時を越えた異邦人
渡利を招いたお茶会から数日後――。
綾小路邸に、藤堂家から電報が届いた。
蘭子の実母であり、今は神戸の豪商の内儀として暮らす日奈子が交通事故に遭い、瀕死の重傷を負ったというのである。
医者の見立てでは、今日明日が峠ということだった。
それを聞いた女中頭の穂村キクは、真っ青になった。
キクは元々日奈子付きの女中であった。主人に対し、こみ上げてくる想いがあったのだろう、話を聞いたその場で蘭子に暇を願い出た。「かつての主人の元に戻り、お傍で最期を見届けたい」と懇願したのである。
蘭子も母の危篤に動揺したが、物心ついてより一度として会ったことがない。伯爵夫人でなくとも、他家の人間となった母を訪ねることは難しかった。嘆きつつも、「自分の代わりに」とキクの願いを受け入れて、その日のうちに正式に解雇した。
キクは長年の恩を述べ、夕方に差し掛かる頃、手革鞄一つ抱えて慌ただしく綾小路邸を辞去した。そのまま上野から夜行列車に乗って、神戸へ向かうつもりのようだった。
しかし、キクは真っ直ぐ駅に向かうことができなかった。
彼女は不本意ながらも、綾小路邸を出た先にある雑木林の奥の空き地へと入っていった。
少し前を、咲がしずしずと歩いていく。
キクが屋敷を出たところで声をかけ、空き地に先導してきたのは彼女だった。
空き地に入ったところで、苛ついたキクは咲の背中に怒鳴った。
「お前、こんなところになんの用だい。私は急いでるんだ。このままじゃ電車に乗り遅れちまうよ」
咲は振り返ると、しれっと答えた。
「お急ぎのところすみません。……でも水臭いじゃないですかキクさん。短い間でしたが、キクさんには大変お世話になりました。お別れの挨拶もできないなんて悲しいですわ。どうかこれまでのご恩を述べさせてください」
空き地には、準備を整えた渡利が待ち構えていた。
渡利と咲は、並んでキクの前に立ちはだかった。
「……あんたは誰だい」
疑わし気に
「綾小路伯爵夫人の……友人と言っていいのかな? の渡利です。あなたが穂村キクさんですね。本日、綾小路家の女中頭をお辞めになったとか。二十年近くもあの屋敷にいらしたというのに、随分急なことですね」
「……あんたには関係ないことだよ」
キクは吐き捨てるように言った。実際、渡利には関係のないことだった。
「辞める理由、それは特別なご事情ですかね」
「ああ、そうだよ。前の主人が事故に遭って死にそうなんだ。あんたらに構っている暇はない。早く行かせておくれ」
「そうですか。でもその知らせは嘘ですよ」
渡利が少々気の毒そうに言った瞬間、キクの顔はぴしりと強張った。
「……なんだって?」
「日奈子さんでしたら、最近生まれたお子さんと神戸でお元気です。すみませんが、あなたにはとある疑いがありまして……。俺と咲さんとで共謀して嘘をつきました。これは伯爵夫人のためでもあります。経緯はなんであれ辞めた以上、あなたは綾小路家とは縁が切れた。綾小路邸も出てしまった。これでもう、あなたに何が起きても伯爵夫人は無関係です」
「……どういうことだい。場合によっちゃただじゃおかないよ」
キクは怒り心頭の形相で、渡利に食って掛かった。無理もない。彼女は二人に
だが、渡利は射殺すような視線をものともせず飄々と続けた。
「キクさん、俺たちはこう推察してします。最近のあなたの胸の内は、さぞかし心穏やかなものだっただろうと。何故なら、綾小路家におけるあなたの役割は終わったからです。蘭子さんが家督を継いで伯爵夫人となり、最大の障害であった腹違いの花澄さんは法律上死者となって全ての権利を失った。もう誰も蘭子さんの地位を脅かす者はない。鏑木男爵との結婚は破談になったが、これからいくらでも挽回できる。あなたはそう安堵したはずだ」
「……何が言いたいんだい」
「キクさん、あなたは花澄さんとその母親である明夢を知っていた。そして彼女たちの殺害に関与したはずだ」
そう渡利が言い切った瞬間、キクの顔は、驚きと幾分恍惚じみた喜悦で奇妙に歪んだ。
「はっ、馬鹿馬鹿しい。私が先代の妾とその子を殺した? 何の証拠があってそんなことを言うんだい」
「それは私が説明します」
そこで、咲が渡利を庇うように一歩前に歩み出た。
「キクさん、以前お嬢様の部屋に届いたという、探偵の調査報告を覚えていますか。お嬢様はそれを読んで、『野原咲は花澄ではないか』と疑っていました。そして、その疑惑を屋敷の使用人全員に問い質したのです。料理人たちや家令、運転手、下男、あなたと先輩にも。
皆は私が花澄様ではないかと聞かされて驚き、ああだこうだと屋敷内で聞いた噂を述べ、独自の見解を披露しました。何故、そんな噂話を述べたのでしょうか。それは結局のところ、疑惑に何一つ決定的な証拠がなく、断定ができないからです。だから不明瞭なことを、あれこれ推測するしかなかった。結論からいうと、皆の返答は限りなく黒に近い灰色でした。無論、お嬢様にもわかりません。
ところがおかしなことに、あなただけは即座に疑惑を否定した。何故でしょう。あなたは『私が花澄ではないと知っていた』んです。火事で全て焼けてしまい、写真一つ残っていない花澄様の顔を『見たことがあった』のです。結局、探偵の調査報告というものは存在せず、あの手紙はお嬢様の自作自演でした。お嬢様も、独自に花澄様の行方を探っていらしたのです」
「……そんな」
キクは絶句し、色眼鏡越しの瞳に深い落胆が浮かんだ。
蘭子自身が率先して罠を仕掛けたことは、さすがに衝撃だったようだ。しかし、その落胆は気泡のようにすぐに消えた。キクは筋張った身体を愉快そうに震わせ、にたにたと笑い始めた。
「なるほどね。で、殺人の疑いのある私は
キクは一見自分を見捨てた蘭子を非難しつつも、どこか彼女の行動力に感心しているようだった。開き直って褒めていると言っても良かった。
余裕のあるキクの態度に、咲は警戒を強めながら言った。
「章浩様は生前、お嬢様の後ろ盾である藤堂一派が後継者の花澄様を排除しようとするのではないかと恐れていました。排除とは、暗殺も含みます。屋敷の者は皆、妾の子の存在は知っていても、誰も会ったことがなかった。章浩様が決して会わせなかったんです。ましてや、元妻の実家から来たあなたは尚更です。なのに、あなたは花澄様の顔を知っている。あなたは『故意に会いに行ったことがある』んです。……なんのためにでしょう。彼女を排除するためではないのですか」
「……」
「あなたは五年前、藤堂家の意向を受けて別宅へ行き、明夢と住み込みの女中を殺した。そして証拠隠滅のために家に火をつけた。……ただ花澄様だけは、何らかの理由で殺しそこなったのではないですか」
「いいや、違うね。藤堂家の名誉のためにも言っておくよ。こそこそと調べはしても、十一歳の子供を殺す度胸は忠次様にはない。花澄を殺しに行ったのは私の独断さ。彼女はなんとしても始末しなくちゃならなかった」
それは淡々としつつも、耳を疑いたくなるような恐ろしい告白だった。キクは何の迷いもなく、はっきりと言い切った。自分は、子供の花澄こそを殺めに行ったのだのだと。
渡利がハッとして尋ねる。
「もしかして先代の伯爵の遺言状……確か五年前に書かれたという。もしかしてそれを見たのか。まさか先代の綾小路伯爵も、あんたが……」
「さてね……。章浩様も晩年は花澄が見つからず、
どこか楽しげな、揶揄するような口調だった。悪辣な老女に渡利は唖然とし、ほとほと呆れた声を上げた。
「なんだそれは。どういうことなんだ。俺には全く理解できない……。人殺しをしてまで、蘭子さんの襲爵に固執したのはなんでだ。そんなにまでして、主人に尽くすのはなんでだ。綾小路家の財産も権力も、あんたの
キクの動機が、渡利には全く解かりかねた。
藤堂家や蘭子への忠誠心だけで、罪なき子供を殺せるものなのだろうか。
キクは緋色に染まった雄大な空を見上げ、皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべた。
「そうだねえ……あえて言うなら男さ。命をかけた恋ってやつだね」
「男……?」
また予想外の単語に、渡利は驚いた。隣りの咲の目は、すうっと細まった。
「私は大分昔にこの国に来てね。祖国からは別の目的で送り込まれたんだが、市井に身を潜めるうちに子供を産んだら情が移ってしまった……。要するに、命を賭けるに値する男と巡り合ってしまったんだよ。その男は私より遅く生まれて、私より早く死んじまったけど、その身に大いなる野望を抱えていた。戦乱を起こしてではなく、誰もが認める正統な方法で、この帝国を
「あんたより後に生まれて、先に死んだ……?」
「私が愛しているのは、腹を痛めて産んだ忠道様と日奈子様のみ。お嬢様は孫にして
「じゃあ、あんたは……えっ? ……え?」
渡利は思わず叫んでしまった。
以前、上司の大木戸が話していた、蘭子の曾祖母に当たる白人の女奴隷・千代美。
彼女は入江忠右衛門との間に息子を産み、その後どこかへ姿を消した。その息子とは入江忠道だ。忠道の娘が日奈子のはずだが、キクは彼女も自分が産んだ子だと言う……。
そこまで考えて、渡利は冷水を浴びせられたようにゾッとした。
あまりに悍ましい事実だった。
キクの言うことが本当なら、日奈子は千代美と忠道の親子の交わりの果てに生まれた娘だ。
そして、その濃すぎる隔世遺伝の集大成として、赤毛碧眼の蘭子が誕生した。
「とはいっても、さすがに完全無血ってわけにはいかないね。夢には多少の犠牲がつきものさ。結果として花澄を排除したが……死体が出なかったからにはきっと仕留め損ったんだろう。不覚だったね」
渡利の声は、驚愕のあまり掠れた。
「ということは、あんたは……ち、千代美なのか。千代美も……時游民だったのか」
「察しがついてるのかい。たいしたもんだ」
色眼鏡の奥の瞳が、夜行性の動物のように爛々と光を放った。
元より逃がすつもりはない、冷酷な暗殺者の目だった。
キクの決断は早かった。
老人とは思えない俊敏さで、さっと懐から短刀を取り出すと、渡利と咲めがけて突進してくる。
「渡利さん!」
咲が叫ぶと同時に、ヒュンと鋭利な刃が音を立て渡利のシャツを擦った。
「また俺かよ」
運のなさを呪いながら、寸でのところで渡利は地面に転んだ。短刀は空振りし、うち伏した渡利に迫った。
「やめろっ」
渡利は叫び、思わず目を閉じてしまった。
「先輩!」
咲が叫んだ。いや、叫ぶ前に先鋭な影がキクと渡利の間に飛び込んできた。
ガキンと鉄と鉄がぶつかる鈍い音がして、キクの短刀が弾かれる。
渡利の前に、
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