潜入
翌日、咲は風呂敷包みを持ち、少々道に迷いながらも綾小路邸へ
シモンが言った通りに話は通っており、すんなり旧館の一階に通される。
これまでも綾小路家からはたびたび女中の募集が出ていた。しかし、新聞に掲載されるような公募ではなく、縁故のみの採用だった。その募集に、咲はシモンを通じて応募したのだった。
明治時代に建てられた旧館は老朽化が進んでおり、通された使用人用の居間も壁の
キクは時間をかけ、咲が持参した紹介状を隅から隅まで舐めるように読んだ。
それから、咲の顔を値踏みするようにじろじろと見た。
「
「ありがとうございます」
咲はキクに向かって、ぺこりと頭を下げた。
「にしても経験者を求めたはずなのに、あんたみたいな小娘が来るとはね。確かに若い方が良いとは言ったが……。ほら、おいで」
キクはぶつぶつ言いながら立ち上がり、備品を仕舞ってある戸棚を開けた。
中から綿の白シャツを数枚、洋風のメイド服とエプロンを取り出すと咲に手渡す。
「お前の仕事はお嬢様の食事係だよ。配膳と給仕が主だが、人手が足りないから他のことも覚えてもらう。怠けるんじゃないよ。給金から差し引くからね」
「はい」
「フン、どうだか。使い物になればいいがね」
キクは意地悪く鼻を鳴らし、廊下に面したドアを開け放った。
「さくら、さくらはどこだい」
キクが廊下に出て声を張り上げると、奥から「只今、参ります」という爽やかな声がした。やがて若い娘らしい軽やかな足音がして、当の呼ばれたさくらが現れた。
「あら、新しい方ですか」
「今日から入った咲だよ。お前の二つ隣の部屋だ。案内しておやり。ひととおり終わったらまた連れておいで。お嬢様にご報告しないといけないから」
「承知しました。仰せの通りに致します」
「野原咲です。よろしくお願いします」
咲は先輩にあたるさくらにも頭を下げた。さくらは、咲に荷物を持ってついてくるように言った。
さくらと咲の部屋は旧館の二階にあった。
二人は階段を登り、新しい女中のためにと用意されていた部屋に入った。部屋には簡素な
部屋に入ってひと息つくと、さくらは咲に親しみを込めて笑いかけた。
さくらの背筋はピンと伸び、服の上からでも程よく引き締まった身体つきがわかる。全身から清潔感が滲み出ていて、一挙一動が風に揺れる柳のようにしなやかだった。
「全く息が詰まるわね。
咲はさくらの砕けた口調に驚いたが、使用人同士の気安い会話と知り、顔を
「後で布団と火鉢を持ってくるわ。カーテンも冬用の厚手のものにしてあげる。
「……ええ」
風呂敷包みを置いた咲は、部屋をぐるりと見渡した。さくらは気さくに屋敷内のことを説明した。
「このお屋敷は全て洋式なの。お風呂も
「さくらさん……先輩のご実家は近いんですか」
「私は下町、浅草の生まれよ。家には父がいるわ。兄弟は弟が一人。咲は?」
「私も東京です。ですが家族はもう……。一人になってしまったので、遠縁の親類がここを紹介してくれました」
「そう。でも不思議だわ。女中以外の仕事につこうとは思わなかったの。お嬢様がお読みになる婦人雑誌には、
すると咲は困ったように笑い、とんでもないとばかりに首を横に振った。
「そんな。私には何の才もありませんし……。それに聞きました。華族のお屋敷で数年勤めれば、嫁ぎ先には不自由しないと」
「そうね、伯爵家ならお家の体面もあるし。きちんと勤め上げれば、辞める時に立派な婚礼道具を用意してくださる。でも……」
と、そこまで言いかけてさくらは表情を曇らせた。
「いつの時代も、奉公人の幸せは主人次第ね。良い方に巡り合えればいいけど」
さくらのどこか陰鬱な声に、咲も不安そうに眉を顰めた。
「……先輩、ご主人様はどのような方なのですか」
「お嬢様のこと? 気位の高い方だけど、冷酷でも意地悪でもないわ。世間はやたらとあの方を悪く言うけれど……。先代の旦那様に比べれば、お仕えしやすい方よ」
さくらは嫌なことでも思い出したのかぶるりと肩を震わせた。暖房がない冷えきった部屋にも関わらず、彼女の
「人は少ないんですね。こんなに大きなお屋敷なのに、女中がキクさん、さくらさんの二人しかいないなんて……」
「昨年末に二人辞めたの。キクさんが厳しいから……。今はお嬢様お一人しかいないから三人でも回るけど、ご結婚後はそうはいかないわ。さあ、話はまた夜にでも。新館に行きましょう。お嬢様にご挨拶しなくては」
「はい」
咲は素直に頷き、さくらの後に続いた。
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