半身刀「殿春」



 凍てつくような寒風が、肌をじわじわと刺す夜のことだった。

 その日も通いの料理人たちは、厨房で後片づけをした後、自宅へ帰っていった。

 咲は厨房にて細々こまごまとした用をこなしていた。やっと仕事を終えた頃には、壁の時計は二十三時を回っていた。

「……」

 咲は何を思ったのか、そのまま二階の自室へは戻らなかった。

 ランプと厨房の余り物でこしらえた食べ物を手にして、渡り廊下を通り、新館へ入っていった。新館の電気は消えており、真っ暗な廊下を音を立てないようにして歩く。

 咲は壁に手を当てながら玄関へ向かい、吹き抜けのロビーに出た。上階へ続くロビーの螺旋らせん階段の前まで来るとうっそりと二階を見上げる。

 これより上は、主人である蘭子の生活空間だ。蘭子が呼び出さない限り、また緊急事態でもない限りは、夜間の使用人の立ち入りは禁じられている。

 咲は静寂の中、緊張の面持ちで少しずつ息を吐いた。数分の間迷った後、螺旋階段の一段目に足をかけた。

 その時だった。

 何かが、とことこと咲の足下に駆け寄ってきて、彼女のスカートに勢いよくぶつかってきた。

 柔らかな感触に咲が振り返ると、真っ黒な毛の塊が足に纏わりついている。ランプを近づけてみると毛玉はハアハアと息を洩らすルイだった。

 主人の蘭子に、犬部屋だけでなく屋敷内を自由に動くことを許されたルイは、昼の間は新館の一階を我が物顔で闊歩している。しかし、自分の小屋がどこなのかは理解していて、夜になれば犬部屋に戻って寝る。今日もそのはずだったが、どうやら人の気配を察知し飛び出してきたようだ。

 ルイは咲の足に身体をぶつけながら、ウーウーと威嚇するように唸り声を上げた。

 じゃれつき、遊んで欲しいわけでないことは明白だった。元より、この犬は咲には全く懐かなった。どうしてか、彼女が餌やりや風呂などを世話しようとすると、いつも反抗して暴れ、時には噛みつこうとすらする。

 今宵もルイは、咲の二階への侵入を咎めるように口から小さな牙を剥き出していた。

 咲はルイを見て、薄らと微笑んだ。犬が来るであろうことは、始めから予期していた。

 その場にしゃがみこむと、手に持っていた油紙の包みを開く。

 中には肉の切れ端と、さつまいもを茹でたものが入っていた。余った食材だがルイの好物だ。咲はそれをルイの前に置いた。

「お食べ」

 命令するように言うと、ルイは唸るのを止めて目の前の肉に鼻を近づけた。

 クンクンと肉の匂いを嗅ぎ、すぐに頭を上げた。腹が空いてないのか、肉に口をつけなかった。

 あやすように咲が手を伸ばして頭を撫でようとすると、ひらりと身を躱して避ける。

 これには咲も苦笑するしかない。触れさせもしないとは、随分と嫌われたものである。

「……ああ、お前は本当に賢いね。もの言えぬ犬で良かったこと」

 咲は小さく呟き、この小さな忠犬の懐柔を諦めた。

 食べ物を元通りに包むとすくっと立ち上がる。ルイは、尚も咲の動きを警戒しているのかその場を動かない。もし咲が再び階段を登りはじめたら、今度はキャンキャンと吠え出すかもしれない。そうなっては、いらぬ騒動を起こす。

 立派に番犬気取りのルイがいる限り、建物内で密かに動き回ることは難しい。

 咲は新館から出ることを決め、玄関に向かってゆっくり歩き出した。ルイは後をついてきた。咲は気にせず、表玄関の重い扉を開けると素早く外へ滑り出た。扉を閉めてしまえば、もうルイは追ってこられない。

 制服にショールを羽織っただけでは寒いが、旧館へは外から回って戻ることにした。

 

 

 緩やかに吐き出す息が白い。眠気も吹き飛ぶ冷気が、肺を満たしていく。

 咲はランプと包みを抱えたまま、旧館への道をせかせかと足早に歩いた。

 旧館の、使用人用の出入り口の前へ来た時だった。

 かすかだが、建物の向こうからヒュンヒュンと空気を切るような音が聞こえてきた。

 咲はびくりと肩を震わせた。

 旧館の裏手は、鬱蒼うっそうとした林になっている。

 周囲は電灯が点っているが、林に入ってしまえば真っ暗で何も見えない。

 今時分に一体、誰が外にいるのだろう。咲は気になって、裏手に回りこんでみた。

 そして、彼女は見た。

 林から少し入ったところで、規則正しい動きを繰り返すしなやかな影を。

 それは、自分と同じ制服を着ていた。若く瑞々みずみずしい影は、木々の隙間を縫うようにして、一心に棒状のものを振り下ろし、或いは振り回している。

 咲は、ランプを掲げて目を凝らし、二、三歩前に進み出た。

 まぎれもなく、さくらだった。彼女はその手に鋭い得物えものを持っていた。

 先端の浅く反り返ったやいばが、幹と幹の間でぎらりと光る。

 最初は槍と思ったが、違った。

 刀身が大きく、柄も長く、さくらの身長を越えて六尺ほどもある薙刀だった。

 咲は、先日の話を思い出した。

 確か君塚は、「さくらは士族である」と言った。「自分の刀を持っている」とも。

 ならばこの薙刀が、さくらが帯刀する武器なのかもしれないと思った。

 さくらは薙刀を両手でしっかと握り、中段の構えをして、円を描くように上下左右に振り回している。地を蹴って前に飛び、音もなく退いて、ぴたりと制止する。

 また大きく振りかぶる。ヒュンと爽快に風を切って、ざんと振り下ろす。

 その動きは一切の無駄がなく洗練されており、熟練の気配を漂わせていた。

 身体には、自由自在に刀を振り回すための筋肉が張りつき、若い躍動が衣服を通しても感じられた。

 林の入口といえども、木々の間は一メートルと離れていない。

 夜目がくのか、刀と木の間合いを熟知しているのか、薙刀の鋭い刃は木の皮や葉をかすりもしない。さくらの俊敏な動きは、本来そこに在る自然を一葉いちようとして乱さない。

「はっ、やっ、とうっ」

 さくらは素振りするたび、小さくも豪気ごうきあふれる声を発していた。

 その目は爛々と輝き、武道に専念できる深い喜びに満ちていた。普段のおとなしくかしこまった女中姿からは考えられないほど生き生きとし、武勇を尊ぶ士族の誇りに満ちていた。まるで別人のようだった。

 ……いや、違うと咲は心中でかぶりを振った。これが、多喜見さくらの本来の姿に違いなかった。

 電灯の白い光にぼうっと浮かび上がった横顔は清廉に澄んで、咲は思わず見惚みとれてしまった。

 やがて、頃合いを見てさくらは素振りをやめた。

 薙刀を右手で持つと、咲の方へ振り返った。どうやら自分を見つめる存在に気づいていたようだ。

 さくらは額にたまの汗を浮かべたまま小さく、しかし爽やかに言い放った。

「ごめんなさい。起こしてしまったかしら」

「いいえ」

 咲はハッとして、両手に抱えた包みをぎゅっと抱きしめた。

「違うんです。さっきまで新館で後片づけをしていて、その帰りです。すごいですね、薙刀を扱えるなんて。やはり……士族というのは本当だったんですね」

「ああ、咲も知ってしまったのね……」

 さくらは困ったように首を傾げて笑った。覚悟はしていても、氏素性うじすじょうが知れるのは面倒と言いたげな表情だった。

「ええ、これが私の半身刀はんしんとうの『殿春でんしゅん』よ。咲に見せるのは初めてね」

 さくらは、傍らの薙刀を愛しげに見つめた。

「半身刀……ですか」

「そう。士族の子弟は、生まれた時に半身となるべき武器を与えられるの。その武器を常に帯刀し、昼夜鍛錬たんれんに励むのが武家の務め。死んだら半身刀も折られて、一緒に墓に埋められるわ。私の場合は薙刀だった。殿春は私の成長と共に刃を研ぎ、柄を取換えてきた。いわば人生の相棒よ」

「相棒……。刀が相棒なんですね」

「別に刀に限定されているわけじゃないの。飛び道具の場合もあるし、そこは家によって大分違うわ。最近まで実家にいる時のみ振るっていたけど、世間は何かと物騒だし。夜にこっそり修練していたの。怖がらせてしまったかしら」

「いいえ、そんなことないです。これからも鍛錬してください」

「ありがとう……」

 そこで、さくらは安堵したのか口元に笑みを浮かべた。

「でも……少し勿体ないようにも思います。士族である先輩が、女中に甘んじるなんて」

「……咲」

 咲は少しおどおどしながらも、どこか含みを持たせて言った。

「私、聞いてしまいました。先輩のおうちのことを。道場の師範だったのに、わけあって女中になられたと。……それから旦那様が亡くなって、お嬢様は契約を反故にされたと。でしたら、無理してここで働く必要はないのでは」

 さくらは観念したように目を閉じ、深々と息をついた。

「そこまで知っているのね。厨房の人たちのお喋りにも困ったものね」

「すみません……」

「いいの。本当のことだし。……でもあなたは違うのね。これまでの同僚は、契約のことを知ると、私を露骨に避けたりさげすんだりしたわ。まぁ、当然よね。使用人でありながら、旦那様の愛人だったのだもの」

 さくらの声は、辛い過去を思い出したのかどこか苦しそうだった。

 いや、かつて彼女の置かれた立場は、愛人などという生易しいものではなかった。彼女は妾でも愛人でもない、ただの慰みものに過ぎなかった。士族に生まれ、武道に励み、清廉潔白に生きてきたのに、金と引き換えにその美しい身体を蹂躙された。そこにさくらの意思は、微塵もなかったはずだ。

「私はここを辞めるつもりはないの。実家を継ぐ気もない。そうね、年季が明けたら、今度はお嬢様の護衛にでも雇ってもらおうかしら」

「それは……どうしてですか」

 さくらのどこか茶化したような返事に、咲は尚も尋ねた。目の前の「多喜見さくら」という悲劇に、一見同情しているようで、実は冷静にうかがい見ている。

 さくらは、咲の目を真っ直ぐ見て静かに言った。

「お嬢様に仕えることで、忠義忠節を尽くしたいから。それが、私たち士族の生きる道。お上は現人神、華族は皇室の藩屏、そして私たち士族は貴人の盾でありほこだから」

「盾であり、矛……。つまり、有事の際は戦うと?」

「元より命など惜しくはないわ。……前に弟がいると言ったでしょう。弟も既にお上に差し上げた。私に何かあっても、弟が多喜見家の忠道ちゅうどう完遂かんすいしてくれる。それでいいの」

「先輩、やめてください。そんな、まるで死に場所を探しているような……」

「死に場所……。そうかもしれない。でも自棄やけになったわけではなく、本当にそう思っているの。どういう経緯にせよ、私の家は綾小路家に救われた。ならばそのご恩はきちんと返さないとね。だから、私は女中であっても武人として、いつでも戦えるようにしておく。お嬢様に危害を加えようとする者は、この殿春のさびにする」

 さくらの言葉の一つ一つに、忠義の意思がこもっていた。それは悲愴であるものの、凛然とした強固な決意だった。

 咲はさくらの気高さ、誇り高さに気圧けおされた。

 理解しがたいという風にしばらく沈黙し、最後の質問を投げた。

「……先輩は、前の旦那様のことを恨んでいないのですか」

 それに対し、さくらはきっぱりと頷いた。

 女として身体を汚された悲しみはあっても、迷いは一切なかった。

 いや、さくらは何一つとして汚れてはいなかった。

 いかに権力を持つ華族の、人を人とも思わぬ横暴も、さくらの生まれもっての清冽な魂を汚すことはできなかった。

 半身であり、守り刀でもある「殿春」は高潔な主人の横で、にぶい光を放っていた。

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