潜入



 翌日、咲は風呂敷包みを持ち、少々道に迷いながらも綾小路邸へ辿たどりついた。

 シモンが言った通りに話は通っており、すんなり旧館の一階に通される。

 これまでも綾小路家からはたびたび女中の募集が出ていた。しかし、新聞に掲載されるような公募ではなく、縁故のみの採用だった。その募集に、咲はシモンを通じて応募したのだった。

 明治時代に建てられた旧館は老朽化が進んでおり、通された使用人用の居間も壁の漆喰しっくいがところどころ禿げていた。咲は神妙な顔で長椅子ソファーに座り、女中頭のキクの面接を受けた。

 キクは時間をかけ、咲が持参した紹介状を隅から隅まで舐めるように読んだ。

 それから、咲の顔を値踏みするようにじろじろと見た。

野原咲のはらさき、十六ね。保証人は船橋呉服店の船橋恭太郎ふなばしきょうたろう氏。銀座の老舗しにせの紹介だし、まあいいだろう。お嬢様の結婚も決まってこれから忙しくなる。今日から働いておくれ」

「ありがとうございます」

 咲はキクに向かって、ぺこりと頭を下げた。

「にしても経験者を求めたはずなのに、あんたみたいな小娘が来るとはね。確かに若い方が良いとは言ったが……。ほら、おいで」

 キクはぶつぶつ言いながら立ち上がり、備品を仕舞ってある戸棚を開けた。

 中から綿の白シャツを数枚、洋風のメイド服とエプロンを取り出すと咲に手渡す。

「お前の仕事はお嬢様の食事係だよ。配膳と給仕が主だが、人手が足りないから他のことも覚えてもらう。怠けるんじゃないよ。給金から差し引くからね」

「はい」

「フン、どうだか。使い物になればいいがね」

 キクは意地悪く鼻を鳴らし、廊下に面したドアを開け放った。

「さくら、さくらはどこだい」

 キクが廊下に出て声を張り上げると、奥から「只今、参ります」という爽やかな声がした。やがて若い娘らしい軽やかな足音がして、当の呼ばれたさくらが現れた。

「あら、新しい方ですか」

「今日から入った咲だよ。お前の二つ隣の部屋だ。案内しておやり。ひととおり終わったらまた連れておいで。お嬢様にご報告しないといけないから」

「承知しました。仰せの通りに致します」

「野原咲です。よろしくお願いします」

 咲は先輩にあたるさくらにも頭を下げた。さくらは、咲に荷物を持ってついてくるように言った。

 

 

 さくらと咲の部屋は旧館の二階にあった。

 二人は階段を登り、新しい女中のためにと用意されていた部屋に入った。部屋には簡素な寝台ベッドと机が置いてあり、窓からは邸内の林を越えて神田川が見えた。

 部屋に入ってひと息つくと、さくらは咲に親しみを込めて笑いかけた。

 さくらの背筋はピンと伸び、服の上からでも程よく引き締まった身体つきがわかる。全身から清潔感が滲み出ていて、一挙一動が風に揺れる柳のようにしなやかだった。

「全く息が詰まるわね。仰々ぎょうぎょうしい言葉遣いは肩がって仕方ないわ。お仕事だから仕方ないけど」

 咲はさくらの砕けた口調に驚いたが、使用人同士の気安い会話と知り、顔をほころばせた。

「後で布団と火鉢を持ってくるわ。カーテンも冬用の厚手のものにしてあげる。寝台ベッドで寝るのは初めてかしら」

「……ええ」

 風呂敷包みを置いた咲は、部屋をぐるりと見渡した。さくらは気さくに屋敷内のことを説明した。

「このお屋敷は全て洋式なの。お風呂もかわやもね。だから慣れないうちは戸惑うかもね。食事も全て洋食で統一されていてお米は出ないの。私も正直なところ、畳や炬燵や恋しいわ。お休みの日はいつも実家に帰って、着物を着て過ごしているのよ」

「さくらさん……先輩のご実家は近いんですか」

「私は下町、浅草の生まれよ。家には父がいるわ。兄弟は弟が一人。咲は?」

「私も東京です。ですが家族はもう……。一人になってしまったので、遠縁の親類がここを紹介してくれました」

「そう。でも不思議だわ。女中以外の仕事につこうとは思わなかったの。お嬢様がお読みになる婦人雑誌には、百貨店案内係デパートガールとかバスの車掌とか花形職業が色々紹介されているわ」

 すると咲は困ったように笑い、とんでもないとばかりに首を横に振った。

「そんな。私には何の才もありませんし……。それに聞きました。華族のお屋敷で数年勤めれば、嫁ぎ先には不自由しないと」

「そうね、伯爵家ならお家の体面もあるし。きちんと勤め上げれば、辞める時に立派な婚礼道具を用意してくださる。でも……」

 と、そこまで言いかけてさくらは表情を曇らせた。

「いつの時代も、奉公人の幸せは主人次第ね。良い方に巡り合えればいいけど」

 さくらのどこか陰鬱な声に、咲も不安そうに眉を顰めた。

「……先輩、ご主人様はどのような方なのですか」

「お嬢様のこと? 気位の高い方だけど、冷酷でも意地悪でもないわ。世間はやたらとあの方を悪く言うけれど……。先代の旦那様に比べれば、お仕えしやすい方よ」

 さくらは嫌なことでも思い出したのかぶるりと肩を震わせた。暖房がない冷えきった部屋にも関わらず、彼女のひたいにはうっすらと汗が滲んでいた。

「人は少ないんですね。こんなに大きなお屋敷なのに、女中がキクさん、さくらさんの二人しかいないなんて……」

「昨年末に二人辞めたの。キクさんが厳しいから……。今はお嬢様お一人しかいないから三人でも回るけど、ご結婚後はそうはいかないわ。さあ、話はまた夜にでも。新館に行きましょう。お嬢様にご挨拶しなくては」

「はい」

 咲は素直に頷き、さくらの後に続いた。

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