姉と妹




  屋敷のあちこちから、何かを破壊するような大きな音が聞こえてくる。

 長椅子に横になった蘭子は、それらが気になって仕方がなかった。

 胸の痛み自体は数分で引いた。念のため暫くじっとしていたが、痛みがぶり返すことはなかった。全身から吹き出していた汗が止まり、熱も下がってきたようだ。

 恐る恐るドレスを開いて噛まれたところを見れば、出血は止まっており、少しぷっくりと腫れている。傷を見て大きく溜息をついた。

 鷹丸に言いたいことは山ほどある。怒りもある。残念ながら、声を張り上げる元気はない。彼は「外来種とその係累はみなごろし」と言った。自分はどうやらそれに当てはまっていたらしい。ならば、見逃してくれただけ、殺されなかっただけましと思うべきなのか。さらに自分の依頼を投げ出さず、あくまで遂行しようとする姿勢には感心するべきなのか。軽薄で酔狂で残忍ながら、よくわからない男だ。

 そんなことを思いながら、蘭子は起き上がり、ふらつく足で廊下に出た。そして廊下の窓から、この時間にしては妙に明るい外を見てしまった。

 

 

 旧館が、轟々と燃えていた。

 それは一つの大きな光源となって、夜の闇に赤々と照り輝いていた。

 既に館中に火が回り、炎に包まれている。屋根が、壁が、次々と溶け崩れて地上に落ちていく。敷地の外からか、わあわあと人々の悲鳴も聞こえた。おそらくは火事に気づいて集まってきた野次馬だろう。

「ああ……」

 蘭子は、燃え盛る紅蓮の炎を、呆けたように見つめた。

 どうしてこんなことになったのか。目の前が真っ暗になった。

 思わず蝶番ちょうつがいを外して窓を開ければ、肌を焦すような熱風が吹いてくる。煙を吸ってゴホゴホと咽せた。火の粉が舞っている。熱い。あまりにも熱い。間違いなく現実の火だった。

 この勢いでは、いずれは渡り廊下を伝って新館にも火がつく。

 その前に逃げなくてはと思うのだが、衝撃からか足が縺れて上手く歩けない。

 蘭子はゆっくりと壁を伝いながら、時間をかけて、なんとか吹き抜けのロビーの階段の前まで来た。

 手すりに寄りかかりながらも、階段を降りれば玄関まで少しだ。

 階段を一段降りたところで、階下に見知った男たちが出てきた。

 最初に鷹丸、続いて鵄丸だった。鵄丸はどこで捕まえたのか、その剛腕の中に、黒装束の少年を取り押さえている。既に金剛羽根を仕舞い、筋肉隆々とした元の腕に戻っていた。

 鷹丸は、階段上に蘭子がいることに気づいた。が、彼女の方は見なかった。

 ロビーの中央まで来ると、微かに気配を感じる上空に向かって呼びかけた。

「おい、花澄。いるんだろ。とっとと出て来い。てめえの弟がどうなっても知らねえぞ」

 まるでこちらが悪党のような台詞だが、反応はすぐにあった。

 ロビーの天井に吊るされた特大のシャンデリアが微かに揺れた。

 シャンデリアの上の平坦な皿の上に、狐の面を被った少女が潜んでいた。

 彼女は観念したのか、すっと階下に飛び降りた。

 鷹丸に呼びかけに呼応したからには、彼女が花澄に違いなかった。

 やはり生きていたのか、と思うと蘭子の胸は熱くなった。これは鷹丸に噛まれた傷のせいではなかった。

 狭霧は、ふと顔を蘭子の方に向けた。狭霧も、蘭子の存在に気づいていたようだ。

「花澄……!」

 蘭子は思わずその名を呼んだ。

 彼女を探して色々と大変な目に遭ったし、現在も旧館が燃えていて早く逃げなくてはならない。それでも彼女との邂逅が嬉しかった。

「ほらよ、異母妹いもうと君だ。約束通り連れて来たぜ」

 鷹丸のどこか得意気な声がする。

「花澄、花澄なのね」

 蘭子は、興奮から息せききって呼びかけた。

 花澄は、この人生において会えた初めての家族だった。

 それが時游民であろうと、鷹丸のいう闇族の真神者であろうと構わなかった。

 面の下がどんな顔であろうと、どれほど厳しい宿命を背負っていようと構わなかった。

「……お姉様」

 かつての名を呼ばれ、狭霧の声に微かに動揺が滲んだ。

 しかし、続く声は氷のように冷えた。天烏の男たちの雇い主が、他ならぬ蘭子であることを悟ったからである。

「そうですか……これは想定外でした。私を捕らえるために天烏をよこすとは、また贅沢な使い道をされたものです。お姉様に会うつもりは毛頭なかったのですが」

 狭霧の言葉遣いは丁寧ながらも、言葉の端々に断固たる拒絶が滲んでいた。

「花澄……」

「花澄は死にました。お姉様もご存知でしょう。綾小路花澄は、もうこの帝国のどこにも存在しません。私は狭霧。私の家族は夜霧だけです」

「……」

「さて、私たちをどうされるのですか。私たちは、母を殺めた穂村キクをこの手で処断しました。キクもまたお姉様の血族です。復讐の復讐として、私と夜霧を殺しますか。そこの天烏に命じれば、造作もないことです」

 淡々と言ってのける狭霧に、蘭子はしばし言葉を失った。

 数秒の重い沈黙の後、蘭子はふるりと首を振った。事情はまだよくわからないが、おそらくキクは死んだ。花澄がキクを殺めた。だが、それを糾弾し、キクの仇討ちをして一体何になるのだろう。

 負の連鎖を続けるのは本意ではなかった。

「そんなことはしないわ。お前たちを殺しても何にもならないもの。妾はただ、本当にお前に会いたかったの。妹がいると。きょうだいがこの世にいることを知りたかったの」

「……愚かな。私はお姉様ほど愚かな人を知りません」

「ええ、愚かなの」

 蘭子は幾分悲しそうに、そして何がおかしいのかそこで唇に艶やかな笑みを乗せた。

 狭霧とは、絵本や童話にあるような姉妹抱き合っての感動の再会とはならなかった。ならなかったが、狭霧の気持ちは充分に伝わってきた。

「でも……変ね。花澄は死んだというけれど、家族ではないと言うけれど、お前は妾のことを『お姉様』と呼んでくれる。死者となっても、無意識であっても、妾を姉と思ってくれているのね」

「……」

「それにシャンデリアの上にいたのなら、廊下から歩いてくる妾が見えたはず。この赤毛だもの、見間違うはずはありません。妾を人質に取って、弟と交換して逃げようとは思わなかったの。鷹丸たちが来るまでに、充分可能だったはずなのに」

 蘭子の指摘に、狭霧は押し黙った。

「……結局、お前は妾を責めないのね。母や、爵位や財産を奪われても、それらに執着しないのね」

「こちらには自由がありますから。狭い顕世で、様々なしがらみに縛られて生きるよりも余程幸せです。私の目的は仇討ち。それを果たした以上、お姉様には干渉しません。だから、夜霧を返してください。私の大事な連れ合いなのです」

 狭霧は、そこだけは胸を張って言った。夜霧に対する確かな愛情を感じて、蘭子は素直にそれを羨ましく思った。

 狭霧は齢十六にして、既に愛を知っているのだ。

 未だ、自分が知らない「愛」を――。

「鷹丸、鵄丸。夜霧を離してあげなさい」

 蘭子の言葉を待っていたように、鵄丸はポイと夜霧を放り出した。

 少年はやれやれとばかりに安堵の息をつき、狭霧の元へ駆け寄った。

 本当に短い姉妹の逢瀬だった。別れの時が迫っていた。

 蘭子は意を決し、首にかけていた野茨のロケットペンダントを狭霧に向かって投げた。狭霧はそれを片手ではしっと受け止めた。

「花澄、これを持っていきなさい。この当主の証はお前のものです。お前こそが綾小路の正統な後継者。真実、祝福されるべき姫なのです。妾はただの簒奪者に過ぎません」

「……」

「でも、お願い。妾のことを忘れないで。忘れられないうちは、妾はお前の姉でいられるのだから」

「わかりました。お姉様がこの帝国を渡っていくというならば、真神者の加護と助力なくしては到底不可能です。命が幾つあっても足りないやも。私は深い霧の中から、お姉様の奮闘を見ております」

「……お前は助けてはくれないのね」

「その必要はないでしょう。あなた様は既に天烏に呪われた身のようですし。それが吉と出るか、凶と出るかはわかりませんが……」

 蘭子の身体に何を感じたのか、狭霧はふふふと忍び笑いを洩らし、意味ありげに鷹丸を振り返った。鷹丸はうるさそうに狭霧をめつけたが、何も言わなかった。

「もう会うことはないでしょうが。……それでは、ごきげんよう」

 そこだけ華族めいた上品な挨拶を残し、狭霧と夜霧は黒い影となって屋敷を飛び出していった。

 

 

「お嬢様! ご無事でしたか」

 狭霧たちと入れ替わりで、玄関から飛び込んできたのはさくらだった。

 彼女の後ろには、君塚や西田の姿も見える。

 彼らは恐る恐るロビーを覗き込み、鷹丸と鵄丸の姿を見てヒイッと悲鳴を上げた。

 しかし、女主人の落ち着いた姿を見れば、彼らに害意はないものと理解したのか、逃げはしなかった。

「さくら、旧館が燃えているのはどうして? 一体、何があったの」

「それが……私どもは穂村キクに襲われて、咲と渡利さんが……。ああもう、それどころじゃないわ! お嬢様……ここにももうすぐ火が回ります。早く避難を!」

 慌てるさくらに、そこに鷹丸が口を挟んできた。

「いや、火が収まるまでここにいた方がいい。伯爵夫人も、ちょっとした怪我を負ってるしなぁ……。安心しろ。ここに来る途中、俺が渡り廊下をぶっ壊してきた。延焼することはない」

 悪びれず、いけしゃあしゃあと言ってのける鷹丸に一同は呆れ果てた。蘭子は改めて羞恥と怒りに顔が火照るのを感じた。その、ちょっとした怪我とやらを負わせたのはどこの誰なのか。

 しかし、胸を噛まれたことを公にするわけにはいかない。言えば使用人たちは、蘭子がそれ以上の辱しめを受けたものと誤解するだろう。その騒動を思えば、黙っていた方がいい。

「すまん」

 と鵄丸が相棒の分も頭を垂れ、潔く謝った。

「……にしても疲れたな。真神者の生け捕りなんざ、もう金輪際勘弁して欲しいぜ。正直、後金で百五十円貰わねえとやってらんねえ」

 旧館を燃やし、家具備品をも散々破壊しておきながら、鷹丸は尚もずうずうしくぼやいた。

 が、内心ではこの結果にいたく満足していた。

 何せ、蘭子を密かに守護してきたと思われる外来種の穂村キクは駆逐され、異母妹である儡霧の女も退けた。見初めた女には、どさくさまぎれに天烏の刻印を刻むことができた。

 刻印は即ち呪いである。蘭子が主人である以上、この綾小路邸は天烏の領域テリトリーとなる。それはなんと痛快なことだろうか。鷹丸はその人外の美貌の下で、まさに悪魔の如くほくそ笑んだのだった。

 

 

 綾小路蘭子は、依然孤独の最中さなかにある。

 土地、屋敷、金銀財宝、使用人、高貴な身分、全てを持っているように見える彼女が唯一その手に持たないもの、それは「家族」だった。

 蘭子は母が、父が、きょうだいが欲しかった。

 自らが結婚して、家族を作ろうとさえした。

 その願いは、咲の仇討ちによって阻まれてしまった。

 しかし、この高貴な女伯爵は悲しみのうちにあっても、決して表に出さず、毅然と胸を張って前を向くだろう。

 母を失って、父を失って、婚約者を失って、異母妹を失って、育ての親と言うべき使用人を失っても、誇り高く前だけを――。

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