女の方が尊くて
結局、記者たちの綾小路伯爵夫人にかけた意気込みは空振りに終わった。
彼女へのインタビューは叶わないまま、報道陣は警備の警察に解散させられた。
蘭子と鏑木は、裏門の前に待たせてあった、綾小路家の白のフォードへ乗りこんだ。
助手席にはキクが座り、運転手の平松に小石川の綾小路邸へ向かうよう命じた。
ドアが閉まり、フォードがのろのろと滑り出した瞬間、鏑木の表情がぴしりと
「蘭子さん、めでたい婚約発表の日にこのようなことは言いたくないのだが。先程のあなたの振る舞いは如何なものだろう」
蘭子もさすがに婚約者である鏑木を無視はしない。足に纏わりつくドレスの裾を直しながら、落ち着きはらって答える。
「あら、どういう意味ですの。
「どうもこうもない。報道陣に対するあなたの態度です。まさか彼らに無視を
鏑木の指摘に、蘭子はきっと顔を上げる。
「違いますわ。あの者たちの無礼な態度に呆れ果てていただけです。なんですかあれは。門が開いた瞬間、飢えた野良犬の
憤然と捲し立てる蘭子に、鏑木は呆気に取られ、それから大きく溜息をついた。いっそ両手で頭を抱えたい気分にもなった。
「蘭子さん、そんな態度が許されるのは
いいですか。内心はどうであれ、彼らには穏健に接し、微笑みの一つでもくれてやってください。あなたは突出して美しいのだから、それだけで彼らの悪意のペン先を
と、
何せ、蘭子ときたら半年前まで屋敷から出たこともなかった究極の世間知らずだ。彼女に、
案の定、蘭子は鏑木の忠告に反省の色を見せなかった。
「まるで、父であるかのような
「少なくとも、私はあなたの倍近くは生きておりますからね。
しかし、勝気な蘭子は尚も
「妾たちの使命は皇室の
「蘭子さん……」
「惟光様、妾は新米ながらも伯爵です。あなたがこれまで共に暮らした気安い女性たちとは違います。平民と一緒に扱うおつもりなら、この上ない侮辱です」
「気安い女性たち」というところに
「気安い女性だなんて、そんなつもりは……」
「もういいわ。お説教は止めて、少し黙ってらして」
蘭子は、プイと拗ねたように横を向いてしまった。
「黙れって……」
蘭子の失礼に過ぎる物言いに鏑木は絶句する。一般的に男の下とされる女、それも二十歳に満たない娘からそんなことを言われたのは初めてだった。
怒りから思わず握った右手の拳がぶるぶると震えたが、ハッと気づき、左手で隠すように押さえる。小娘の言うことだ……と言い聞かせ、彼は乱暴な衝動を
一ケ月前に知人の社交場で知り合ってからというもの、彼らの交際は傍目には順調に見えた。
しかし、蘭子の平民を見下す高慢な態度は鏑木をたびたび苛立たせていた。
彼女のこれまでの境遇を思えば致し方ない面もある。娘を一切省みず、
鏑木もこれまで上流階級の夫人と浮名を流したことはあったが、遊びと割り切った一夜の
鏑木は蘭子の説得を諦め、流れゆく車外の並木をぼんやりと眺めた。
が、一度喉もとまでこみ上げた憤懣は、寂れた冬の風景だけでは到底癒しがたかった。数分はなんとか
鏑木は努めて
「平松君、すまないがどこかその辺で車を停めてくれたまえ」
はい、と平松は返事をし、道の脇にフォードを停めた。
「惟光様、どうなさったの」
訝しむ蘭子の顔を見ずに、鏑木は抑揚のない声で答える。
「何、私もまだまだ精進が足りないということです。あなたの心ない言葉に
「惟光様、最近は物騒です。金持ちを狙って、白昼でも物盗りが横行していると聞きます。供をつけずに歩くなんて危険ですわ」
「大丈夫ですよ。私は男です。それに優秀な護衛がついておりますのでご心配なく。
車を降りて回りこんだ平松が、
「護衛……? そんな者どこにおりましたの。今から電話でお呼びになるの」
蘭子は不思議そうに尋ねたが、鏑木は問いを黙殺した。
紳士の
蘭子は唖然としたまま、去りゆく鏑木の背中を黙って見送った。
まさかこんな
平松が運転席に戻ると、それまで黙っていたキクが口を開いた。
「ご心配なされますなお嬢様。鏑木様はすぐにご反省なさるでしょう」
「そうかしら……」
「今はご結婚前です。ご両人の価値観の相違が目立ちますが、鏑木様も綾小路家にお入りになればおのずとお分かりになります。真の貴族たる者の、高雅で気高い振る舞いとはどういうものか。お嬢様は何一つ間違ってはおられません」
キクはそう言って、
そうだ、自分は間違ってはいないと蘭子は自身に強く言い聞かせる。
自分はこの帝国の特権階級であり、華族の
伯爵夫人という大層な身分、帝国屈指の名門貴族であるという
「しかし、お嬢様。よろしかったのでしょうか」
そこで、申し訳なさそうに口を挟んできたのは平松だった。
「鏑木様が歩いて行かれた方向は、神楽坂とは反対でございましたが。あのまま行けば九段下、その先は神保町かと。一旦、お止めした方が良ろしかったのでは」
「……」
それには、蘭子もキクも無言で顔を見合わせるしかなかった。
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