決戦




 ――話は三時間ほど前にさかのぼる。

 新館三階の、通常は閉めきられている章浩の書斎に、蘭子と咲、さくらの姿があった。

 彼女らは部屋の内側から鍵をかけ、キクを問い詰めるための最終打ち合わせをしていた。

 渡利には既に連絡がいっており、空き地で落ちあう手筈になっている。

 味方は一人でも多い方がいいと考え、蘭子は信頼がおけるさくらにも、キクへの疑いを打ち明けた。

 さくらは驚いたが、暫く考え込んだ後で意外なことを言いだした。

「お嬢様。キクさん……いえ、容疑者の穂村キクですが、罪を認め、おとなしく捕縛されるなら良いのです。しかし、もし抵抗した場合は危険かと。おそらくですが、彼女は短刀、もしくはナイフの使い手のような気がしてなりません」

「短刀……それは何故?」

 蘭子が問うと、さくらはすっと後退し、机の上に置いてある南部鉄器の重たい棒文鎮を手に取った。棒文鎮は章浩の遺品の一つだった。

「思い出しました。以前、キクが懲罰と称して深夜に咲を鞭打った時のことです。部屋に飛び込んだ私を見て、彼女は咄嗟に鞭を逆手に持って振り上げました。こういう風に」

 さくらは、右手に持った棒文鎮の先端を親指で、柄に見立てた部分を残りの四本の指で握って、逆手に振り上げてみせた。

「これは『逆手持ち』といって、短刀格闘術の技法の一つです。通常の、いわゆる包丁を持つのと同じ握り方は、順手じゅんてといいます。順手の方が可動域が広く、振り回しやすいので刺突や斬撃に有利に思えます。しかし、実際は可動域の狭い逆手の方が力を籠めやすく、敵をより強く殺傷できるのです。殿春のような長い刀剣と違い、短刀は斬るのではなく突くものです。人を確実に殺すなら、短刀を隠したまま一気に間合いを詰め、一撃で急所を突くのが常套です」

「つまり、やたらめったらに刃物を振り回す輩は、素人かチンピラ風情ということですか。逆手持ちは、暗殺者の技であると」

 咲が指摘すると、さくらは深く頷いた。

「キクは私の闖入に驚き、うっかり使用する武器の癖が出てしまったものと思われます。何故なら、鞭を逆手に持っても全く意味がないからです。鞭は突くものではなく、打つものです」

「なるほど……。刃物の扱いはこなれているというわけね」

 呟いた蘭子の声は、どこか悲し気だった。

 キクは残虐な気質を持つものの、自分が産まれた時から傍らにおり、育ての親も同然だった。自分に対しては忠実そのものだった老僕が垣間見せた一面に、衝撃を隠せない様子だ。

「お嬢様、万が一のためにも私も行かせてください。もしキクが挑んできても、薙刀は間合いが広く、短刀に対して有利です。いざという時にお役に立てるでしょう」

 さくらの申し出に、蘭子はまだ幾分躊躇いを見せた。

 だが、やがて彼女も覚悟を決めたのか大きく頷いた。

「わかりました。ではお前も行きなさい」

「はい。お嬢様は安全なところに。キクを捕縛するまで、お部屋から動いてはいけません」

 そして、さくらは咲たちに先んじて雑木林に入り、これまで木陰に身を潜めていたのである。

 

 

「やあっ」

 飛び出したさくらは、気合い一声、勢いよくキクに打ちかかった。

 短刀は殿春を正面から受け止め、カキン、カキンと刃がぶつかり合った。

 キクはさくらの登場に一瞬怯んだものの、数歩飛び退り、短刀を握り直した。隙を与えず、さくらは斬りつける。

 間合いの長い長剣ゆえ、速さと重さに乗って正確に突き、薙ぎ払えばこの戦いはさくらの方が有利に思われた。

 が、それはあくまで人間同士の戦いにおいてのことである。

「甘いねえ!」

 キクは不気味な薄笑いを浮かべ、長い刃先を恐れず、真っ直ぐに突っ込んできた。

 刹那、殿春が凄烈に風を切った。キクの左腕を切り裂いたかのように見えた。ざんっと血風けっぷうが散る。

 腕を切られても、老女は顔色一つ変えなかった。

 裂傷などものともせず、さくらの間合いに入り、白い喉笛を狙う。

「うっ!」

 どんっと肉と肉がぶつかり合い、さくらの黒髪が数本宙に散った。

 寸前で避けたものの、キクの体当たりにさくらは跳ねとばされた。

 そのまま草叢くさむらを二、三転と転げたが、すぐに膝をついて立ち上がる。

 信じられなかった。およそ老女の動きではない。

 あまりにも早く、一撃一撃が重い。ぶつかった肩がじんじんと痛み、咥内に鉄錆びた熱が溢れた。どうやら口の中を切ったようだ。

 だが、さくらが体勢を整えるより早く、凶刃が繰り出される。

「馬鹿だねえ! 真人がどうにかできるとでも思ってんのかい」

 キクが嘲りと共に、鋭い刃を繰り出す。そこだけ重力の負荷がかかったような重い斬撃で、殿春を叩き割ろうとする。

 さくらは両手に力を籠め,、何度も弾き返した。

  が、刀身はどんどんと切りこみが深くなり、短刀に削られていく。

 著しい焦燥がさくらを襲った。このまま刀を折られてしまえば、万が一にも勝機はない。

「ぐっ」

 悲鳴とも鼓舞とも知れない苦渋の呻きが漏れた。押されに押されて後ずさる。

 なんとか足を踏ん張って、斬撃を堪える。視界の端に、咲と彼女が助け起こした渡利の姿が見えた。

「逃げて!」

 さくらは二人に向かって怒鳴った。

 丸腰の彼らに、キクの凶行が止められるはずはない。

 自分が時間を稼いでいる間に、少しでも遠いところに逃げて欲しかった。

 だが、咲も渡利も逃げなかった。

 渡利はもう逃げても仕方ないことを知っていた。

 時游民の力は、自分たち人間を遥かにしのぐ。キクは秘密を知ってしまった自分たちを、一人として生かすつもりはない。

 さくらがたおれれば、次は自分がやられるだけだ。逃げたところで助かりはしない。

 だったら、三対一でも、どんな手を使ってでも、キクをこの場で取り押さえなくてはならない。

 ぎゅっと握ったこぶしがぶるぶると震えた。いや、全身が震えていた。

 これは純然なる恐怖だ。人の形をした人外への恐怖に他ならない。

 でも……恐れたままで、虫けらのように殺されるわけにはいかない。

「馬鹿言うなよ。女一人戦わせておいて逃げられるかよ!」

 渡利は威勢よく叫ぶと、キクに向かって猛然と突進した。その背中に縋りつくと必死に羽交い絞めにする。

「先輩、今よ。斬って!」

 続いて、咲も飛び込んできた。

 キクの左足に縋り付き、全体重をかけて地面に縫い止めようとする。

 躊躇う余地はなかった。さくらはその機を逃さず、殿春を振り上げた。

「終わりです」

 掛け声と共に、ズシャアと肉の切れる嫌な音がした。殿春は確かにキクの胸に食い込んだ。

「小癪な!」

 鋭い刃を受け止めながらも、キクが吠えた。

 ぶんぶんと腕を振り回し、渡利の顔面に肘を食らわせる。

「うわあああああっ」

 渡利は衝撃に呆気なく吹き飛んだ。頭がぐわんぐわんと揺れる。目の前が真っ赤になる。

 吹き出す鼻血をどうすることもできないままなんとか顔を上げれば、きゃあと新たな悲鳴が聞こえた。足に縋り付いた咲が、キクに蹴り飛ばされたところだった。

 地面に倒れ込んだ咲は腹を蹴られたらしく、しきりに咽せこんだ。愛らしい唇からつつっと血が滴る。

「咲さん!」

「咲!」

 渡利とさくらの声が同時にこだまし、咲に気を取られたその時だった。

 キクはとどめとばかりに逆手で、短刀を振り上げた。

 垂直に振り下ろされた刃が、さくらの心臓目掛けて落ちる。

「ああっ……」

 もう避けきれない。懐に入られては殿春では防げない。

 さくらは目を見開いたまま、死を覚悟した。

 

 その時だった。ビュンと弓がしなるような音がした。

 鋭い一閃が、虚空を真っ直ぐ貫いた。

「うぐあ……うあああああああああああああああっ!」

 続いて不可解な悲鳴が辺りに響いた。

 飛びかかってきたキクの首に、深々と鉄の嚆矢こうしが刺さっていた。

 矢は首を貫通しており、先端のやじりがさくらの顔にも届きそうだった。

  自分たちが打ったものではない。

「ぎ……ぐ、あ……。だ、れ……が……?」

 キクも予想だにしない攻撃に、口から鮮血を吐き出した。

 しきりに喘ぎながら背後を振り返り、矢を射た者を確認しようとした。

「そおれ!」

 修羅場にはそぐわない、やけに明るい声がした。子供のような幼い声だった。

 ビュンと音がして、今度はキクの胸に鋭い長針が突き刺さった。三十センチほどあるその長針はどういう力なのか、同じく胸を貫通し、先端がさくらの面前に迫る。

「はっ」

 さくらは針を避け、慌てて後ろに飛びのいた。

「ほーら、もう一丁!」

 また子供のような声がした。今度は明らかに笑っている。

 再びどこからか長針が飛んできて、ぶすりとキクの右の踵を貫いた。

「お、のれ……え……」

 キクは胸を押さえ、目をぎょろつかせて、新たな敵を探ろうと前を向いた。

 ドス、ドス、ドス……。

 長い針が後方から次々と飛んできて、弄るようにキクの太ももを、腹を、肩を貫いた。キクは全身から針を生やしたまま、尚もよたよたと歩いた。

 無理に動くたびに、首に刺さった嚆矢に塗られた毒が全身に回っていった。

 とうとう、長針が目に刺さった。最初は右、次に左。

 焼けつくような鋭い痛みが脳天を駆け巡り、彼女はそこでようやく自分の敗北を悟った。反撃も、どんな足掻きも無駄だった。目を潰されて、何も見えなくなったのだから。

「ああ……」

 キクは天を仰ぎ、何度も大きく息を吐いた。

 突然現れた姿も見えぬ敵に敗れたというのに、その悲痛な声はどこか穏やかな響きを持っていた。誰にも、何にも束縛されない、絶対的な自由への憧憬が籠っていた。

 『穂村キク』、その名は偽名であった。

 『千代美』、その名はこの国に来てから与えられた和名であった。

 彼女の本当の名は、ブリギッド。基督キリストの聖人の名を与えられた西欧の異端討伐士。聖闘女ブリギッド。それが彼女の正体だった。

 キクの脳裏に、長い長い人生における色とりどりの記憶の断片が、早送りの活動写真のように流れていった。

 大英帝国ブリタニアの支配下にある貧しい祖国、愛蘭アイルランド

 長雨にけぶる都伯林ダブリンのさびれた街角。

 異端討伐士の勅命を受けた和地関バチカンの大聖堂。遠い昔、誇らしく見上げた空はどこまでも青かった。

 大海原に繰り出し、異教徒を殺戮して巡った血みどろの日々……。

 異なる大陸、未知の島々に暮らす異教徒たちには、彼らを守護する異教の神々がついていた。

 異教の神、すなわち悪魔との終わりなき死闘の果てに、仲間たちは皆斃れ、殉死していった。

 とうとう最後の一人となり、絶望したブリギッドが流れ着いた場所……それが日本だった。その極東の島国に潜伏するうちに、彼女は魂の拠りどころであった信仰を捨てた。信仰よりも、遥かに尊い救いを得たからである。

 キクは、諦めたように大口を開けて笑った。

「は、はは……。あははははははっ! そう……さね。耄碌もうろくもするさね……。身を隠して……母親になっちまって……女中になんか甘んじてりゃ……そりゃ腕もにぶる……さ」

 ぼとりと短刀が落ちた。

 次に大きく咽せた。口から堰を切ったように鮮血が溢れ出した。毒が全身に回りきったのだ。

「これで……やっと、死ね……る。やっと……ねえ。た、た……だ、みち……さま……」

 自らの死因もわからないまま、彼女は最期に唯一愛した男の名を呼んで、その場にどうっと倒れた。何かに縋るように手先がびくびくと震えたが、やがてぴくりとも動かなくなった。

 穂村キクは、自らの曾孫の代にまでなって、ようやっとその苛烈な生涯を終えた。

 

 口に鮮血を滲ませた咲も茫然として、倒れたキクを見つめる。

 彼女も何が起きたのかわからなかった。

 なんとか起き上がった渡利が、声を振り絞って二人に呼びかける。

「お、おい。あんたら……大丈夫か」

 咲はなんとか頷いたが、さくらは違った。

「前を見て!」

 さくらの鋭い声に、渡利も前方の雑木林の方を見た。

 十数メートル離れた先の巨木の枝に、二つの黒い影が立っていた。

 影を見据えて、さくらが小さな声で言った。

「殺したのは彼らよ……」

 二つの影は音もなく地上に飛び降り、渡利と咲の方に向かって悠然と歩いてくる。

 身体は小さく、まだ子供のように見える。

 たった今、容赦なく殺人を遂行した子供たちの顔や表情は全くわからなかった。

 黒子のような装束を着ていて、一人は長い髪を頭の上で団子状に結い、白い狐の面を被っている。身体つきはまろやかで、少女のようだ。

 もう一人は短く刈り上げた短髪の少年で、鼻だけが長く突き出た赤い天狗の面を被っている。彼は少女よりも背は小さいものの、鍛え抜かれた引き締まった身体をしていた。

 少女は弓らしきものを肩にかけ、竹を横に割った形の鉄筒を背負っている。

 筒からは、キクの首に刺さったものと同じ嚆矢が何本も覗いていた。彼女が最初の矢を射たことは明白だった。

 渡利は鼻血を手で拭いながら、彼らを見据えた。

 そして近づいてくる少女に何か違和感を感じた。

 彼女には、人間にはあるはずの器官の一部が欠けているような気がした。

 それが右の耳朶であることに気づくと、背筋に冷たいものが走った。少女は右の耳がなく、頭部の側面がつるんとまっ平だった。

「あ、あんたらは何者だ……」

 尋常ならざる者と知りつつ、渡利は自身を奮い立たせてなんとか尋ねた。

 狐の面を通して、少女から声がした。

 その声は、予想に反して明朗かつ堂々としていた。人前で話すことに慣れているものだった。

「これはどうも。初めまして、というべきでしょうか。こちらは、皆様を何度か拝見しておりますが……。このたびは、どうもありがとうございました。あなた方が穂村キクを引きつけてくれたおかげで、こちらも楽に誅殺を全うできました。実は、キクに神戸に逃げられてしまうと厄介だったのです。西は西で、別のうからの勢力下にあるものですから」

 渡利と咲は、確かに少女の声に聞き覚えがあった。

「……あなたが黒幕だったのね」

 咲が腹の痛みを堪えながら、やっとのことで言うと、少女はこくんと素直に頷いた。

「ええ、一応名乗りを上げておきましょう。私は、幻想影絵劇団『きりのまち』団員の狭霧さぎりと申します。これは弟の夜霧です」

 隣に立った天狗の面の夜霧は、紹介されても黙ったままだった。

 狭霧は、渡利の方にくるりと向き直った。

「渡利さんは、前から私たちがどういうものであるか知っていたようですね」

「ああ、あんたらも時游民……なんだろう」

「そうです。少なくとも顕世うつしよではそう呼ばれていますね」

「顕世……?」

「あなた方がいる、この世界のことです。私たちは通常、数多の世界群の中で常世とこしよと呼ばれる世界と顕世を行き来しています。常世もここと同じような世界で、あなた方に該当する同一人物が存在しますが、少しずつ歴史や事情がずれています。ですが、私たちは完全な孤体こたいであり、顕世から見たならば常世、常世から見たならば顕世に同一人物が存在しません。どの世界からも浮いた存在なので、どちらにも『存在し得ない存在』です」

「『存在し得ない存在』てなんなんだ……。現に、俺の目の前に存在してるだろうが。幽霊みたいなもんなのか」

 狭霧は否定の意味で、ゆっくりとかぶりを振った。

「いえ、基本的にはあなた方、真人と同じ構造です。肉体があり、食事も睡眠も必要ですし、急所を打たれれば死にます。ですが、あなた方より寿命が長く、世界群を渡れる代償に存在証明を残すことが許されません。結局どの世界の歴史にも、存在しない存在ということになります」

「信じられん……なんだよそりゃ」

 淡々と説明する狭霧に対し、渡利は理解できないのか、首を振り、わしゃわしゃと髪を掻き毟った。

「ですが、私は生まれながらの時游民ではありません。かつてはこの顕世にて、仮の名前を持っていました。綾小路花澄です」

 花澄という単語が出た瞬間、さくらは息を呑み、咲の表情は険しくなった。

「花澄様……あなたが」

「ええ。ですが、母が名づけた『狭霧』が私の本当の名です」

 咲は、自分を利用していた真実の花澄をじいっと見つめた。

「そう……。名前が狭霧……。なるほどね。狭霧の別称は、かすみだわ……。それを漢字を変えて、花の花澄にした……? ということは母親の明夢あきみも偽名なのかしら? 本当の読みは明夢めいむ……? 迷える霧の『迷霧』というのが本当の名なのかしら……」

「咲さん、ご名答です。母の迷霧は時游民ですが、水蛭子ひること呼ばれる先天的不具者でした。水蛭子はうからには留まれず、大抵は市井に出されて諜報の役目を果たします。芸者となった母はやがて父に身請けされ、私を産みました。私には精神感応テレパシーの能力があり、口の利けない母と念話で会話することができました。しかし、十一歳になるまで自分が時游民であることは知らされませんでした。父からは『当主の証』を与えられ、いずれは綾小路家を継ぐものと思っていました」

 狭霧は、芝居のあらすじを述べるようによどみなく話した。そこに彼女の個人的な想いは全く感じられなかった。

「五年前の、桜の開花も間近な春の夜でした。突如、般若の面を被った女が自宅を襲撃してきたのです。般若の女は家に火を放ち、逃げようとした女中と母をあっという間に殺してしまいました。私は父との写真を入れた『当主の証』を持って、箪笥タンスの中に隠れました。しかし、やがて煙と火が迫り、熱さからたまらず外に飛び出してしまいました。般若の女は私を見つけて殺そうとしましたが、その時、頭上に燃えるはりが落ちて来たのです。私は梁に押し潰され、身体に火がつき、女はそれを見て立ち去りました。

 しかし、私は死ぬ間際に駆けつけた一族の者に助け出されました。母が最後の力を振り絞って、念話で助けをんだのです。右耳は灼熱に溶け、身体の半分が燃えましたが命は取り留めました」

 花澄、いや狭霧ははらりと黒装束の袖を捲ってみせた。

 残酷すぎる結果がそこにあった。腕の皮膚は溶けて殆どなく、乾いた赤黒い肉がぼつぼつと盛り上がっている。酷い火傷の痕だった。しかし、狭霧に気にしている風はなかった。

「私は族の里に連れていかれ、そこで夜霧と出会い異兄弟の契りを結びました。異兄弟の契りとは、夫婦の契りでもあります。夜霧は、この世界でいうところの配偶者なのです。私は時游民として生まれ変わり、新たな家族と本来の居場所を得ました。もう綾小路花澄としての未練はありません。勿論、異母姉の地位や財産にも」

「……だったら何故、私に復讐を唆したの?」

「回復した私に、誅殺のめいが下されたからです。それは、般若の面を被った女に死の誅罰を与えることでした。母を殺した者だけは、我が一族の名誉をかけて屠らなければなりません」

「それで私が囮として選ばれたってわけね。私が花澄と疑われれば、再び花澄を殺さんとする者が現れると踏んで」

「その通りです。私はあなたに手紙と『当主の証』を送り、夜霧を綾小路邸に忍びこませて、異母姉へ写真が渡るよう仕込みました。最も夜霧の気配はすぐに誰かに察知されて、屋敷のあちこちを追い回されたようです。当時は私たちにもわかりませんでしたが、綾小路邸はキクの領域テリトリーだったようですね」

「領域……」

 それを聞いて渡利は思い出した。鏑木の護衛だった仁蔵、以蔵が決して綾小路邸には足を踏み入れなかったことを。彼らは特殊な鼻が効き、自分たち以外の同族の匂いを察知したのかもしれない。時游民はその能力によって、各自に優位に働く場所があるのかもしれない。

「あなた方は、私が用意した舞台で完璧に演じ切ってくださった。尚且つ、母を殺した下手人も突き止めて下さった。本当に素晴しい演者です」

 狭霧の賞賛に追随するように、夜霧はパチパチと拍手した。

 咲は複雑な表情で、二人を睨んだままだ。

「綾小路花澄は生きていた……。これで、あなたが書いた『新・青ひげ』は完成したというわけね。残る犠牲者二人は、明夢とあなたではないかと思っていたけれど違った。お母様、鏑木の前妻三人、迷霧、穂村キクで犠牲者は六人……確かに女の数は揃った。だけど……」

 そこで咲の推理を断ち切るように、狭霧は言った。

「では、私たちはこれにてお暇しましょう。幻想影絵の芝居も来週で終わりです。H公園にて最終公演がありますが、それには決して来ては行けませんよ。我々に対する興味は尽きないかもしれませんが、これ以上の深追いは禁物です」

「いや、待ってくれ。俺は……俺は……まだあんたらに聞きたいことが!」

 渡利が混乱しつつも、何かを訴えたそうに声を荒げた。

 時游民である彼らが行き来しているという異世界。そこには、もう一人の自分が存在するという。

 それどころか、この顕世に生きる全ての真人に相当する人間がいるという。だとしたら……。

 けれど、狐の面の下でどんな顔をしたのやら、狭霧は渡利の懇願を無視した。

 何も言わず、くるりと踵を返した瞬間だった。夜霧が不意に顔を上げた。

「姉ちゃん、新手だ」

「……えっ」

 狭霧は何かを察知したのか、その場から飛んだ。

 彼女の困惑を待っていたかのように、上空から新たな影が降ってきた。

 ……鳥? いや、違った。

 飛んできたわけではなく、彼らを地上から猛追する影だった。

 ダンという大きな音がして、狭霧の前の地面が大きく陥没した。

 砂埃がもうもうと舞い上がり、小石がばらばらと飛び散る。渡利とさくらは咄嗟に口に手を当てて顔を背けた。

 降ってきた影もまた、不思議な人の形をしていた。

 天を突くような巨体ながら、その無骨で精悍な顔にさくらは見覚えがあった。

 鳥海鵄丸だった。彼もまた異形だった。

 露出した両腕には、この前会った時にはなかった人ならざる証があった。

 彼の腕の側面には、硬質のとげのようなものがびっしりと隙間なく生えていた。刺は十センチほどの尖った透明な石で、一本一本が鳥の羽根のように薄くて平たかった。それは銀色の表皮を持つ、眩いほどの煌めきを持った金剛の翼だった。

「あなたは……!」

「逃げろ」

 さくらをちらりと見て、鵄丸は一言だけ言い捨てた。

 そのまま、大きく地を蹴ると真っ直ぐ狭霧の方へ向かっていく。その巨体と重さを考えれば、信じられない速さだった。

天鳥あまがらす!」

 狭霧が叫んだ。

 想定外のことらしく、声は先程までの余裕を完全に失っている。

 夜霧が狭霧を庇うように、鵄丸の前に立ちはだかった。

 しかし、鵄丸は興味がないのかうるさそうに夜霧を手の翼ではらった。

 ざんっと音がして、巻き起こった風が夜霧の身体を吹き飛ばした。

「うおっ!」

「夜霧!」

 狭霧は地を蹴って飛び上がると、風圧で飛ばされた夜霧の腕をはしっと掴み、そのまま走って、一気に木の上へ駆け上がった。

 鵄丸も後を追って、ざざざと幹を駆け上っていく。

 伸ばした金剛の翼が木々を軽く擦ったか思うと、次の瞬間、幹が真横にすっぱりと切られた。恐るべき切れ味を持つ翼だった。

 木が倒れる前に、姉弟は次の足場へ跳んだ。

 猛然と襲い掛かってくる鵄丸から逃げながら、器用に木々の間を渡っていく。

 追う者と追われる者は、僅か数秒で渡利たちの前から姿を消した。

 だが、静寂もまたほんの数秒だった。

 今度は綾小路邸の方から、ドーンという轟音がした。再びもうもうと白煙が上がり、バサバサと黒い鴉が飛び回るのが見えた。

「ああ、屋敷の方へ行ったんだわ。咲、大丈夫なの。しっかりして……」

 さくらは咲の元へ駆け寄り、うずくまったままの咲の腕を掴んで助け起こした。

「先輩……」

 咲はなんとか身を起こしたものの、キクに腹を蹴られた傷は深く、歩くのもままならそうだ。

 連れていくのは難しいと諦め、さくらは渡利に向かって言った。

「渡利さん、咲をお願い。ここで待っていて。助けを呼んできます」

 綾小路邸に戻れば使用人たちがいる。男手がある。手分けすれば医者も呼べるだろう。それに狭霧たちが邸内へ入ったなら、主人の蘭子が心配だ。

 右手に殿春を抱え持ち、さくらは気丈にも一人で屋敷に向かって駆け出した。

 残された渡利は、怒りとも焦燥ともつかない感情を持て余し、狭霧たちが去った方向をぼんやりと見つめた。

「なんなんだあいつら……。一体なんなんだよ……」

 狭霧も夜霧も、そして新たに登場した石の翼を持った大男も、実に身勝手極まりなく、渡利を翻弄するだけし尽くして去っていった。

 

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