不可思議、去る者と逝く者

エピローグ




 ――最後の夜も、底のない闇は、ぽっかりと大きな口を開けていた。

 影絵劇団「きりのまち」主宰の幻想影絵芝居「新・青ひげ」最終公演日。

 H公園の広場には、簡素な舞台が組立られ、張られたスクリーンに馬や騎兵やドレスの女の影絵が踊っている。千秋楽だというのに客の姿は少なく、スクリーンの最前列には子供が五、六人ばかり座っているのみだった。

 しかし、客が少ないからといって芝居に手抜きはない。

 高らかにラッパが鳴り響き、舞台はいよいよクライマックスを迎えようとしていた。

 青ひげの七人目の妻は、六人の前妻たちの首なし死体を隠した小部屋に入ってしまい、そのことを青ひげに知られてしまう。

 青ひげの声は相変わらず夜霧が演じていたが、公演を繰り返して慣れたのか、以前よりも大分上手くなっていた。

「お前は死ななければならない。今すぐに」

 妻は、青ひげの前によよと泣き崩れた。

「私、どうしても死ななければならないのでしたら、せめて暫くお祈りをする間だけ待ってくださいまし」

「仕方ない、七分半だけ待ってやる。だがそれから、一秒も遅れることはならないぞ」

 と言って、青ひげは一旦部屋を出て行った。

 妻は一人になると部屋の窓に駆け寄り、塔の下にいる女を呼んだ。

「アンヌ姉様、アンヌ姉様、後生です。塔の頂辺まで上がって、兄様たちがまだおいでにならないか見てください。兄様たちが今日訪ねてくださる約束になっているのです。見えたら大急ぎで来るように合図をしてください」

 アンヌはすぐに、塔の頂辺まで登っていった。その間も妻は泣き叫び続ける。

「嫌、嫌。死にたくない。死にたくないわ。どうして私が殺されなくてはならないの。私が何をしたというの。何もしていないわ。ただお嫁に来て、毎日面白おかしく遊んで暮らしていただけ。私、まだ生きたいわ。まだ会いたい人がいるわ。まだやりたいことがあるわ。アンヌ姉様、アンヌ姉様、まだ何も来ないの」

 妹の悲痛な叫びに、アンヌは答えた。

「日が照って埃が立っているだけですよ。草が青く光っているだけですよ」

 部屋の下に、大きな剣を持った青ひげが現れて怒鳴った。

「お前、すぐ降りて来い。降りてこないと俺の方から上がっていくぞ」

「もうちょっと待ってください、後生ですから。アンヌ姉様、アンヌ姉様、まだ何も見えないの」

 しかし、アンヌの答えは同じだった。

「日が照って、埃が立っているだけですよ。草が青く光っているだけですよ」

「早く降りて来い」

 と、青ひげは再び叫んだ。

「降りてこないと、上がって行くぞ」

「今参ります。アンヌ姉様、まだ何も見えないの」

「ああ。でも、大きな砂煙がこちらのほうに向かって立っていますよ」

 と、アンヌは答える。それに妻は飛び上がった。

「それはきっと兄様たちでしょう」

「おやおや、そうではない。羊の群ですよ」

「こら、降りてこないか、貴様」

 と、尚も青ひげは叫んだ。

「今すぐに。アンヌ姉様、アンヌ姉様、まだ、誰もこなくって」

「ああ、二人馬に乗った人がやってくるわ。けれどまだ随分遠いのよ」

「嬉しい。それこそ兄様たちですよ。急いで来るように合図しましょう」

 そのとき、青ひげが部屋に乗り込んできた。妻は観念して、夫の足下にひれ伏した。

「今さらどうなるものか。さあ、死ね」

 剣を振り上げた青ひげに、妻は尚も諦めずに懇願する。

「待って、お待ちになって。どうせ死ぬのなら、綺麗なままで死にたいのです。ほんの少し、身繕いする間待ってください」

「ならん、ならん。神さまに任せてしまえ」

 その時、舞台袖からドーンと音がした。馬に乗った騎兵が城に飛び込んできた。

「青ひげめ、妹に何をする」

「なんだ、貴様らはなんだ。うわあああ」

 青ひげは慌てて逃げようとするが、妻の兄たちに追いつかれる。

 青ひげは「助けてくれ、助けてくれ」と命乞いするが、兄たちは後ろから青ひげを突き刺して殺してしまった。

「ああ、兄様。兄様。助かりました。あと少しで青ひげに殺されるところでした」

 妻は兄たちに駆け寄り、塔から降りてきたアンヌもその輪に加わる。

「良かった良かった。青ひげは成敗したぞ。もう安心だ」

「はい、ありがとうございます。ありがとうございます」

「青ひげに後継ぎはいない。財産は全てお前のものだ」

「はい、嬉しゅうございます。とても嬉しゅうございます。金の机も銀の器も四頭立ての馬車も、全て私たちのものです」

「そうだそうだ。私たちのものだ」

「ここで皆で暮らしましょう。家族で仲よく暮らしましょう。青ひげのお金で、毎日楽しく暮らしましょう」

 兄弟四人はひしと抱き合い手を繋いだ。

 子供たちの間から、パラパラとまばらな拍手が起こった。

 「新・青ひげ」はこれで終わりだった。

 

 

 一つの細長い影が、「新・青ひげ」を最後まで見届けた。

 広場の入口に、渡利がぽつねんと立っていた。両腕はだらんと下がり、魂が抜けたようなほうけた顔をしていた。

 彼は吸い寄せられるように、広場へと足を踏み入れた。

 入口から舞台までの道の両脇には、走馬灯が並べられており、紙に描かれた馬や人がくるくると飽きることなくまわっていた。

 それは誰かが蝋燭の炎を消さない限りは、永遠に廻り続けるのだった。

 ゆらゆらと、くるくると――揺ら揺らと、狂クルと。

 渡利は、一歩一歩踏みしめるように歩いた。

 酒を飲んだわけでもないのに、頭がくらくらした。

 地面は綿のようにふわふわし、自分も気体にでもなったかのような気分だった。

 渡利は、ふと足下を見た。そこには一風変わった走馬灯があった。

 それは蝋燭を入れられてもなければ、くるくると廻ってもいなかった。

 走馬灯に見えたのは、おうとつのないのっぺらな首だった。

 眼らしき二つの小さな穴は無惨に潰され、元から塞がった鼻はつるりとまっ平らで、赤い糸で縫いつけられた口の辺りは皮膚が伸びきって、死ぬ直前の断末魔を体現するが如く大きく開いていた。

 並べられた奇妙な走馬灯は、仁蔵、以蔵の首だった。

 拷問の果てに斬られたらしき首が視界に入っても、渡利は驚かなかった。

 彼らもまた時游民のはぐれ者として、儡霧の族に懲罰の限りを尽くされて死んだに違いなかった。しかし渡利にとって、もはやどうでもいいことだった。

 狭霧が語って聞かせたもう一つの異世界、すなわち常世、それ以外のことに彼は興味がなかった。

 とうとう舞台の前まで来た。

 筵に座った子供たちは、アンコールか舞台挨拶を期待してか、静かに前を向いたままだ。

 演者が渡利の存在に気づいたのか、打ち鳴らしていた鐘の音がぴたりと止んだ。

 舞台裏から二つの影が出てきた。

 狐の面を被った狭霧と、天狗の面を被った夜霧だった。

「……渡利さん、来ては行けないと言ったのに」

 狭霧の声は冷淡ながらも、どこか憐れむような響きがあった。

「あーあ。来ちゃった……。二度も助けてあげたのに」

 頭の後ろで腕を組んだ夜霧の声は、軽妙で明るかった。彼は渡利の出現を予期していたようだ。

 渡利は二人を前にして、おずおずと口を開いた。

「なあ……狭霧さん。あんた前に言ったよな。時游民は世界群を渡るって。顕世と常世を行き来するって。二つの世界は歴史や事象がずれていて、こちらとの同一人物が存在するって……。だったら、常世にも俺に該当する『渡利公博』がいるんだよな。山田も大木戸さんもいるんだよなあ。でもって、あちらの芥川龍之介はもう死んでるんだよな?」

「……」

 狭霧も夜霧も渡利の問いに完全な沈黙で返した。今更何を言っても遅かった。

 青年は間違いなく真人であり、その資格もないのに、自ら世界群の境界に足を踏み入れようとしている。

 それは、真神者のことわりでは断罪されるべき悪行だった。

 渡利はいっそ泣きそうな顔をしながら、さらに一歩踏み出した。

 歩みをとがめるように、渡利に背中を向けていた子供たちが一斉に振り向いた。

 子供たちは狭霧と同じ黒装束を纏っており、赤や青や黄色の鬼の面をつけていた。鬼の面は全て怒りの形相で、近づいてくる青年に鋭い牙を剥いた。

「会いたいんだ……会わせてくれ。山田に……」

 山田、山田と、渡利は囈言のように時游民を追い求めて死んだ男の名を繰り返した。

 しかし、それは自分の本心ではないと気づき慌てて首を振る。

 渡利は今こそはっきりと理解した。

 自分が本当は、何を追い求めていたかを。

 誰に会いたいのかを。

「いや、違う。あいつに、千尋に会わせてくれ……。お願いだ。お願いだよ。千尋に……会わせてくれ」

 感極まった渡利の目から、滔々と涙が溢れ出した。

 彼は泣きながらも、許しを乞うように両手を前に差出し、再び舞台へと足を進めた。

 その先に、まだ見ぬ「不可思議な世界」があることを信じて、ひたすらに……。

 その世界には、植松千尋が生きていることを信じて、ひたすらに……。

 阻むように子供たちが立ち上がり、渡利にわらわらと駆け寄っていく。

 淡い光を巻き散らしながら、くるくると廻り続ける走馬灯。

 青年に群がる幾つもの黒い影。

 一歩進むごとに、渡利の身体は少しずつ欠けていった。

 突き出した二本の腕は呆気なくへし折られ、紙のように千切り取られた。

 腕だけでは飽き足らず、さらに獲物を貪らんとする無数の手が渡利の肉をむしり取った。

 彼を奪い合って食い散らし、バリバリと音をたてて咀嚼し、呑み込んでいった。

 最後に、渡利は微かな希望に縋って絶叫した。

「ああ、頼む。連れていってくれ。俺を連れていってくれ……!」

 その瞬間、青年の瞳には、非業の死を迎えた幼馴染のあどけない笑顔が写った。

 やがて、尾を引くような哀願の声は消えた。

 その役目を終え、闇のカーテンがするすると舞台を閉じていく。

 かくして、愉しい愉しい観劇の時間は終わったのだ。

 

 

 カフェー「しらゆり」は、灯りも消えて、時が止まったかのように静まり返っていた。

 カウンターの上には、置き土産のように、ドレスを着た女の紙人形が七体並べられている。六体は首を切られているが、七体目だけは繋がっている。

 そして、この夜を境に忽然と姿を消した青年、渡利公博の行方は、百回朝が来ても夜の帳が降りてもようとして知れなかった。

                                                                        【了】



 

 ※参考文献

 【引用・脚色】

 ペロー作 楠山正雄 訳「青ひげ」

 「世界おとぎ文庫(イギリス・フランス童話篇)妖女のおくりもの」

  小峰書店 一九五〇

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昭和異聞譚 仇花いばら姫 八島清聡 @y_kiyoaki

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