伯父と異母妹
翌日の朝、新聞の一面には写真付きで綾小路伯爵夫人と鏑木男爵の婚約記事が掲載された。この国一番の発行部数を誇る帝都新聞の見出しは、「異人の伯爵夫人、
その内容は綾小路家からすれば、悪意に満ちた酷いものだった。
表向きは婚約を祝うように見せかけながら、よくよく読めば蘭子の出自疑惑、襲爵を認許した宮内省への批判が主だった。これは誹謗中傷もいいところであり、蘭子の母親の名誉を著しく
どうせこうなるのだと、彼女は新聞を放り出して嘆息した。
笑顔で会見に
名門華族の伯爵夫人といえども、自分は
昼過ぎになり、伯父の藤堂忠次子爵が綾小路邸にやってきた。
忠次は蘭子の母・
東京には仕事や遊興で頻繁に来ており、時々ご機嫌伺いと称して綾小路邸にやって来る。口髭を
身支度した蘭子がキクを従えて一階の客間へ入っていくと、忠次は椅子から立ち上がり恭しく頭を下げた。姪とはいえ、蘭子は自分より身分が高い伯爵夫人である。
蘭子が腰かけるのを待って忠次も座り、ドアの傍にキクが立った。
「伯父様、よくいらっしゃいました。お会いできて嬉しいですわ」
上流階級で流行っている支那の香木で作られた
「ややっ、綾小路の誉れたる伯爵夫人のご機嫌は如何ですかな。継がれてまだ日も浅いというのに、
忠次が媚びへつらって長々と世辞を述べるのはいつものことだ。
蘭子はこの伯父の貧相な外見、華族らしからぬ商人気質丸出しの品のなさ、
かといって、彼を無下に扱うこともできなかった。蘭子が父に
それに、忠次がどこか自慢気な響きを持って「新参者」と称するのもわけがある。
元々、彼らは関西の商人で、名字も藤堂ではなく「入江」であった。
関西で財を成したあと明治になって関東に進出してきたのだが、入江家の本当の目的は事業拡大や新店舗の展開ではなく別のところにあった。
古今東西いつの時代でも、蓄財し金に満たされた者が次に求めるものは決まっている。
「地位」と「名誉」だ。
忠次の父で、蘭子の祖父にあたる入江
彼は東京に移り住むと、子供がいない貧乏華族の藤堂子爵に近づき、終生経済的援助をする代わりに彼の養子に収まった。
華族法では、華族が平民を養子にすることは禁じられている。
平民の上流階級への進出を恐れる貴族院議会は、当然のことながら藤堂家の襲爵の是非について紛糾した。しかし、高額納税者である銀行家や実業家に「新国家建設とその安寧の維持に寄与した」という名目で爵位が与えられていた経緯もあり、どこまでを華族とするかの基準は曖昧な部分もあった。
結局、身分の隙をついた無理は莫大な金の力で通ってしまい、藤堂子爵亡き後は数歳しか違わない養子の忠道が後を継いだ。忠道は一族共々「入江」という名字を捨て、藤堂子爵として華族の仲間入りを果たしたのである。
さらに忠道は、
忠道の
しかし、ここに来て重大な問題が起きた。
それは彼ら入江一族がこれまで商売上直面してきた、積み荷を満載した船の転覆だの、海賊の
日奈子の産んだ女児が両親とは似ても似つかない、いや人種さえも違う赤毛の碧眼だったのである――。
忠次がつまらない挨拶を延々と述べる間、蘭子はゆったりと衵扇を扇ぎ、キクの
「伯父様もお元気そうで何より。妾も婚約発表が終わりまして一安心したところです」
すると、忠次は悔しそうに顔を顰め、少々恨みがましい視線を向けてきた。
「……そのことですが。今更こんなことを申し上げるのもなんですが、今回の鏑木男爵とのご婚約は
忠次は自分への相談なく、姪が結婚相手を決めたことが不服だった。
彼としては、蘭子の婿は最低でも同じ伯爵家から迎えたかったに違いなかった。
蘭子は伯父の慶事に水をさすような発言にも怒ることなく、扇を口に当て、ホホホと艶やかな笑い声を上げた。
「そんな。元より華族に婚姻の自由などありません。後継ぎを設け、家を存続させるのが第一の使命なのですから。ならば、どなたと結婚しても同じです。妾は、とにかく早く一人前になって社会に認められたいのです。それなら結婚して、家庭の責務を負うのが一番と思いまして」
「なればこそです。誰でも良いと仰るのなら、是非とも儂にお任せいただきたかった。何も爵位が下の男爵でなくとも良いではありませんか。そうでなくても鏑木男爵は婚歴がおありなのです。あなた様が後妻に甘んじる必要はなかったのです」
「とはいっても伯父様。実際問題、妾に構ってくださった殿方は惟光様だけでしたのよ。襲爵して以来、意を決して舞踏会や晩餐会にも出かけましたけど、妾にはどなたも情けをかけてくださらず。勇気を出して話しかけても、露骨に逃げられて。お招きくださった方ですら、影では悪口を……。
同じ身分の
「……そうでしたか」
それには忠次も返す言葉がなかった。
蘭子は高貴な身分に生まれながら、華族社会に受け入れられず、社交場でもぞんざいな扱いを受けた。その陰湿な仕打ちに、この誇り高い姪はどんなに傷ついたことだろう。
蘭子は貴族の娘らしく、結婚は家を存続させるための政略的なものと理解している。
だが、保守的かつ閉鎖的な上流社会は、彼女に政略の道具となることも許さなかったのだ。
「妾とて、大恩ある伯父様の出世のお手伝いをしたいのはやまやまです。が、まさかこの
「そんな、何を仰るのです。伯爵夫人の美貌は天下一です。かの有名なクレオパトラや楊貴妃、小野小町でさえも足元に及びもつかないでしょう」
世界三大美女の名まで挙げて褒めそやしつつも、忠次は蘭子の
二人の間に気まずい沈黙が下り、忠次は婚約の話はやめることにした。
コホンと咳払いをし、彼は次に姪が喜びそうな話題を探した。
「……そういえば先日所用で神戸に行って参りました。後で屋敷の者に土産物を届けさせますが、ついでに日奈子にも会いましてな」
「お母様に」
蘭子は思わず身を乗り出した。母は、蘭子の存命しているたった一人の家族だった。
「ええ、元気にやっておりました。すっかり婚家とも馴染んで、今度また子が産まれるようです。おっとこれは
「あら伯父様、関係なくはないでしょう。父親が違うとはいえ妾の兄弟。当主として、綾小路家の家紋入りの祝いの品を贈りましょう」
蘭子の予期せぬ申し出に、忠次は慌てふためいた。
「いや、さすがにそれは……。お気持ちは嬉しいですが、日奈子は既に他家の人間ですのでな。嫁ぎ先は豪商とはいえ平民ですし、伯爵夫人から祝いの品などとんでもない。そのようなお気遣いは無用です」
大袈裟に手を振りながら、忠次は蘭子の申し出をきっぱり断った。
蘭子は厚意を拒絶されて内心不満だったが、無理を押し通しても母が困るだけと考え直した。母の日奈子は綾小路家の籍を抜けて久しい。遠い昔に生き別れてより、会ったこともない。
蘭子の母・日奈子は、蘭子がまだ赤ん坊の時分に章浩と不本意ながら離婚した。
離婚事由は、章浩が主張するところでは「妻の不貞」、則ち姦通であった。
章浩は「長子の蘭子は妻の不貞行為の果てに生まれた子であり、自分と血縁関係はない」と宣言し、蘭子も綾小路の籍から外そうとした。
しかし、日奈子の不義密通の証拠は何一つなく、日奈子自身も一切認めなかった。
不倫相手の男もわからなかった。実家の藤堂家は、章浩の一方的な離婚通知に猛然と反発した。夫婦の問題は家同士の問題となり、互いに弁護士まで雇って裁判寸前にまで
結果として、妻の不貞を立証できなかった章浩は、多額の示談金を払って日奈子を離縁した。蘭子は長子として綾小路家に残されることになった。日奈子について藤堂家からやってきた女中のキクも、養育係として綾小路家に残った。キクは藤堂家とのパイプそのもので、幼い蘭子を守る
日奈子が実家に戻った後、章浩は蘭子を忌み嫌い、徹底的に無視した。
彼女を新館の二階に閉じ込め、屋敷を訪れる客人の前にも決して出さなかった。
学校にも通わせなかったので、藤堂家はキクを通じて綾小路家に通いの家庭教師を何人も送り込み蘭子を教育した。
蘭子が読み書きや歴史等の一般教養、華族としての礼儀作法を身につけられたのは藤堂家の支援に依るものだった。そのことは蘭子もよく承知している。
江戸時代だったら、良くて座敷牢送り、悪ければ秘密裏に殺されていたかもしれない自分が日の目を見られたのも、藤堂家の権力への渇望と執心のおかげだった。
「……わかりました。では祝いの品を贈るのはやめておきましょう」
蘭子は仕方なくといった面持ちで、異父兄弟への祝福を諦めた。忠次はホッと安堵の表情を浮かべた。
そこで蘭子は、昨夜見つけた写真のことを思い出した。
あの切られた写真の、左半分にいるはずの少女は一体誰なのだろう。
本当は自分以外にも、綾小路の血を引く者がいるのではないだろうか。もしかしたら伯父は何か知っているかもしれない。
蘭子はまずは意図を悟られぬよう、世間話から入ることにした。
「そういえば、伯父様は今朝の帝都新聞をご覧になりまして」
「ああ、見ましたよ。全くもって酷い内容でした。あなた様を不義の子だと、綾小路の正統なる血筋ではなく、成り上がりの藤堂が仕込んだ
忠次は思い出すだけで腹が立つのか、吐き捨てるように言った。蘭子はソファに深々と身を沈め、わざとらしく溜息をついた。
「妾も自分の容姿が特異であることは認めます。ですが、だからといってお母様がいわれなき
「ええ、私どもは誰一人として日奈子の不貞なぞを疑ってはおりませんぞ。なあ、キク。お前が一番よく知っているだろう」
忠次に促され、黙って控えていたキクが口を開いた。
「勿論でございますとも。日奈子様は大変おとなしく控えめな方です。一人で外にお出かけになることもありませんでしたし、どこへ行くにしても先代の章浩様とご一緒でした。西洋人と知り合う機会などあるわけがありません。ましてや密会なんて不可能です。日奈子様を知る者は皆、潔白を信じております」
「でもお父様は妾を忌み嫌われた……。妾を屋敷に閉じ込め、最後まで後継者にご指名なさらなかったわ。その証拠に『当主の証』もお渡しくださらず……。だから新聞雑誌もやんやと書きたてるし、あれこれ噂されるのです。妾を正当な血筋ではなく、簒奪者であると」
「伯爵夫人、そのような中傷に耳を貸してはいけません」
「ねえ、伯父様、お父様のご意思はなんだったのでしょう。やはり、妾を後継ぎにするおつもりはなかったのでしょうか。でしたら妾に当主の資格など……」
「そのようなことはありません。章浩殿は日奈子の後に、新たな妻を娶りませんでした。あなた様を後継者とするべく配慮した結果です。ましてや芸者の子など……」
そこで忠次は自分の失言に気づき、アッと声を上げた。
慌てて口を噤んだが、時既に遅かった。助けを求めるようにキクを見上げたが、キクは忠次を冷たく
蘭子は内心ほくそ笑んだ。同じような話題、同じような愚痴を繰り返しながら彼女は伯父の失言こそを待っていた。元から母の不貞など微塵も疑っていなかった。
蘭子は父の寝室に忍びこみ、半分に切った写真を置いていった者の真意を知りたかった。誰であれ、これは自分への挑戦状だとも思った。
「芸者の子……。伯父様、芸者の子とは何でしょう」
ちらりと流し目をくれながら尋ねると、忠次は焦りからか膝の上の手を何度も組み直した。
「伯父様、もしかしてそれは妾の父方の兄弟姉妹に関することでしょうか」
「いえ、それは、あのですね……」
蘭子は伯父のしどろもどろの反応を見て、昨夜父の寝室で拾った写真のことを言うのはやめた。写真を置いていった人物が、伯父や藤堂家の意向を受けているとは考えにくかった。元は母の使用人だったキクも同様だろう。
彼らは蘭子が伯爵夫人であればこそ、様々な権力の恩恵に預かることができる。家督相続権を持つ蘭子の兄弟については、知られたくなかったはずだ。
蘭子は殊勝な笑みを浮かべ、
「伯父様、妾は当主として綾小路に連なる者を知っておきたいのです。さあ、教えてくださいませ」
「しかし、章浩殿はあなた様に何も仰らなかったのでしょう」
「ええ、だからこそ口惜しいのです。それ程までに父に疎まれ、信頼されてなかったと思うと悲しみに心が張り裂けそうです」
「ですが……」
尚も渋る忠次に、蘭子はカマをかけることにした。
「その芸者の子ですが、名前には花という字が入るのではありませんか。例えば花澄……とか」
「そ、そこまでご存知なのですか……」
忠次はとうとう観念したのか、大きく息をついて
「ではもう致し方ありません。これは儂も探偵を雇って調べさせたことですが、確かに章浩殿は外に家庭を持っていました。密かに買い求めた池袋郊外の別宅に、元深川の芸者を囲っていました。芸者との間には花澄という娘がおり、章浩殿は認知して大変に可愛がっていたようです。末はこの花澄を後継者にするつもりだったかと」
「ならば妾は、お父様のご遺志に反して家を継いでしまったのですね」
「いえいえ、何せ肝心の遺言状が見つかっておりませんのでな。今となっては、確かなことは何もわかりません」
「それはそうですが……。で、その花澄とやらは今年で幾つになるのです。今も池袋に暮らしているのですか」
居場所がわかったら、すぐにでも母子に迎えを差し向けたいと蘭子は思った。なんなら自分の方から出向いてもいい。それくらい花澄の存在に前のめりになっていた。
「あなた様の二つ下ですから今年で十六ですな。生きていれば」
「……生きていれば。伯父様、どういうことです」
不穏な言葉の響きに、蘭子の口調は咎めるようにきつくなった。忠次は迷うようにしばし目を宙に泳がせたが、やがて気が進まないながらもぼそぼそと話し始めた。
「別宅は五年前、正確には四年半近く前になりますが火事で焼失しました。出火原因は不明です。焼け跡からは、花澄の母親と住み込みの女中らしき焼死体が見つかりました。ですが、女の子供の遺体はどこにもなく……。つまり花澄は行方不明なのです。章浩殿は
「焼死体……行方不明……」
そんな
「あなた様と花澄以外で、章浩殿が認知した子はおりません。花澄は行方不明になり、章浩殿が急死された際、家督相続権があるのはあなた様お一人だった。ですから、あなた様の家督相続は当然の権利なのです。世間に
忠次は大真面目な顔で、そこだけは譲れないとばかりに強く言い切った。
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