零、開幕を告げる者たち

姉と弟



 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 それは、息が詰まるような深い深い闇の底だった。

 一切の音がなく、光もない。絶対の静寂が支配する時の狭間。

 ありとあらゆる生命の躍動も停滞も感じられない鬱屈の底であった。

 測り様のない緩慢な時間が滔々とうとうと流れ、其処そこは未来の果てまで永劫無極えいごうむきょくの境地と思われた。

 しかし、世界の終わりがそうであるように、「始まり」もまた唐突だ。

 不意に、ピシリと何かが裂ける様な音がした。

 闇を切り裂くように、真っ直ぐ縦に走った線。

 それは徐々にその裂け目を太くしていき、両側に勢いよく開けていく。

 外界から一気に流れ込んでくる光を許容する。

 やがて辺りは、茫洋ぼうようとした白き開闢かいびゃくの光で満ちる。

 用意された人形の、用意された絢爛豪華な舞台が、観客の前にその姿をあらわす――。

 

 

 第一の闇のカーテンはあっという間に払拭された。

 洋式の壁時計がボーンボーンと鳴り、おごそかに開演の時を告げる。

 劇場には一つ、二つとランプの灯がともり、辺りを明々と照らし出した。

 其処は、どこかの国のどこかの街のどこかの店のようだった。

 西洋のバーのような洒落た内装で、入口を入って正面のカウンターに黒革の丸椅子が四つ、それに四人座るのがやっとのソファ席が二つあるのみである。カウンターの上は綺麗に片付けられ、木枠で固定した大きな長方形の白布が張られている。白布は正面から複数のライトが当てられていた。

 白布の内側、すなわちカウンタ―の内で複数の影が揺らめいた。どうやら人がいるようだ。中も狭いゆえに、入れるのはせいぜい二人といったところか。即席の舞台裏から、ひそひそと声が洩れ出でる。

「さあ、台詞は覚えたね。いくわよ」

「待ってよ、姉ちゃん。俺、まだ心の準備が……」

 快活な少女の声に続いて、少し不安そうな少年の声がする。

 少女は弟とおぼしき少年の制止を聞かず、先走って声を張り上げた。

「さあさあ、皆様。お待たせしました。劇団きりのまち定期公演、幻想影絵芝居『新・青ひげ』の始まり、始まり……」

 少女の朗々たる宣言を受け、ソファ席の方からパチパチと拍手の音がした。どうやらこんなお粗末な劇場にも観客がいるようだ。

 かくして見えない幕が上がり、芝居が始まった。

 白布に、西洋の中世の城とおぼしき背景が投影される。舞台袖から、三角帽子を被った顎髭の長い男の影絵が登場した。続いて、長いドレスを着た女がしずしずと出てきて男に付き従う。

 髭の男は始めスキップしながら上機嫌に歩いていたが、舞台中央まで来ると突然女に振り返った。先程のまだあどけない少年の声で、髭の男は言った。

「さて、お前。俺はよく知っているよ。お前はよくも思いきって、あの小部屋に入ったな。えらい度胸だ。よし、そんなに入りたければあそこへ入れ」

 髭の男は叫び、女をどんと勢いよく突き飛ばした。

 倒れ伏した女は、よろよろと起き上がり男の足にひしと縋り付いた。女の声を担当するのは姉の少女だった。

「あなた、どうしてそれを……。そんな、あそこに行けだなんて後生です」

「うるさい、黙れ。お前も前の奥方達と同じになれ」

「嫌です、嫌です。私が一体何をしたというのです。結婚して以来、あなたに従順そのもの、ずっと貞淑な妻であったではありませんか。どうかお許しを。お許しを……」

 女は悲痛な声で、夫である髭の男に許しを乞うた。だが、髭の男は許さなかった。

 女の頭を掴むと引き摺ったまま城の中へ入っていく。バンバンとカウンターを叩く音がし、女が城内で暴れているのがわかる。

「嫌です。あの部屋だけは。あそこだけは行きたくありません。あ、あなた。どうか……嫌ああああっ!」

 城の中から聞こえる女の絶叫。悲鳴は徐々にか細くなり、やがてプツリと途切れた。

 棒読みの弟とは違い、姉の少女はなかなかの演技である。

 髭の男が「前の奥方たち」と言ったからには、ドレスの女は「何番目かの妻」なのだろうか。

 男が妻に与えた懲罰ちょうばつは「著しい暴力」、もしくは「死」。城の小部屋で行われたであろう血の惨劇に、観客は身を震わせる。

 ……はずだったのだが。

 そこでランプの灯がゆらりと揺れ、壁に姉弟とは違う第三の影が映り込んだ。

 ソファ席に座っていた観客が、すくっと立ち上がったのだ。

 影はコツコツと靴音を鳴らして、カウンターの前までやってきた。白布の横には影絵芝居で使うのだろうか、ドレスの女の紙人形が六体並べてあった。

 その六体の人形は型紙を切り抜いたのか全て同じ形をしており、不気味なことに頭部から上がすっぱり切り取られていた。

 影は暫く無言で六体の首なし人形を眺めていたが、やがて懐から財布を取り出すと、カウンターに硬貨を数枚置いた。そして再び靴音を鳴らし、ドアを開けると店から出ていった。

 後に残されたのは、唯一の観客を失った舞台の演者たちである。

 数秒の沈黙のあと、カウンターの中からまたもやひそひそ声がした。

「えっ、お客さん帰っちゃったよ。なんで?」

「どうしよう。怒ったのかな」

夜霧よぎりの声に迫力がないからよ。何なの、あの棒読み」

「違うよ。俺のせいじゃない。姉ちゃんの声が、にわとりを裂くみたいに気持ち悪かったからじゃないか。あの人、あれを聞いて観る気を失くしたんだよ」

 拙い演技を責める姉と、憤然として言い返す弟。

 暫くの間、姉弟はああだこうだと観客を失った原因について責任をなすり付け合ったが、それに飽きると二人同時に溜息をついた。まだ劇は始まったばかりだが、代金を置いていった以上、先程の客が戻ってくるとは思えなかった。従って、姉弟が影絵芝居を続ける理由はなくなってしまった。

「あーあ。物語はこれからなのに、ね」

 白けきった空気の中、少女は空っぽのソファに向かい残念そうに呟いた。

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