二、妖しの野ばら嬢

銀座、カフェー、しらゆり



 昭和六年、大日本帝国の内情は年が明けても混乱の渦中にあった。

 前年から続く金融恐慌で銀行や多くの企業が倒産し、街は職を失った労働者で溢れ返っている。都市部の治安は悪化し、連日のように強盗殺人や傷害事件が起きていた。

 さらに異常気象による不作も相まって食糧不足に陥り、物価は高騰して庶民の生活を圧迫した。農村では多くの若い娘が借金のかたに売られ、親を失って或いは捨てられた子供たちが徒党を組んで路上をたむろした。大人も子供も、寄る辺のない弱者は行き倒れるより他なく、日本全土が憤懣ふんまんと悲哀に満ち、人心は先の見えない不安にさいまれ、荒みきっていた。

 

 そんな中、首都東京の、いや日本一最先端な街である銀座は雲一つない青空だった。

 穏やかな昼下がりの午後、余所よそ行きの着物で洒落しゃれこんだ人々が通りを闊歩かっぽし、思い思いに買い物や喫茶、食事を愉しんでいた。

 前年に開業したばかりの、銀座三越百貨店は老若男女を問わず多くの客で賑わっていた。この街だけは、恐慌や不景気とは無縁のまま、飽くなき繁栄を続けているように見えた。昼も大変に賑やかだが、夜になればまた歓楽街のネオンがきらめき、嬌声と紫煙しえんを交えた享楽をまき散らす。銀座は現代の消費社会を映し出す鏡であり、人々の欲望が集まっては昇華を続ける街だった。

 三越百貨店の裏手の通りの路地を少し奥に入っていったところに、カフェー「しらゆり」はあった。三階建ての老朽化したビルの一階に入った小さな店で、喫茶を楽しむというよりは、西洋風のバーのような内観だった。

 通りに看板が出ていなければ見過ごしてしまう樫の扉を抜けると、四坪ほどの狭い店内はカウンター席が四つ、四人掛けのソファ席が二つのみで十人も入れば窮屈に感じる。

 昼間だというのにカーテンを閉めきっており、店内は薄暗かった。旧式の音盤再生機レコードプレイヤーがカタカタと音をたて、昨今人気の仏蘭西歌シャンソンが流れていた。

 店内に客は一人しかいなかった。カウンター席の端に地味な灰色のワンピースを着て、ひっつめ髪の小柄な少女が座っている。幾分幼さが残るものの端正な顔立ちで、どこか典雅てんがな雰囲気を持つ美少女だった。彼女はカウンターに積まれた帝都新聞の朝刊を熱心に読んでいる。手元には、珈琲が入ったカップが置かれていた。

 店の店員もまた一人だった。

 カウンター内に、一九〇センチはあろうかという大男が立っていて、洗った食器を真っさらな布巾で丁寧に拭いている。白いシャツに朱色の洒落たベスト、黒のズボンを履き、首には黒の蝶ネクタイをつけている。

 坊主のようにつるつるに剃り上げた頭は、今にも天井にぶつかりそうだった。

 歌に合わせて上機嫌に鼻歌を歌っていたが、はたからはうんうんと唸り声を上げているようにしか見えなかった。

 やがて少女は読み終えた新聞を置き、冷めきった珈琲を一口すすった。

「……やだ。冷珈琲アイスコーヒーは美味しいのに、冷めた珈琲が不味いのはどうしてかしらね」

「あったかいうちに飲まないからよ。あんた、何を熱心に読んでたの」

 聞き咎めたマスターが新聞を覗き込んだのに、少女は笑って答える。

「例のあれ。ご婚約の続報よ」

 興味を持ったのか、マスターは新聞を取り上げ、綾小路伯爵夫人と鏑木男爵が写った写真を食い入るように見つめた。写真は、婚約発表時の時のものの使い回しだった。

「何々、『綾小路伯爵夫人、ご結婚の日取り決まる。六月の中旬に内定』。つまり、六月の花嫁ジューン・ブライドになるってこと。ふーん、何もじめじめした梅雨の時期に挙げなくてもいいのにねえ。ドレスもしけっちゃいそうじゃない。あら、鏑木男爵ていい男じゃない。好みかも」

「意外だわ。シモンはもっと華奢で細面ほそおもての人が良かったのではないの」

 シモンと呼ばれたマスターは、その低い声と巨躯に似合わず乙女のように含羞はにかんだ。

「歌舞伎の女形おやまみたいなのも悪くないけどね。逞しいのも素敵。想うだけなら、心は自由なんだから。あれこれ浮ついたっていいじゃない」

 シモンはふふふと意味深に笑いながら、写真の鏑木の胸の辺りを指で軽くなぞってみせた。鏑木のタキシードの下の胸板は確かに厚そうだった。

「にしても、女の方は酷いもんね。親の仇みたいにカメラ睨んじゃってさ。一体何が不満なんだか。美人だし、大金持ちだし、伯爵夫人だし。望めばなんだって手に入るでしょうに」

「シモン、悪口はご法度よ。これからご主人になる方なのに」

「……そういや、そうだったわね。というか、よくよく考えりゃあたしのご贔屓筋ひいきすじでもあるのだわ。店は番頭に任せきりだけど、今度ご挨拶に伺わなきゃ」

 今思い出したのか、シモンはいそいそとカウンターの下を探り、白の封筒を取り出した。表には達筆な字で「紹介状」と墨書きされている。

 シモンは封筒を少女に手渡した。

「はい、これ。表の名で書いておいたから」

「ありがとう。助かるわ」

 少女は封筒を受取ると、持参した風呂敷から紫の袱紗ふくさを取り出して丁寧に包んだ。

 一切の無駄がないなめらかな動きを、シモンは頬杖をつきながら見守る。

「……楽しそうねえ、咲。イイ顔してる」

 咲と呼ばれた少女は顔を上げ、涼やかに笑んだ。

「楽しいわ。お屋敷勤めなんて初めてだもの。とっても、とっても胸が高鳴るわ」

 咲は紹介状を包み終わると、ワンピースの襟に両手を当てた。

 襟の中に指を差し入れたかと思うと何かを探り当て、するすると金の鎖を引っ張り出した。

 咲の胸に下げられていたのは、野茨のいばらの細かい紋様が彫りこまれた純金のロケットペンダントだった。古美術品アンティークの高価な代物のようだが、卵型のロケットの先端は何か強い力が加えられたのかへこんでおり、黒ずんでしまっている。咲はロケットの表面を指先で愛しげに撫でると蓋を開けた。中には日本髪に結い、色留袖いろとめそでを着た若い女の写真が入っていた。瓜実うりざね顔の古風な美女だったが、咲と顔は似ていなかった。

 

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