切りとられた少女



 冬の陽はいかにも短い。

 午後は僅かに晴れ間が覗いたものの、遅い昼食を終え休憩している間に、太陽は転げるように天を渡っていった。蘭子は自室の窓から、水色の空の端がだいだいから緋色に変わり、一際濃い夕陽が雲に揺らぎながら落ちるのを飽きもせず眺めた。

 やがて深々と夜のとばりが下り、新館に電気がともった。

 鏑木は、夕方には華族御用達の高級菓子店「開新堂」のガトウを土産に携えて、綾小路邸にやってきた。相変わらず一人であり、彼の身の安全を保障する護衛とやらは姿を見せなかった。

 鏑木の機嫌はすっかり直っているように見えたが、綾小路家伝統の仏蘭西フランス料理の晩餐を共にするとそそくさと帰っていった。食事の後は、居間の暖炉の前で玖馬キューバ産の高級葉巻とブランデーを愉しむのが常だった。蘭子は彼を引き留めれば良かったかとも考えたが、天より高い矜持と処女おとめらしい潔癖さがそれを阻んだ。

 鏑木は週に二、三回は綾小路邸に通って来て、蘭子と時間を共にしていたが、屋敷に泊めたことは一度もない。

 婚約者とはいえ、結婚前である。蘭子は鏑木と決して淫らな間違い、則ち婚前交渉を犯してはならないと固く誓っていた。

 夜が更けて入浴を済ませた蘭子は、使用人を下がらせて二階の一番奥の寝室へ入った。風呂上りの火照った肌が冷めやらぬまま、ベッド脇の鏡台の前に腰かけた。たっぷりとして、優雅に波打つ髪を手で梳く。指通りは滑らかで、香油を塗りこんだ髪は艶々している。

 鏡には、洋風寝巻ネグリジェ姿の、赤毛で青い目をした女が写っている。

 それに気づくと、蘭子は無意識のうちに鏡の自分から目を背けた。

 黒髪黒目が標準なこの国の人間とは、あまりにかけ離れた異質な容姿。物心ついた時から、蘭子は鏡を見るたびに、他の人間との相違を自覚せざるを得なかった。

 それは出自や身分ではない。一見してかってしまう、ありありとした色彩の差別。

 肌の色。髪の色。眼の色。父が亡くなるまで屋敷の外に出たことはなかったが、彼女の狭すぎる世界観をってしても、自分はおよそ「尋常」ではなかった。

 両親は間違いなく日本人であるはずなのに、何故白人のような容姿に生まれついたのか。その理由を蘭子はこの数カ月密かに追及し続け、そして極めて稀な「仮説」に辿りついた。それを頑なに肯定することで、彼女の矜持は保たれていた。

 蘭子は決して認めなかった。絶対に信じられなかった。

 自分が綾小路家の正統なる血筋ではなく、母の不貞の末産まれた、誰とも知れぬ洋人の子であるなんてことは……。

 

 蘭子は髪を整えると立ち上がり、掛布かけふを捲って寝台ベッドに入ろうとした。

 その時だった。彼女の就寝を見計らったように、バンと何かを叩くような音がした。風の音かと思ったが、また少ししてバンと音がする。蘭子は寝台から離れ、足音を立てずに窓辺に寄った。

 ……またバンという音がした。どうやら上階からのようだ。寝室の真上は、父・章浩の部屋だった。章浩の死後、三階の部屋は使っていない。

 不審な音が気になって、蘭子は鏡台の引き出しから鍵の束を取り出した。

 他人の家ならいざ知らず、生まれた時から暮らす自宅である。まだ階下に使用人がいるかもしれないが、わざわざ呼びつけるより自分で見にいった方が早そうだ。

 蘭子は特に深く考えず、三階へ行くことにした。寝巻きの上に厚手のガウンを羽織ると、懐中電灯を持って冷えきった廊下に滑り出た。

 使用人は皆旧館に戻ったのか、邸内はしいんと静まり返っている。

 蘭子はそろりそろりと階段を上り、三階の一番奥にある父の寝室の前に立った。鍵を鍵穴に差し込もうとして、そこで彼女は気づいた。どういうわけかドアが数センチ開いている。

 鍵をかけ、締めきったはずの部屋が開いているのは不思議だったが、蘭子は思い出した。父の部屋は日頃から綺麗に保つように使用人たちに命じてあった。スペアキーは家令室に置いてある。掃除に入った者が鍵を閉め忘れた可能性はあった。部屋に金目の物は置いていないが、鍵の閉め忘れは不用心である。朝になったら注意せねばと思いつつ、部屋の中に入り、手探りで電気をつけた。

 章浩の死後、書斎と寝室の二間続きの部屋は一部整理した他はそのままで保存されており、蘭子も入るのは久しぶりだった。テーブルに懐中電灯を置き、書斎のあちこちを見て回ったが、特に異常はなさそうだった。

 次に奥の寝室にも入ったが、中央に天蓋付きの豪奢な寝台と、空の衣装箪笥があるだけで変わったところはない。やはり風の音だったかと思い、蘭子は寝台の上に腰かけた。なんとなく金の縁飾りがついた分厚いカバーを撫でてみる。決して触れあうことのなかった父の、かすかな名残りを探るように。

 前年の七月に入ってすぐの朝、章浩はこの広い寝台の上で冷たくなっていた。

 第一発見者は、当時は章浩付きの使用人だったさくらだった。朝食の時間になっても起きてこない主人の様子を見に行き、意識不明の章浩の姿を発見した。

 すぐに医者が呼ばれたが、章浩は夜のうちに絶命しており、死因は心臓麻痺とされた。

 綾小路伯爵の死はすぐに貴族院に伝えられ、襲爵、相続に関する手続きが開始されたが、その際にひと悶着があった。伯爵が生前書いたはずの遺言状が見つからなかったのである。

 章浩が遺言状を書いたのは、およそ五年前である。

 何故遺言状の存在を証明できるかというと、弁護士を自宅に呼び、その目の前で書いてみせたからだった。内容について章浩は言及しなかったが、華族の常として「後継者の指名、および遺産相続に関すること」と思われた。

 弁護士は、遺言状は「銀行の金庫に保管すべし」と進言したが、章浩は「今後書き直すことがあるかもしれない」とそれを退けた。念には念を入れて、弁護士の目の前で寝室に置いてあった金庫に遺言状を仕舞った。鍵は二つ作られ、一つは章浩が持ち、もう一つは弁護士に托された。

 だが、章浩の死後に開かれた金庫は、どういうわけか空っぽだった。

 弁護士の証言から、家人総出で上へ下へと遺言状を探したもののどこへ失せたのか、それとも章浩自身が破棄したのかとうとう見つからなかった。そして、現在も遺言の内容は分からずじまいである。

 紛失したのは遺言状だけではなかった。綾小路家に代々伝わる「当主の証」も見つからなかった。「当主の証」は、貴金属であるという以外詳細がわからないが、これを持つ者こそが正統な後継者と定められている。子弟に家督を譲らない限りは、章浩はそれを肌身離さず持っているはずだった。しかし、現在でも見つかっておらず、蘭子は「当主の証」を持たないまま伯爵夫人の称号と地位を得た。遺言状がない上に、当主の証も所持していない。彼女の襲爵が簒奪と噂される所以ゆえんはここにある。

 

 ふと、蘭子は足に当たる冷たい感触に気がついた。

 身を屈めて、カバーを捲り上げると、ベッドの下に鉄製の手提げ金庫が置いてあった。元はもっと奥に安置されていたはずだが、いつの間にか前に引き出されている。

 金庫の扉は不自然に空いていた。不審に思い中を覗いてみて、そこで蘭子は目を見張った。

 中に何か白いものが落ちていた。どうやら紙の切れ端のようだ。蘭子は手を伸ばし、紙片を拾い上げた。

 それは横幅が四センチ程しかない、縦に長細い写真だった。元は小さくたたまれていたのか、折りじわが幾つもついている。

 写真には、二階建ての日本家屋の前で帽子を被り、よれよれの背広を着た中年男性が写っていた。男は四角いべっ甲縁の眼鏡をかけ、もみあげがあり、口髭を生やしているが、よくよく見れば少しばかり若い章浩だった。蘭子の記憶にある章浩の容姿とは全く違って、意図的に変装しているようだ。章浩はカメラに向かって満面の笑みを浮かべている。

 蘭子は何故父が変装までして、写真に写っているのかわからなかった。

 さらに章浩は、蘭子から見て左隣りに立った誰かと手を繋いでいるようだった。繋いだ手は子供のようで、章浩が突き出した人差し指を軽く握っている。だが写真は手首の辺りで切れており、子供の容姿はわからなかった。

 依然にこの部屋に入った時はこんなものはなかった。

 ならば誰かがこの部屋に入って、わざわざ金庫の中に置いていったに違いなかった。

 一体何のために……と蘭子は訝しんだ。加えて、写真の左半分に写っている子供の正体も気になった。この子が自分であるはずはなく、写真の家屋に行った記憶もない。そもそも、蘭子は父と一緒に撮った写真を一枚も持っていなかった。

 写真を裏返すと、ごくごく薄い鉛筆で何か文字が書いてある。

 蘭子は立ち上がり電灯の真下に立つと、写真に光を当てた。写真の右下に、父の筆跡で「八六年 花澄と」と書いてあった。今は九一年、八六年は五年前だ。

「か……すみ」

 蘭子は、おそらくは切り取られた子供の名らしきものを呟いた。

 花澄。綾小路という華やかな家名に負けない花の名。妙に胸が騒いだ。伝統として、この家に生まれた女子は名前に必ず花が入る。

「……まさか」

 蘭子はカッと頬が熱くなるのを感じた。

 彼女は、父と手を繋いだ、顔もわからない花澄に密かに嫉妬した。父の笑顔もまたしゃくに障った。父が蘭子にこのような優しい顔を向けたことは只の一度もなかった。

 その時、窓の外から再びバンという音がした。

 決して風の音ではない、蘭子の動揺を待っていたかのような人為的な音だった。

「誰」

 蘭子は小さく叫び、窓辺へ駆け寄った。声は掠れていたが、不思議と怖くはなかった。恐怖よりも好奇心の方がまさった。

 何者かが窓の外にいる。邸内に忍びこんだ凶悪な強盗であるかもしれないのに、蘭子は大胆にもカーテンを開け、窓越しに外を確認しようとした。

 カーテンを開いた瞬間、待ち構えていたようにザッと大きな影が彼女の視界を横切った。鴉や狐にしては大きすぎる。風のうねりと言うならあまりに躍動感に満ちた影だった。

 ここは三階だ。窓のすぐ傍に樹木が植えられているわけではなく、足場にできるものはない。ならば侵入者は外壁をよじ登ったのか。それとも密かに屋敷に忍びこんで三階まで上がり、部屋に入って窓の外に張りついたのか。

 蘭子は勢いよく窓を開け、闇に跳躍ちょうやくした影を確かめようとした。

 が、そこで背後からパタパタとせわしない靴音がした。振り返るとちょうどキクが寝室に飛び込んできたところだった。蘭子は咄嗟に手に持っていた写真をガウンのポケットに捻じ込んだ。

「何者か」

 キクの鋭い声に、蘭子は冷たい外気に肌を引き攣らせながら即答した。

「キク。妾よ」

 主人と知って、キクの声音は途端に丸くなる。

「おや、お嬢様でしたか……。このような夜更けに、こんなところで何をなさっておられるのです。旦那様のお部屋に何か御用だったのですか」

「……いいえ」

 蘭子はポケットに手を突っ込んだまま緩く首を振り、窓辺からさっと離れた。

「ただ……お父様を懐かしんでいただけよ」

 それはあながち嘘ではない。ただ父への慕情と言い切るには、蘭子と章浩の間には深い溝があった。章浩は終生、蘭子の存在を無視し、存在しないかのように振る舞った。

 子育ては乳母や使用人に任せ、親子間の情愛は薄いとされる華族であっても、その貫徹された冷淡さが娘の心に傷を残した。

「そうでございましたか。しかし、このような寒いところにおりましてはお体に障ります。もうお休みください」

「ええ、そうします」

 と、答えながらも蘭子の中にむらむらと一つの疑念が沸いてきた。

 ……何故、キクはここへ来たのだろう。 

 深夜の、それも普段使用されていない三階になど用はないはずだ。

「キクはどうしてここに。旧館に戻ったのではないの」

「私は所用があって一階におりました。その、上から音が聞こえたものですから」

「バンという音かしら。それなら妾も聞いたわ」

「ええ、ですのですぐに駆け上がって参りました。お嬢様のことが心配で」

 キクの丁寧な返事にも、蘭子は違和感を覚えた。

 一階にいたのなら、今時分上階にいるのは蘭子のみだ。怪しい音がして心配するのはわかる。

 だが主人の身を案じるなら、まずは二階の蘭子の私室を確認するのが先ではないだろうか。キクは音がしてから、ものの数十秒で三階の一番奥の寝室までやってきた。まるでそこに誰かいることを知っていたように……。

 確か、バンという音は四回した。蘭子が二階の自室で聞いた三回と、父の寝室に入ってからした一回だ。キクは最初の三回の騒音のことを言っているのだろうか。それを聞いて上がってきたのなら、廊下や階段で蘭子とかち合うはずだが。

 怪しく思いつつも、蘭子は何食わぬ顔でキクに言った。

「案じてくれてありがとう。でも妾はなんともないわ」

「では、私は家事の途中でしたので。これにて失礼します」

 キクはさっと身を翻すと、足早に部屋を出て行った。

 去り際に、キクの制服からはらりと何かが落ちた。蘭子がしゃがんで拾い上げると、庭に落ちているような小さな枯れ葉だった。絨毯には、僅かだが濡れた泥がこびり付いていた。もしかしたらキクは、一階ではなく外にいたのかもしれないと蘭子は思った。再度窓辺に寄り、外を見やる。目を凝らしたが、暗澹の闇がそびえるばかりで何も見えなかった。

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