一、異人の女伯爵

華族会館前にて



 さて、奇怪なる第一夜が始まった。

 これは近代の話だ。もっと言うなら、割と最近の話でもある。

 その単一民族の島国、その暗澹あんたんたる顕世うつしよ、その峻烈しゅんれつ瞬間とき

 日本列島を覆う幻惑の霧は幾重にも重なって濃く立ちこめ、太古より数多あまた奇々怪々ききかいかいを生み出した。

 例えば綾小路蘭子あやのこうじらんこもまた、奇妙に珍しい奇々怪々の一つである。

 彼女は劣性れっせいの血が生んだ奇蹟きせきの造形だった。

 当初、彼女は人の形をした「難儀な運命」そのものと思われた。

 霊異や怪異が信じられ、人心に幅を利かせていた時代なら、鬼やものたぐいと恐れられ迫害を受けたかもしれない。しかし、この複雑怪奇な生態が当人の品性を必ずしもおとしめ、極限の不幸をもたらすとは限らない。

 

 

 皇紀二五九一年(西暦一九三一年)。

 大日本帝国、首都東京。

 その慶事が発表されたのは、年も明けて間もない頃だった。

 前年の暮れには、東京も冷え込み結構な量の雪が降った。

 今は大方溶けてしまい、通りにわずかに白い残滓ざんしとどめるのみである。空はすみで塗り潰したようにくろぐろとし、分厚い暗雲が立ち込めていた。今にも雨が降り出しそうな天気だった。

 その日、麹町こうじまち区三年町に建つ壮麗な華族会館の門前には、朝から慶事の取材のため、数十人の記者が詰めかけていた。彼らは一様にカメラを抱え、取材対象が会館から出てくるのを、今か今かと待ち構えていた。

 慶事とは、帝国の特権階級である華族同士の婚姻だった。

 東亜細亜ひがしあじあゆうたる大日本帝国では、天皇を頂点として、皇族・華族・士族・平民、さらにその下に属する無量賤民むりょうせんみんと呼ばれる貧民に分けられた厳しい身分制度が敷かれている。

 皇族とは日本国建国以来、連綿れんめんと続く天皇とその一族のことである。

 華族とは貴族のことである。天皇の近臣として明治維新後に定められた特権階級で、公家や武家(元大名)、また明治維新の際に勲功くんこうのあった者が天皇から爵位しゃくいたまわった。

 爵位は、近代国家建設の模範とする大英帝国ブリタニアならって、大公爵・公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵と順位があり、華族内でも家格かかくは歴然としている。

 華族は爵位を持つ当主のみならず、当主の配偶者や嫡子ちゃくしも含まれる。経済的、政治的特権が与えられているが、同時に四民の上に立つ貴重の地位にある者として、衆人の模範たる「高貴なる者の約定ノブレス・オブリージュ」の責務が課せられていた。当主とその家族は東京在住を命じられ、誕生から婚姻、叙爵(襲爵)、葬送に至るまで宮内省の長たる宮内大臣と貴族院の認許にんきょを必要とした。ちなみに、日本国籍を持たない外国人はどれほどの勲功を上げても大日本帝国の爵位は与えられず、帰化したとしても同様である。

 国民全体のわずか数パーセントに過ぎない皇族、貴族階級、地方豪族らが、幕末までこの国の権力と富を独占してきた。だが明治維新を経て、大正、昭和と続くうちに、強固なピラミッド型の階級制度はほころびを見せ始めている。貧富の差は依然大きいが、平民の中にも華族の権勢をしのぎ、公然と上流社会へ進出する者が現れ始めた。

 その華族の中でも、指折りの富豪として知られる綾小路伯爵家の当主の婚約は、久々の吉報だった。

 高貴なる者たちの華やかな動向は、常に庶民の憧憬どうけいを集める。

 当然、報道も過熱気味になる。記者たちは明日の朝刊の一面はこれだと確信し、各々おのおの華族会館に馳せ参じたのだった。何故華族会館かというと、綾小路家の当主が午前中から婚約者を伴って会館を訪れているからだった。目的は、貴族院議長兼華族会館理事長の白嶺しらみね大公爵への婚約の報告だった。

 やがて昼近くになり、贅を尽くした会館の正面扉から数人の男が出てきた。

 わあ、と記者たちの間でどよめきが起こる。これから職員に導かれ、当の伯爵と婚約者が会見のため出てくるはずだった。

 ピーと合図の笛が鳴り、外門が開かれた。警備で動員された警官が鋭い目を光らせる中、記者たちは我先と争って敷地に入り庭内を走り抜けた。

 同時に会館の扉が開かれ、当の伯爵とその連れ合いが腕を組んで出てきた。

 記者たちは二人の前まで来ると、まずは一枚とカメラのシャッターを切った。一人が撮ると後から来た記者もならう。辺りは暫くバシャバシャとやかましい音が響いた。

 何の断りもない不躾ぶしつけな撮影に、純白の絹のドレスに毛皮の襟巻を羽織はおった女は不快そうに眉を顰めた。赤い口紅を塗った艶やかな唇が、僅かに皮肉な動きをした。記者たちには聞こえない小さな声で、彼女は一言「無礼者」と呟いた。

 女の隣に立つ男は平然としたもので、カメラに向かって余裕の笑みを浮かべている。むしろ乞われるままに視線を投げてやっている。どうやら会見には慣れているようだ。

 一見すると、泰然自若たいぜんじじゃくとした男の方が綾小路伯爵で、ドレスの女が婚約者であるように思われた。しかし、最前列に陣取った記者の一人が手帳のページを唾をつけながらめくり、ペンを持って質問の口火を切った瞬間、その可能性は打ち消された。

 記者は丁寧に、しかし早口で一気にまくし立てた。

「綾小路伯爵夫人、帝都新聞の萩原です。このたびは鏑木かぶらぎ男爵とのご婚約誠におめでとうございます。大公爵へのご報告でお疲れのところ恐縮ですが、今のお気持ちを一言お願いできますか」

 記者は男の方ではなく、ドレスの女の方を向いて言った。

 いや、その場にいる記者全員の視線は始めから彼女一人に注がれていた。

 それは女の特異な美貌のせいもあったが、生まれながらの高貴な身分と、スキャンダラスな襲爵の疑惑と、相続した莫大な財産にるところが大きかった。

 女の名は綾小路蘭子。

 前年の父の伯爵の死去から暫くして、綾小路伯爵家を継いだ伯爵夫人カァンティスである。

 「伯爵夫人」は宮内省が定める爵位の一つであり、女伯爵の意であった。

 建国されておよそ二千五百年、この国では奈良時代に直系男子が途絶え女性天皇が続けて即位した経緯から、女子にも男子と同等の家督相続権が与えられている。性別を問わない皇位継承は、神聖なる血筋の断絶を回避する有効な策とされたのだ。

 頂点に君臨するおかみがそうであるなら、下々もまた同じに倣う。

 平安末期からの動乱や、戦国時代の武家の間では、力で勝る男子を後継者とする風潮が強かったが、平和な徳川の時代になると皇室のみならず女性の将軍も現れるようになった。

 明治以降もこの習わしは存続し、華族・士族・平民共に女性の当主、戸主、家長が認められている。また必ずしも長子、正妻(夫)の子が家督を継ぐとは限らず、跡継ぎの決定権は家長にあった。妾(男妾)、愛人の子でも認知、指名されれば後継者となることが可能で、財産も嫡子と分け隔てなく分与された。

 今回の例を語るならば、蘭子こそが綾小路伯爵家の当主であり、結婚の主役なのだった。夫となる男は、あくまで添え物に過ぎない。

 それにしても、伯爵夫人たる蘭子の総身は、万民を威圧するかのような侵しがたい高貴に満ちていた。その容姿は超然と優れ、大輪の薔薇の如く絢爛けんらんに美しかった。

 肌は透き通るように白く、きりりと真っ直ぐ引かれた眉、際立って高い鼻、真一文字に引き結ばれた肉厚な唇の全てが、一ミリの狂いもなく整っていて怖いくらいだった。女にしては長身で、腰は折れそうなほど細いが、ドレスの襟元から覗く胸は豊満だった。

 髪は高く結い上げてあり、孔雀くじゃくの豪勢な羽飾りがついたつば広の帽子にすっぽり収めてしまっている。帽子から僅かに覗く前髪は、舶来品の葡萄酒ワインのように赤かった。何より特筆すべきことは、均一に長い睫毛に縁どられた双眸そうぼうだった。それは、大和民族には有り得ない深い青みをたたえていた。

 蘭子は確かに美しかった。非の打ちどころのない完璧な美貌だった。

 しかし、精巧な人形のように造り物めいて冷ややかな美は、人々に憧れよりは畏怖いふを喚起させた。彼女は、この国の一般的な大和撫子やまとなでしこの風貌とはおよそかけ離れていた。

 初めて伯爵夫人を見た記者たちの目が、驚きで見開かれる。ごくりと生唾を飲む音も聞こえてくるようだった。

 蘭子がこれまで公の場に現れたことはなかった。彼女は「深窓の令嬢」というには些か度が過ぎた箱入り娘だった。確か今年で十八になるはずだが、華族の子女が習う女子学習院に通うことはなく、年頃になっても社交場サロンにお披露目されなかった。そもそも生まれてから爵位を継承するまで、屋敷から出たことがないというのがもっぱらの噂だった。それは先代の綾小路伯爵の強い意向とされたのだが……。

 蘭子に寄りそう男は、彼女の婚約者である鏑木惟光これみつ男爵。

 蘭子よりもさらに頭半分ほど背が高く、年の頃は三十路中頃だろうか、目尻の僅かな皺も好感が持てる柔和な風貌の美男子だった。

 確かに鏑木家も華族には違いなく、宮内大臣も貴族院も申請を受ければ結婚を認許するだろう。しかし、鏑木家の家格は綾小路家より大分低い。元はといえば地方の一豪族に過ぎず、明治も後期になって男爵に叙せられた新華族だった。誰が見てもこの結婚には明らかな格差があった。俗な言い方をすれば、「逆・玉の輿」といったところか。

 蘭子は記者の問いかけに、貝のように口を噤んだままだった。

 華族が華族であるゆえの、平民を見下す高慢な態度を崩さなかった。ただ花のような美貌をさらして、傲然ごうぜんと前を向いていた。

「……伯爵夫人」

 記者が再度促すと、蘭子はめた面持ちで後ろに控えた老女を呼んだ。

「キク」

「はい、お嬢様」

 穂村ほむらキクが、心得たようにしずしずと前に歩み出た。

 キクもまた主人同様に不思議な異彩を放っていた。頭はすっかり白髪で、顔も年相応に皮膚がたるみ皺を刻んでいたが、眺める角度によっては妙に若々しく、三十代にも四十代にも見えた。色付きの眼鏡をかけており、レンズの内側から鋭い眼光を放っていた。

 キクは顔を真っ直ぐ上げると、勿体ぶった大きな声で記者たちに告げた。

「さあ、皆々様。お嬢様のお言葉は後で私が取りまとめましてお伝えします。どうかこの場はお写真のみでご容赦ください」

「そんな! 折角来たのに……」

「どうか直接お言葉を」

 記者たちはどよめき、口々に不平を述べたが蘭子は頑として口を開かない。

 彼女からしてみれば、顔を背けずカメラの方を向いているだけでも、無礼な平民に対する多大な譲歩なのだった。それに蘭子にとって、一分一秒と好奇で満ちた衆目しゅうもくに晒されるのは耐え難い屈辱だった。彼らが内心思っているであろうことが、彼女には手に取るようにわかった。

 異人の女伯爵。綾小路の不義の娘。家督を簒奪した洋人女。

 口には決して出さないが、大方そんなところだろう。

 蘭子は想像するだに甚だ不愉快だった。ねっとりと絡みつく視線を振り切って一刻も早くこの場を去りたい、その一心だった。

 帝都新聞の記者は蘭子へのインタビューを早々に諦め、質問相手を鏑木へ変えた。

 やっと注目を得た鏑木は、蘭子とは対照的ににこやかに質問に答え始めた。

 

 記者たちが我も我もと躍起になる中、取り巻きの一番後ろから、場にそぐわない呑気な声がした。

「なーるほどねえ」

 カメラを構えた無精髭の記者が、「ん」と怪訝な声を上げて振り返る。

 すぐ後ろにグレーのハンチング帽を被った青年が、腕組みをしてにやにやと笑っていた。青年の肌は陽に灼けて浅黒く、精悍な顔立ちをしている。青年は記者に向かって、やあと手を上げた。

「あ、どうもどうも。山田さん。お久しぶり、でもないか。三日ぶりか。最近よく会うねえ」

 海成堂出版の記者、山田研介けんすけは顔見知りの青年にほっと息をついた。

「なんだ、渡利わたり。来てたのか。ってことはあんたも取材かい」

「まあね。名門華族、綾小路伯爵夫人の御婚約とあらば、駆けつけないわけにはいかないでしょ」

「ハッ。なんだよ、偉そうに。お前んとこは廃墟ビルの心霊事件だの、邪教の儀式だのが専門だろうが」

 山田の揶揄からかうような口ぶりに、渡利はひょいと軽く肩をすくめてみせた。

「失礼だな。うちだって時事は扱ってるよ。おっと、ごめんよ」

 渡利は前の記者の肩を押し、山田の隣りに無理矢理割り込んだ。ちっと舌打ちされたのに、律儀に手を合わせて謝る仕草をする。

 再び山田に向かって、

「何せ期待の大型新人、綾小路伯爵夫人だ。しっかし、噂は本当だったんだな。ありゃ前に浅草の蚤市のみいちで見かけた仏蘭西フランス人形にそっくりだ。およそ大和の面構つらがまえとは程遠い」

 と、若さゆえの豪胆か、思ったことをそのまま口にした。

 山田は口に人差し指を押し当て、渡利に声をひそめるよう促した。

「馬鹿、声がでかい。追い出されるぞ」

「いやあ、そんなことしないだろ。いくら伯爵夫人だろうと、自分のめでたいお披露目に水を差すもんか」

「だから声がでかいって言ってるだろ。ったくお前は馬鹿なのか大物なのか。……まあ、俺もおおむね同感だ。夫人には、間違いなく西洋人の血が入っている。華族には存在しないはずの混血だ」

「……ああ。あの赤毛に碧眼。百聞は一見にしかずだな。お上の発表じゃ、西洋人と結婚した華族や混血の後継ぎはこれまで一人もいないんだろ。だとしたら可能性は一つしかない」

「そうだな。全く、物議をかもすのはわかっていただろうに。宮内省もよく襲爵を許可したもんだ。どえらい別嬪だが、大概の男は恐れをなして近づきもしないだろう。そういう意味では、求婚した鏑木男爵は尊敬に値するな」

 とひそひそ好き勝手に言いつつも、山田はやや同情を込めて蘭子を見つめた。

 家柄と血筋を最も重んじる華族社会において、蘭子の特殊な容貌は仇とはなっても、有利に働くとは思えない。下手すれば難癖なんくせをつけられて家ごとお取り潰しになるかもしれない、そんな危うさを孕んだかおである。

「文明開化から六十余年。今や街で西洋人を見かけるのも珍しくないが、やんごとなき方々はまだまだ保守的だ。父親の綾小路伯爵が隠したがったのも無理はないな」

 それを聞いた渡利は、首に下げていたカメラを慎重に持ち上げた。

「でも俺たちにとっちゃいいめしの種だ。異人の女伯爵様は」

 無責任に面白がりながら、渡利は蘭子にピントを合わせ、ガシャンとシャッターを切った。それからすうっと目を細め、山田にも聞こえない小さな声で呟いた。

「最も、俺はお隣さんの方が気になるけどな」

 渡利の胡乱気うろんげな視線の先には、タキシード姿の紳士然とした鏑木の姿があった。

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