さくらの悲劇、咲の思惑



 こうして、咲は綾小路家で女中として働き出した。

 当初は慣れないのかしばらくおとなしくしていたが、元々は活発な性格らしくすぐに使用人たちとも打ち解けた。一日三回の食事の給仕以外にも仕事は山ほどあり、彼女は毎日朝から晩までせっせと働いた。

 入って数日も経つと、咲は綾小路家の内部事情が段々とわかってきた。

 女中はキクも含めて全員住み込みだったが、家令、運転手、運転手助手、料理人、庭師、下男、交替制の警備員ら男の使用人は全員既婚者を雇っており、近所から毎日屋敷に通ってきていた。

 主人が若い女性であること、また使用人同士の恋愛の不祥事を防ぐため、独身の男はらない方針のようだった。使用人の取り纏め役として西田という中年の家令がいたが、存在感は極めて薄かった。綾小路家の家事の一切を取り仕切っているのは、蘭子が家を継いだ後に女中頭となったキクであった。

 二十年近くこの家にいる老女は使用人たちに常に偉ぶり、男たちは彼女にあごで使われるのを嫌がってなかなか居つかず、短期間で人が入れ替わっていた。女中も同様で、キクのいじめに近いしごきに耐えられず、雇ってもすぐに辞めてしまうのだった。

 が、その中で一つ奇妙なのは、咲の先輩にあたる多喜見さくらの存在だった。

 彼女は性格はほがらかにして職務に忠実、誰にでも親切だったが、他の使用人たちとの間には見えない壁のようなものがあり、どこか浮いた存在だった。

 後輩の咲のことは何くれと面倒を見たが、定期的に開かれる使用人たちの懇親会には一度も顔を出さなかった。週一日の公休も、朝から実家に行き夜まで帰ってこない。他の者もさくらには距離を置いていた。

 咲は食事係という職務上、厨房に出入りすることが多く、次第に綾小路家に長く仕える料理人たちと話すようになった。入って一ケ月ほど経つと、彼らは仲間意識からか屋敷の過去の事情も少しずつ教えてくれるようになった。

 古株の彼らは、先代の当主・章浩が外に家庭を持っていることを知っていた。

 章浩は生前、旅行と称して行き先を告げず屋敷を留守にすることがたびたびあった。

 二、三日すると戻ってくるが、時々その前後に子供の衣服や玩具が綾小路邸へ届くことがあった。それらは間違いとされてすぐに店に返品されたが、章浩が蘭子を完全に無視する様から、彼女のためとは考えられなかった。使用人たちは、妾の産んだ子への贈り物だろうと噂し合った。

 それでも屋敷内に暗黙の箝口かんこう令が引かれていたこと、ほぼ幽閉状態の蘭子に接する使用人はキクのみだったということもあり、章浩の存命中に蘭子が異母兄弟の存在を知ることはなかった。

 

 

 二月のある日、昼食の片づけを終えた後で、咲は遅い休憩を取っていた。

 大抵三時過ぎに片づけが終わり、また五時頃から夕食の準備が始まる。

 その間の二時間ばかりが料理人にとって一息つける時間だった。蘭子の舌は肥えており、食事は手の込んだ洋食を要求されるものの、客人は極めて少ないので忙殺されることはない。給金も悪くなく、料理人や給仕にとっては働きやすい職場だった。

 咲は簡単なまかないを食べたあと、いつものように厨房で料理人たちと世間話に興じていた。清楚で美しいが、気取ったところのない咲は男たちの間で人気があった。

 とはいっても、彼らが主人付きの女中にみだりに手を出すことはない。蘭子は潔癖な性分で、妻子持ちの中年男の浮気などは最も嫌う。色恋に惑って主人の逆鱗に触れれば、この不景気に職を失ってしまう。彼らには家庭持ちとしての分別があった。あったからこそ、これまで問題なく勤めてこられたのだが、下心がなくとも若い娘との会話は心うるおうものである。

 料理人の和田が、煙草を吸いながら咲に気安く話しかけた。

「そうだ、咲ちゃんは今度の懇親会は来るのかい。お嬢様がお出かけになる木曜を狙っているんだがね」

 咲は和田に屈託のない笑顔を向けた。

「勿論お邪魔するわ。私、いつも懇親会を楽しみにしているの。皆さん、郷土のお土産を持ち寄ってくれるし」

「それは良かった。男ばかりの飲み会じゃむさ苦しくて適わないからね」

 ぷうと煙を吐き出した和田に、咲はそこでさりげなく言った。

「ええ。今回は先輩のさくらさんもお誘いするわ。一番お世話になっているし。たまには羽目を外して楽しんでもらいたいの」

 だが、和田はさくらの名を聞いて困惑の表情を浮かべた。

「いや、さくらさんは……どうかな」

 そこに話を聞いていたのか、勝手口から些か乱暴な声がした。

「さくらは来ねえよ」

 断言したのは、勝手口で同じく煙草をふかしていた料理長の君塚だった。

 歳の頃は五十半ばで恰幅が良く、口もとに白髪の混じった髭を蓄えている。

 彼が綾小路家の一番の古株だった。乱暴な言葉遣いをキクからたびたび注意されているが、本人はどこ吹く風である。

 蘭子は幼少時から君塚のつくる洋食で育ち、伯爵夫人となってからも高い給金を払って重用していた。有名ホテルからの引き抜きもあったが、君塚は断って綾小路家に残り、定年まで勤めると豪語している。

「何故です」

 咲が無邪気に問うと、君塚は煙草の火を灰皿で揉み消した。

「……さくらはな、俺たちと同じ平民じゃねぇ。あいつは士族だ。元々は武家の姫さんさ。だからキクのババアも、さくらだけはおいそれとしごけねぇ。さくらも表面上はババアの言うことを聞くが、納得できない命令には絶対に従わねぇ」

「え、士族? さくらさんが?」

 咲は意外そうに目をパチパチと瞬かせた。これは驚きだった。

 士族は平民と華族の間に位置する中産階級の身分で、華族ほどではないがそれなりに特権を持っている。一番わかりやすいのが「帯刀権たいとうけん」で、刀剣を始めとした自身の武器を登録申請すれば常に携帯することができる。正当な理由があれば、街中で振るっても咎められない。幕末まで武士だった彼らは、明治維新後「士族」と定められ、国防および国内の治安維持に従事することを命じられた。警察や軍の幹部は、殆どが士族出身者で占められている。一般的に平民より社会的地位が高く、職業も優遇される。

 咲はきょとんとして首を傾げた。士族であるさくらが、どうして女中なぞをしているのか不可解なようだった。

「あいつは浅草で武芸を教える多喜見道場の娘でな。本人も薙刀なぎなた術に秀でていて、ここに来る前は師範を務めてたって話だ。当然、自分の刀も持っている。じいさんは軍人で、先の戦争で死んで二階級特進の少将、親父は警察署長も勤めた名門さ」

「ではどうして女中などに。もしや、行儀見習いにいらしたとか」

「いや、体のいい身売りさ」

 君塚は同情を禁じ得ないように、首を振った。

「身売り……」

「華族のお屋敷勤めと言っても、実質は女郎と同じだ。さくらの親父が病気で倒れてな、しかも悪い高利貸しに騙されて、多額の借金を背負っちまった。土地や道場も奪われそうになったんだが、そこでどこから聞きつけたのか前の旦那様が借金を肩代わりしてやったんだ。条件はさくらを五年間屋敷に奉公させること。さくらは家と家族のためにそれを呑んだ。一年半くらい前だったかな、旦那様付きの女中になったんだ」

「……」

 そこで咲は何かを察したのか、軽く目を伏せた。

「可哀想になぁ。さくらは何も言わないが、随分と夜の御用で旦那様にしいたげられてたようだ。まぁ、孕まなかったのが不幸中の幸いだな。旦那様が生きてりゃ、咲、お前も同じ目に遭ってたかもしれんぞ。若い女中ってのは結局そういう役回りだ。華族の男どもに散々使い回されて、最後はゴミみたいに捨てられる」

「……先代の旦那様の噂は私も聞きました。外にお妾がいたとか」

「つっても、別に好色ってほどでもなかったぜ。嫁さんは離縁した日奈子様だけだしな。旦那様が用があったのは、たぶんさくらの産む子供だけだ。要するに後継ぎ候補だな。蘭子様に家督を継がせる気はなく、妾の子はどうなのか知らんが……予備で作っておこうと思ったんだろ。士族出身で武芸に秀でた娘なら、丈夫な子が産まれそうだしな」

「酷いな。それじゃただの『仮腹女かりばらめ』だ。自分の娘が同じ目に遭ったらと思うとやりきれん……」

 ぼそりと呟いた和田に、君塚も大きく頷いた。仮腹女とは子供を産ませるためだけに雇われる女性のことで、どの階級においても白眼視される。子を産んでも親権は主張できず、金銭と引き換えに子供を手放さなくてはならない。仮腹女の扱いを受けること自体、大変な恥辱だった。

「だからな、さくらはこの屋敷じゃ微妙な立場だ。蘭子様は家を継いだ後、さくらの契約を反故ほごにしようとした。だが、あいつは義理堅くこの家に残った。おそらくは年季が明けるまで勤めるつもりなんだろう」

「そうだったんですね……。知りませんでした」

「だからお前もあいつのことは放っておいてやれ。平民の俺たちには必要以上に関わりたくねえんだよ」

「……わかりました」

 咲はどこか遠い目をして、寂しそうに呟いた。

 君塚は当初、咲はさくらと懇意こんいにしたがっており、それができないと知って嘆いているのだと思った。しかし、次に咲が発した言葉は意外なものだった。

「さくらさんの産んだ子が後継ぎ……ということは、旦那様は既に『妾の子』とやらを見限られていたのですね。そう、それは面白いわ。このお屋敷もお庭も、本来ならば全てその子のものだったのに」

「はあ……?」

 咲のまるで生前の章浩を知っているかのような口ぶりに、男たちはポカンと口を開ける。主人の悪口は使用人の恰好の憂さ晴しであるが、咲の声には言い知れぬ暗い熱がもっていた。さくらの悲しい過去にではなく、別の事に対して何かいきどおっている様子だった。彼女が負の感情を見せるのは初めてのことで、男たちは戸惑った。

「おい、咲。お前……何を」

 和田は咲の肩に手を置こうとした。が、咲はひらりと身をかわし、逃げるように厨房から出て行った。彼女の右手は、くらい興奮から微細に震えていた。

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