鷹丸という男【後編】
――四回戦。
蘭子はもう賭けるものがなくなってしまった。勿論、衣服を賭けて裸になる気はない。そんな辱しめには耐えられない。
これは依頼を諦め、勝負自体を棄権するしかないだろう。
しかし、蘭子が切り出す前に、鷹丸がカードを集めながら鋭く牽制した。
「おっと、途中棄権はなしだ。あんた様はあと二回勝てる機会があるんだ。最後まで勝負しな」
「ですが、もう賭けるものがありません」
「だったら髪留めだな。頭にささってるそれを出せ」
銀色の髪留めは高級品でもなんでもない。どこにでも売っている質素なものだ。
しかし、指定されたからには出さざるを得ない。蘭子は大きく溜息をつき、髪留めを外して机の上に置いた。
途端、髪が解けて流れ落ち、面貌をふわりと優しく包んだ。
まさか初対面の男の前で、寝姿のような恰好を晒すことになるとは思わなかった。羞恥から目を逸らすと、鷹丸はにやにやと笑った。髪を下ろした蘭子を興味深げに、じいっと見ている。彼の視線は、もはや痛いくらいだった。
蘭子が再び親になり、カードを配った。
持ち札は全てスペードで、10、ジャック、クィーン、キングだった。
そして、最後の一枚はジョーカーだった。
ジョーカーを見た瞬間、蘭子の身体から一気に力が抜けた。
大きく息を吐きたいのを堪え、なんとか平静を装う。
完璧だった。ジョーカーはどのカードの代わりにもなる。ジョーカーをスペードのエースにすれば、ロイヤルストレートフラッシュだ。これ以上強い役はない。
例え、鷹丸が同じ役を出してきたとしても、こちらはスペードで揃えている。間違いなく、百パーセント勝てる。
鷹丸は手札を見て、余裕の笑みを浮かべている。蘭子がパスをすると、彼は一枚だけ捨てた。
「ところで、また質問だ」
「何でしょう」
どこか投げやりに返すと、鷹丸は少し間を置いたあと言った。
「あんた様は、一体どういう男が好みなんだ」
「……はい?」
もはや依頼内容のことでもなんでもない。
蘭子個人に向けた極めて私的な質問だ。しかし、勝利を確信した蘭子は今更無礼と怒る気になれなかった。些細な戯れだ。適当に流してしまえばそれでいい。
「……殿方の好みなどありません。そんなことは……どうでもいいことです」
「どうでもいいか。どうでもいいなら、なるたけ強い男にするんだな。クソの掃溜めみたいな世情だ。いかな伯爵だろうと、女の細腕じゃ乗りきれないことも多々ある。そういう時、
これまでの軽薄な態度はどこへ行ったのか、随分真面目くさった忠告だった。蘭子はますます鷹丸という男がわからなくなった。いや、会ったばかりの男を理解せよという方が無理だ。
「さあ……? 妾には既に婚約者がおりますから。今更好みなど持っても何にもなりません」
「婚約者?」
「ええ、六月に結婚するのです」
「へぇ……そうかい」
鷹丸の眼が瞬間、凶暴な光を帯びた。彼はパチパチと瞬きし、その光を巧妙に隠した。
蘭子はパスをした。鷹丸は一枚ずつ、合計三枚カードを捨てた。
オープン前となった。この部屋に入って、幾らも時間は経ってないはずだったが、もう何時間もここにいるような気がした。蘭子は少し疲れが滲んだ声で言った。
「妾が親ですが、特にルールはありません。あなたが乗れば、あなたの負けです」
「そうかい、だが俺は降りないぜ。じゃあ開くとすっか」
これで終わりと思うだけで著しい解放感に包まれる。蘭子は自信満々に自分の札を見せた。
ロイヤルストレートフラッシュ、これ以上の役はないはずだった。
鷹丸もまた自分の札を出した。マークはバラバラだが、四枚の数字は全て2だった。
2は全数字の中で一番弱い。フォーカードだとしても、余裕で蘭子の勝ちだった。
しかし、鷹丸が持っていた最後の一枚は、なんと蘭子と同じくジョーカーだった。
「ファイブカードだ。俺も出したのは初めてだな」
「ファイブカード……」
「ロイヤルストレートフラッシュより唯一上の、最強の役だ。とんでもねえ低確率だが」
蘭子は愕然とした。信じられなかった。こんな役があることも知らなかった。
しかし、それを
とうとう髪留めも取られてしまった。
勝負は、泣いても笑ってもあと一回。蘭子の目の前に、完全なる敗北が迫っていた。
――五回戦。
蘭子はもはや疲労困憊だった。身体よりも、心が参ってしまっていた。
こんな事態に陥ったのは、初めてだった。様々な事情はあるにせよ、彼女は社会的には生まれながらの強者、勝ち組の人間だった。衣食住の何一つ不自由せず、伯爵夫人になった後で自分の意思が適わないことはなかった。
それが今はどうだ。
卑俗な新宿遊郭の片隅で、美しくも素性の知れない男に賭けに負け続け、追いつめられている。華族の矜持も自信もどこかへ失せてしまった。もう、どうしても何をしても鷹丸には勝てる気がしなかった。
交互に親をしている以上、彼がイカサマをしているとは思えない。
彼女は信じられない気持ちで言った。
「もう……賭けるものがありません」
「いや、まだあるだろ。賭けれるものがよ」
鷹丸の声は氷のように冷たく、目の前の獲物に対する明らかな嗜虐に満ちていた。もしや、このゲーム自体が罠だったのか、蘭子を抜け出せない遊戯の沼にどっぷりと嵌めるのが目的だったのか。
「服は無理です」
蘭子は大きく首を振った。
「ハッ、服ねぇ。それも悪くないが、まだ価値のあるもんが残っている。ここまで来たなら、あんた様の貞操を賭けろ。俺が勝ったら、それを貰う」
「……」
蘭子は息を呑んだ。ていそう、と口の中で小さく繰り返した。
とんでもない要求だった。鷹丸は確かに、賭けに身体を差し出せと言った。
即ち、賭けに負けたら自分と寝ろと。
今日会ったばかりの身分も素性も定かでない男に抱かれる……、考えただけであまりの
蘭子は焦りと恐怖から頭の中が真っ白になった。くらくらと眩暈がした。
「鷹丸」
さすがに見かねたのか、黙ってやり取りを見ていた鵄丸が咎めるように名を呼んだ。
「鵄丸、てめえは黙ってろ」
鷹丸はせせら笑いながら、相棒の制止を撥ねつけた。二人の力関係は完全に鷹丸の方が上のようだ。
「命に比べりゃ、
「妾は……娼妓ではありません」
蘭子はようやっとそれだけ言ったが、鷹丸はどこ吹く風だ。
「ま、そんな世界の終わりみたいな顔すんなよ。最後にそっちが勝てば何も問題はない。最終戦も親やっていいぜ」
鷹丸は、カードを蘭子の前に投げた。
蘭子は散らばったそれを集めた。トランプを一枚一枚見てみたが、何も変わったところはない。
彼女は何十回と入念にカードを切り、自分と鷹丸の前に五枚置いた。
これで、本当に最後だった。
蘭子は自分のカードを見た。それは……。
鷹丸が自分の手札を見ながら言った。
「最後の勝負の前に、最後の質問だ。あんた様は、結婚相手の男を愛しているのか」
「……」
蘭子は鷹丸の問いに動揺した。
どうしてこんな時に、この男は自分の心に土足で踏みいってくるのだろう。的確すぎるほどに、いやらしく揺さぶってくるのだろう。……許せない。本当に許せない。
けれど、彼女は既に自分の本当の気持ちを知っていた。
婚約者を、鏑木惟光のこと愛しているのか……?
答えは「いいえ」だった。結婚を決めたのは間違いなく自分の意思だが、鏑木を愛しているかというとそうではない。何度会っても、好きとさえ感じない。それなのに婚姻して夫婦になって、何十年もの月日を共に過ごそうとしている。これが華族の結婚なのだと、家のためだと自分に言い聞かせて。
黙ってしまった蘭子の顔を盗み見ながら、鷹丸は自分の札を五枚とも捨てた。
「『はい』とは言わねえんだな……。もしたいして好きでもねえのに結婚するなら、あんた様が得るものはなんだ。娼婦と何が違うんだ? 金目当てじゃない分、余程タチ悪りぃぜ。だったら俺と寝たっていいだろ」
「……違います。あなたとは違います」
蘭子は声を震わせ、何度も否定した。
少し泣きそうになりながら、札を三枚捨てた。彼女が持つ役はワンペアだった。
これでは勝てない。鷹丸には絶対に勝てない……。
その冷厳な事実が、蘭子を否応なく打ちのめした。
鷹丸は再び五枚捨てた。蘭子は三枚捨てたが、やはり数字もマークも揃わなかった。
三回目の札を得た時、蘭子は全てを諦めた。
「……降ります。妾の負けです」
蘭子は自ら初めて勝負を降り、札を投げ出した。結局最後までワンペアのままだった。
「俺も降りるぜ」
勝利を確信したのか、鷹丸も札を投げた。
蘭子は深く項垂れた。もうどうにでもなれと
しかし、意外な声が降ってきた。男の側に、どこか諦めたような節があった。
「馬鹿、何泣きそうになってんだ。貞操云々は冗談だ。……それに俺はブタだ。そっちはワンペア。あんた様の勝ちだな」
「……えっ」
蘭子は驚いて顔を上げ、投げ出された札をまじまじと見た。
確かに鷹丸の札は、マークも数字もバラバラのノーペアだった。
蘭子は自分の勝利が信じられなかった。本当に僅差で勝ったのか、それとも勝たされたのかはわからない。
「……しょうがねえな。俺が負けたからには、依頼を引き受けてやる。ほらよ、これも返すぜ」
先程までの意地の悪さはどこへやら、鷹丸は苦笑しながら、自分の側に引き寄せていた帽子、外套、手革鞄、髪留めを押し返した。
蘭子は暫く茫然としていたが、やがて事実を受け止めた。
その顔に安堵が滲んだ。……良かった。鷹丸のタチの悪い冗談に振り回されはしたが、ここまで来てカードで勝負した甲斐はあったようだ。
大きく息を吸い、高貴な威厳を取り戻してから、蘭子は言った。
「では、改めて依頼を」
「ああ」
契約書を常備してあるのか、鷹丸は机の引き出しから書類を数枚取り出した。鵄丸が黙ったまま机上にペンと朱肉を置いた。ポーカーの勝敗で引き受けたわりには、意外と事務はしっかりしている。
鷹丸は、斡旋者の欄に自分の名を、人材欄に花澄の名を、そして報酬欄には「なし」と書いた。ただ働きだが、別段残念そうではない。
蘭子も必要事項を記入し、署名して拇印を押した。
髪は下ろしたままだが、男たちの前で身繕いをするわけにはいかない。これはそのままにして、さっと外套を羽織る。早く地下から出て、地上の空気を吸いたかった。
蘭子が部屋から出て行った後、待っていたように鵄丸が口を開いた。
「……鷹丸、わざと負けたな」
「あっ?」
口を半開きにしてすっとぼける鷹丸に、鵄丸は尚も突っ込む。
「……揃ってた役を捨てただろう」
「見てたのかよ」
「……いや、お前ならそうするような気がした」
鷹丸はズボンのポケットに手を突っ込み、椅子から立ち上がった。
その薄い唇に、軽薄な笑みが浮かんでいた。あからさまに面白がっている。
「まぁ、番う前からあんまり
「……見合い」
鷹丸の中で、いつからそんなことになっていたのか。鵄丸は奔放すぎる相棒に呆れ果てる。
「独り身にもそろそろ飽きてきた頃だ。洋人の貌も、案外悪かない。よくよく見りゃ青いおめめも可愛いもんだ。胸もでかいしな」
「……」
「よーし、とっとと花澄を捕まえて婚約者とやらはぶっ殺す」
「殺すのか」
「それが一番手っ取り早い。生かしておく義理はねえ」
「伯爵夫人は、婚約者の死を望んでないと思うが」
「ハッ、たいして好きでもねえ男なんかどうなってもいいだろ」
これは何を言っても無駄だ、と鵄丸は思った。鷹丸は直情の男なのだ。心を偽らずありのままに言い、行動に移す。
「あ、
大きく伸びをしながら鷹丸は笑い、鵄丸は密かにこの男に見初められてしまったらしき蘭子に同情した。可哀想に、と思った。しかし、相棒を止める気は特にない。
「……にしてもさっきから妙に外が騒がしいな。変な匂いもする。裏か」
鷹丸は気になることがあるのか首を巡らせ、ひとしきり匂いを嗅ぐと会議室の奥の扉に手をかけた。
裏口から外に出るつもりだった。
「一応、
「俺も行こう」
鵄丸も巨躯を屈めて扉を抜け、鷹丸の後に続いた。
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