多喜見さくら



 小石川区の外堀通りに面した綾小路邸は、栄華を極める華族の代表ともいえる豪邸だった。小石川後楽園にも近い一万坪の敷地には、三階建ての新館と旧館の瀟洒しょうしゃな洋館が平行して並び、一階は渡り廊下で結ばれていた。

 新館に当主とその家族が住み、旧館には厨房や住み込みの使用人の部屋、出入りの業者の控え室、物置部屋などがあった。

 綾小路家は、元々は宮家の傍流であり、何百年も続く名門の公家である。

 蘭子の祖父である先々代の綾小路章義あきよし伯爵は、外交官として巴里パリ倫敦ロンドンに赴任していたこともあり、洋風好みで有名な人物だった。時に「西洋かぶれ」と批判されることもあったが、欧化政策が推進された明治時代において、西洋式の生活をいち早く取り入れ、列強欧羅巴ヨーロッパの貴族と同じような暮らしを日本で実現した。

 小石川に新築した屋敷にも彼は並々ならぬこだわりを見せた。金に糸目をつけず、わざわざ大英帝国ブリタニアから専門の庭師を呼び寄せ、邸内に広大な英国式庭園や人工池を造らせた。

 春になり庭園に植えられた数千本の薔薇が満開になると、多勢の客を招いては園遊会ガーデンパーティーを愉しんだ。綾小路邸には華族のみならず平民の実業家や作家、画家、音楽家、彫刻家、役者といった文化人が集まり、一大社交場を形成して大いに賑わった。章義は社交家でダンスが上手く、鹿鳴館ろくめいかんもよおされる舞踏会では、華族の姫君に手ずから指南するほどだった。

 しかし、息子の章浩あきひろの代になると、屋敷の人の出入りは段々と減っていった。元領地からの収入、株、天皇から下賜かしされる多額の金禄公債きんろくこうさいと実入りの良さは変わらなかったが、章浩には父のような人間的魅力がなかった。彼は幼少時から感情の起伏が激しく、成人してからも人前でたびたび癇癪かんしゃくを起こした。感情が昂ると暴力沙汰に及ぶこともあり、親類からも敬遠される程だった。

 それでも存命の頃は、来客もそれなりにあって賑々にぎにぎしくやっていたのだが、彼が亡くなった半年前からは取り巻きの足も途絶え、この館を訪れる者は限られていた。

 屋敷の使用人の数も減っていた。蘭子は父の死後、章浩付きだった使用人に対し、一部の者を除いていとまを出した。蘭子の襲爵に反発して辞めていった者もいた。人が減った綾小路邸は、豪勢ごうぜいな規模に反してうら寂しい風情が漂っていた。

 

 

 蘭子が帰宅すると、料理人や庭師以外の使用人全員が玄関前に並んで出迎えた。

 先々代からの習わしで、男は黒の上下の詰襟の制服、女中は黒のロングスカートのメイド服を身に纏い、白いエプロンをつけていた。

 彼らは、蘭子が襲爵してから雇った者が大半だった。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 と、頭を垂れる使用人たちに蘭子も一言「御苦労様」と声をかけた。

 キクが並んだうちの一人、若い女中に横柄な口調で問いかける。

「さくら。留守中、何か変わったことは」

 それに対し、蘭子の衣装係である多喜見たきみさくらは、キクの目を真っ直ぐ見てはきはきと答えた。

「十分ほど前に、横浜の藤堂忠次とうどうただつぐ子爵様のご家令よりお電話がありました」

 さくらは歳は二十歳ばかりだろうか、まっすぐ下りた前髪は一ミリの差もなく切り揃えられ、腰まで届く後ろ髪は一本に束ねてさらりと流している。品よく整った顔立ちをしており、黒檀こくだんの瞳は清冽な光を湛え、凛とした空気を漂わせていた。

「そう、お前が取ったのだね」

 キクの声は若干不満そうだった。使用人の仕事は厳格に細分化されており、本来なら電話を取るのも、主人の代わりにかけるのも女中頭のキクの役目である。

 しかし、今現在屋敷は人手が不足しており、蘭子付きの女中は自分の他にさくらしかいない。他の者も日々雑事に追われており、彼女が職務を逸脱したのは致し方のないことだった。

 藤堂の名に、玄関ロビーに入り手袋を脱ぎかけた蘭子は二人の会話に耳を澄ました。

「それで藤堂様は何と」

明日みょうにち、伯爵夫人のご機嫌伺いに参りたいがご都合は如何いかがかとのお問合せでした。確認して折り返すむねをお伝えしました」

「明日。それは随分と急な話だね。お嬢様のご都合もあるというのに」

 キクのぼやきに、蘭子はすかさず口を挟んだ。

「構いやしないわ。他ならぬ伯父様ですもの。お会いします」

「承知しました。では後ほどお返事のお電話をしておきましょう。急いで昼餐ちゅうさんの支度を。さくら、お嬢様に温かいお茶を」

 そう言うと、キクは一礼し、厨房へ続く渡り廊下へ足早に去って行った。

 さくらの介添かいぞえで襟巻を外しながら、蘭子は明日身内とはいえ来客が来ることにどこかホッとした。少なくとも明日は「客のもてなし」という当主らしい仕事が出来た。

 生まれてこの方、使用人にかしずかれながらも孤独な日々を過ごしてきた蘭子には、家に招けるような友人や知己は一人もいなかった。元から疎遠だった父方の親族とも交流はなく、豪奢だが閑散とした屋敷を訪れる者は、現在は婚約者の鏑木と母方の伯父・藤堂子爵くらいのものだった。

 キャンキャンと甲高い鳴き声がした。奥から黒のチワワが飛び出してきた。一歳になる蘭子の愛犬のルイだった。襲爵祝いに藤堂子爵から贈られた高価な愛玩犬である。赤い革の首輪をしているが、紐に繋がれてはいない。チワワはその小さく愛くるしい容姿に反して、性格は勇敢で賢く、主人にとても忠実である。時には牙を剥き、人を噛むといった獰猛どうもうな一面も見せる。

 蘭子はルイを室内犬として飼い、贅沢にも一階の一部屋を改装して犬部屋を設けていた。犬部屋に限定していたが、自分の留守中は紐を外させて自由にさせていた。

 ルイは主人の帰還が嬉しくてたまらないのか、吠えながら蘭子の足にじゃれついた。

「申し訳ございません、お嬢様。どうやら部屋の扉が開いていたようです」

 と、家令の西田が慌ててルイを抱き上げる。さくらも蘭子の純白のドレスがルイに汚されないか心配そうだ。慌てて犬部屋に戻そうとする西田を蘭子は呼び止めた。

「いいわ。一階に放しておきなさい。二階の階段前に柵を置き、上がって来られないようにして。屋敷の外には出さないように」

「はあ。ですが、もし粗相をしては……」

「犬とはいえ、部屋に閉じ込めておくのは可哀想だわ」

 蘭子はかつての自分をルイに重ね合わせ、愛犬にあわれみをかけた。十八年の人生において蘭子は屋敷内どころか、自室から出ることも滅多に許されなかった。これは高貴な華族の姫君として当然のたしなみと教え込まれ、蘭子自身もそう信じていたのだが……。

 使用人たちは蘭子の心情を察したのか、ルイの処遇についてそれ以上は何も言わなかった。

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