多喜見さくら
小石川区の外堀通りに面した綾小路邸は、栄華を極める華族の代表ともいえる豪邸だった。小石川後楽園にも近い一万坪の敷地には、三階建ての新館と旧館の
新館に当主とその家族が住み、旧館には厨房や住み込みの使用人の部屋、出入りの業者の控え室、物置部屋などがあった。
綾小路家は、元々は宮家の傍流であり、何百年も続く名門の公家である。
蘭子の祖父である先々代の綾小路
小石川に新築した屋敷にも彼は並々ならぬ
春になり庭園に植えられた数千本の薔薇が満開になると、多勢の客を招いては
しかし、息子の
それでも存命の頃は、来客もそれなりにあって
屋敷の使用人の数も減っていた。蘭子は父の死後、章浩付きだった使用人に対し、一部の者を除いて
蘭子が帰宅すると、料理人や庭師以外の使用人全員が玄関前に並んで出迎えた。
先々代からの習わしで、男は黒の上下の詰襟の制服、女中は黒のロングスカートのメイド服を身に纏い、白いエプロンをつけていた。
彼らは、蘭子が襲爵してから雇った者が大半だった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
と、頭を垂れる使用人たちに蘭子も一言「御苦労様」と声をかけた。
キクが並んだうちの一人、若い女中に横柄な口調で問いかける。
「さくら。留守中、何か変わったことは」
それに対し、蘭子の衣装係である
「十分ほど前に、横浜の
さくらは歳は二十歳ばかりだろうか、まっすぐ下りた前髪は一ミリの差もなく切り揃えられ、腰まで届く後ろ髪は一本に束ねてさらりと流している。品よく整った顔立ちをしており、
「そう、お前が取ったのだね」
キクの声は若干不満そうだった。使用人の仕事は厳格に細分化されており、本来なら電話を取るのも、主人の代わりにかけるのも女中頭のキクの役目である。
しかし、今現在屋敷は人手が不足しており、蘭子付きの女中は自分の他にさくらしかいない。他の者も日々雑事に追われており、彼女が職務を逸脱したのは致し方のないことだった。
藤堂の名に、玄関ロビーに入り手袋を脱ぎかけた蘭子は二人の会話に耳を澄ました。
「それで藤堂様は何と」
「
「明日。それは随分と急な話だね。お嬢様のご都合もあるというのに」
キクのぼやきに、蘭子はすかさず口を挟んだ。
「構いやしないわ。他ならぬ伯父様ですもの。お会いします」
「承知しました。では後ほどお返事のお電話をしておきましょう。急いで
そう言うと、キクは一礼し、厨房へ続く渡り廊下へ足早に去って行った。
さくらの
生まれてこの方、使用人に
キャンキャンと甲高い鳴き声がした。奥から黒のチワワが飛び出してきた。一歳になる蘭子の愛犬のルイだった。襲爵祝いに藤堂子爵から贈られた高価な愛玩犬である。赤い革の首輪をしているが、紐に繋がれてはいない。チワワはその小さく愛くるしい容姿に反して、性格は勇敢で賢く、主人にとても忠実である。時には牙を剥き、人を噛むといった
蘭子はルイを室内犬として飼い、贅沢にも一階の一部屋を改装して犬部屋を設けていた。犬部屋に限定していたが、自分の留守中は紐を外させて自由にさせていた。
ルイは主人の帰還が嬉しくてたまらないのか、吠えながら蘭子の足にじゃれついた。
「申し訳ございません、お嬢様。どうやら部屋の扉が開いていたようです」
と、家令の西田が慌ててルイを抱き上げる。さくらも蘭子の純白のドレスがルイに汚されないか心配そうだ。慌てて犬部屋に戻そうとする西田を蘭子は呼び止めた。
「いいわ。一階に放しておきなさい。二階の階段前に柵を置き、上がって来られないようにして。屋敷の外には出さないように」
「はあ。ですが、もし粗相をしては……」
「犬とはいえ、部屋に閉じ込めておくのは可哀想だわ」
蘭子はかつての自分をルイに重ね合わせ、愛犬に
使用人たちは蘭子の心情を察したのか、ルイの処遇についてそれ以上は何も言わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。