心ではいささか馬鹿馬鹿しくもなっていた。

 何せ、蘭子ときたら半年前まで屋敷から出たこともなかった究極の世間知らずだ。彼女に、曖昧模糊あいまいもことして流動的な世情を説くのは無意味にも思えた。

 案の定、蘭子は鏑木の忠告に反省の色を見せなかった。

「まるで、父であるかのようなおっしゃりようね」

「少なくとも、私はあなたの倍近くは生きておりますからね。幾許いくばくかの世間の知恵は身につけておりますよ。あなたはいずれ私の妻となりますが、時には親のように厳しく接していかねばと思っています。蘭子さん、私たち華族は四民の上の貴重な位にある者です。常に民草の手本とならねばならない。身分の上下にこだわらず、いかなる相手にも丁重に接してください」

 しかし、勝気な蘭子は尚も猛々たけだけしく反論する。

「妾たちの使命は皇室の藩屏はんぺい、お上を守護することにあります。卑しい平民と慣れ合うことではないでしょう。親しく口を利くなんて御免ごめんこうむります」

「蘭子さん……」

「惟光様、妾は新米ながらも伯爵です。あなたがこれまで共に暮らした気安い女性たちとは違います。平民と一緒に扱うおつもりなら、この上ない侮辱です」

 「気安い女性たち」というところに殊更ことさら力を込めて、蘭子は愁眉しゅうびを逆立てる。

「気安い女性だなんて、そんなつもりは……」

「もういいわ。お説教は止めて、少し黙ってらして」

 蘭子は、プイと拗ねたように横を向いてしまった。

「黙れって……」

 蘭子の失礼に過ぎる物言いに鏑木は絶句する。一般的に男の下とされる女、それも二十歳に満たない娘からそんなことを言われたのは初めてだった。

 怒りから思わず握った右手の拳がぶるぶると震えたが、ハッと気づき、左手で隠すように押さえる。小娘の言うことだ……と言い聞かせ、彼は乱暴な衝動をしずめた。

 一ケ月前に知人の社交場で知り合ってからというもの、彼らの交際は傍目には順調に見えた。

 しかし、蘭子の平民を見下す高慢な態度は鏑木をたびたび苛立たせていた。

 彼女のこれまでの境遇を思えば致し方ない面もある。娘を一切省みず、しつけをしなかった先代の綾小路伯爵に恨み言の一言も言いたくなる。ここは年長者らしく寛容と忍耐を以って淑女しゅくじょに教育せねばと思うのだが、蘭子はこれまで鏑木が接してきた女たちとは決定的に違うところがあった。彼女は自分よりも身分が高く、爵位と個人名義の資産を持ち、経済的に全く不自由していなかった。生活や保身のために男性を敬い、おもねる必要がなく、強い態度に出ることができなかった。

 鏑木もこれまで上流階級の夫人と浮名を流したことはあったが、遊びと割り切った一夜のたわむれと結婚はまるで違う。正直なところ、蘭子は鏑木にとって大変苦手な部類の人間だった。もし彼女が男であったなら、友人にすらなれそうにない。

 鏑木は蘭子の説得を諦め、流れゆく車外の並木をぼんやりと眺めた。

 が、一度喉もとまでこみ上げた憤懣は、寂れた冬の風景だけでは到底癒しがたかった。数分はなんとかこらえたものの、短気な性分にどうにも我慢できなくなる。

 鏑木は努めて鷹揚おうように運転手に呼びかけた。

「平松君、すまないがどこかその辺で車を停めてくれたまえ」

 はい、と平松は返事をし、道の脇にフォードを停めた。

「惟光様、どうなさったの」

 訝しむ蘭子の顔を見ずに、鏑木は抑揚のない声で答える。

「何、私もまだまだ精進が足りないということです。あなたの心ない言葉にほおがカッカと火照りました。少し外の空気に当たって冷してきますよ。神楽坂の辺りでも散歩してきます」

「惟光様、最近は物騒です。金持ちを狙って、白昼でも物盗りが横行していると聞きます。供をつけずに歩くなんて危険ですわ」

「大丈夫ですよ。私は男です。それに優秀な護衛がついておりますのでご心配なく。晩餐ばんさんにはお邪魔しますので」

 車を降りて回りこんだ平松が、うやうやしく後部座席のドアを開ける。

「護衛……? そんな者どこにおりましたの。今から電話でお呼びになるの」

 蘭子は不思議そうに尋ねたが、鏑木は問いを黙殺した。

 紳士のたしなみである黒の山高帽を被って車を降りると、コートのポケットに手を突っ込み、そのまま悠々と歩いて行ってしまった。

 蘭子は唖然としたまま、去りゆく鏑木の背中を黙って見送った。

 まさかこんな道端みちばたで彼が車を降りるとは思わなかった。今し方の言い争いが原因なのは明らかで、それに思い至ると蘭子は悔やむように唇を噛みしめた。

 平松が運転席に戻ると、それまで黙っていたキクが口を開いた。

「ご心配なされますなお嬢様。鏑木様はすぐにご反省なさるでしょう」

「そうかしら……」

「今はご結婚前です。ご両人の価値観の相違が目立ちますが、鏑木様も綾小路家にお入りになればおのずとお分かりになります。真の貴族たる者の、高雅で気高い振る舞いとはどういうものか。お嬢様は何一つ間違ってはおられません」

 キクはそう言って、消沈しょうちんする蘭子を慰めた。

 そうだ、自分は間違ってはいないと蘭子は自身に強く言い聞かせる。

 自分はこの帝国の特権階級であり、華族の高邁こうまいな精神の体現者である。下賎で無知な平民の下手に出る必要はどこにもない。

 伯爵夫人という大層な身分、帝国屈指の名門貴族であるという矜持きょうじが蘭子の心の支えであり、逆に言えば今の彼女にはそれしかどころがなかった。

「しかし、お嬢様。よろしかったのでしょうか」

 そこで、申し訳なさそうに口を挟んできたのは平松だった。

「鏑木様が歩いて行かれた方向は、神楽坂とは反対でございましたが。あのまま行けば九段下、その先は神保町かと。一旦、お止めした方が良ろしかったのでは」

「……」

 それには、蘭子もキクも無言で顔を見合わせるしかなかった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る