その気性、酔狂にして残忍
蘭子が会議室を出ると、ホールはしんと静まり返って寒々しかった。
裸電球は
「さくら?」
蘭子は忠実なる従者を呼び、ホール内をせかせかと歩き回った。
カウンターの中も覗いてみたが誰もいない。一体、どこへ行ったのだろう。
待つように言ったからには、勝手に帰るはずもない。何かあったのだろうか。
耳を澄ませば、入ってきた扉の向こうから
壁と扉が分厚いせいで、予想以上に防音機能が働いているのかもしれない。
やはり、さくらは外か。
蘭子は扉を開き、するりと外へ出た。
「おら、とっとと来いよ」
突然、男の野太く乱暴な声が聞こえてきた。
「手を離しなさい」
続いて聞こえてきたのは、さくらの凛然とした声だった。
何があったのか、彼女は地上への階段を数段上がったところで、凶暴な人相の男たち数人に囲まれていた。
人が集まってきて騒がしいのに気づき、外を覗いたところ、むんずと腕を掴まれ
彼らの無礼に対し、さくらは背負った殿春に手はかけていない。
男たちに対して、まだどこか遠慮があった。妓楼が雇う用心棒か、二丁目の治安維持を担う寄合の
ここは特殊な地域だ。色街でしか通用しない掟がある。
元より、自分たちはここでは
「あなた方の用件はわかっています。ここは遊郭、私も主人が来たらすぐにここを出ます。それまでどうかお待ちください」
冷静に説明しながら、さくらは難なく腕を振り払った。そこで男たちは「んっ」と疑問の声を上げた。
「おい、待て。連れてくのはこいつか」
「……いや、こいつじゃねえ。この女は付き人だ」
何を言い出したのだろうと、さくらが再び口を開きかけたその時だった。
「さくら」
まぎれもなく主人の声がした。さくらは勢いよく後ろを振りむいた。
「お嬢様」
蘭子の姿を認めて、さくらは驚いた。
何があったのか、蘭子の結い上げていた髪が崩れている。背に流れた、腰まで届かんばかりの長い赤髪がはらりと風になびいた。
蘭子を見た男たちは、これが目的とばかりに
「赤毛の女……そいつ、そいつだ」
「捕まえろ」
しかし、男たちが階段を駆け降りるよりもさくらの方が早かった。
彼女は
迷うことなく背中の愛刀に手をかけ、素早く抜き放つ。
殿春を両手で持ち、すぐにでも攻撃できる
男たちが襲い掛かったきたら、
「くそう、このアマ抜きやがった」
男の一人が叫んだ瞬間、応えるように刀が一閃した。
足元からすくい上げるように斬撃が繰り出され、うわあっと男たちが飛び
「下がれ、下郎」
男たちに向かい、さくらは平常からは信じられないような大きな声を発した。
黒檀の清冽な瞳は爛々と輝き、全身から勇猛果敢な気を発する。およそ女中らしからぬ……いや、相手を威圧するこの様こそが彼女の本来の姿に違いなかった。
背後で、蘭子が大きく息を呑んだ。
「さくら、これはどういうこと」
「……わかりません。ですが、この者たちはお嬢様自身を狙っているようです。身代金目的の略取誘拐かもしれません」
「妾を……?」
「私にぴったりとついてください。絶対に傍を離れないでください。……やっ」
そう言いながら、さくらは殿春を男たちに何度も突き出した。
率先して前に出て、とにかく二人共地上に出なくてはならない。
多勢に無勢である。彼らが本気で蘭子に危害を加えようとするなら、斬り捨てることも厭わない。
士族にとって、戦いは決して男だけのものではない。女子もまた同等に戦う。敵を屠り、主人を守り抜くことはこの上ない誉れである。さくらも、その崇高な忠義を貫徹すべく生きている。
「くそっ」
男たちは
さくらの動きに迷いはない。ヒュン、ヒュンと風を切り、しかし正確な突きを繰り出す。男たちはわたわたと後ろに下がった。
「いきます」
さくらは蘭子のために叫ぶと、だっと跳躍し、男たちを蹴散らすようにして階段を駆け上がった。
続いて上がってきた蘭子の腕を掴んで引き上げ、刀を向けたままじりじりと後退する。
男たちは一瞬怯んだものの、通りに出た二人のゆく手を阻むように、道いっぱいに広がった。丸腰であるようなのに、へらへらと下卑た笑いを浮かべ、尚もさくらたちに迫ってくる。
「下がれ。お前たちが近づいていい御仁ではない」
さくらは周囲を見回しながら、尚も一喝した。
彼女の背を冷たい汗が伝っていた。地上には出たが、これからどうする。
賊に背を向け、主人の手を引いて逃げられるだろうか。
仲通りまで戻れば、なんとかなるような気がするが……。
蘭子は斡旋所の扉を見た。鷹丸、鵄丸に助けを求めたいが、彼らが外に出てくる様子はない。叫んだところで中に声は届かないだろう。
さらに、事態は緊迫した。
さくらたちの背後に、新たな人影が現れた。まさに浮浪者の風体をしたならず者が十数人、目をぎらつかせてこちらにやってくる。
男たちの手には、棍棒や角材、民家の台所からそのまま持ってきたような包丁が握られていた。真昼から強盗・殺人も辞さないような凶悪さで迫ってくる。
元から潜んでいたのか、増援なのか、何にせよ彼らの視線は一様に蘭子に注がれていた。彼らにとって蘭子は、美しい姿態以上に金のなる木そのものだった。
親玉らしき男が、棍棒で自分の肩を叩きながら、声高に言った。
「……間違いねえな、連絡どおりの伯爵夫人だ。こりゃまた、わっかりやすい貌だなぁ。いいか、お前ら、夫人に怪我はさせるなよ。大事な人質だからな」
「もう一人の薙刀女の方はどうすんでさ」
「そいつは殺そうが、嬲ろうが好きにしていい」
ひゃあああっと、男たちは卑猥な歓声を上げた。
さくらは、ぐっと柄を握りしめた。やはり男たちは身代金目的に蘭子を攫うつもりなのだ。
蘭子は悔しさに唇を噛んだ。確かに自分は目立つ容姿だが、まさかここで暴漢に襲われるとは思わなかった。不運といえば不運だが、脇が甘かったことは確かだ。
「じゃあ、行きますかねえっ」
賊の一人が、木刀を振り上げて襲い掛かってくる。
さくらは振り下ろされた木刀をなんなく
「てんめえっ」
激怒した男がさらに振り回すのを、身を屈めて避け、足払いを食らわせる。
どうっと倒れ伏した仲間を越えて、今度は鋭い肉切り包丁が繰り出された。
それも
蘭子は、抱えていた
鷹丸から返してもらったものの、今こんなもの持っていても何の役にも立たない。むしろ、手革鞄とその中に入っている百円で賊が引き下がってくれれば万々歳だが、彼らの目的は最初から自分にある。さくらを殺してでも、誘拐するつもりでいるのだ。
蘭子は、咄嗟に地面に転がった肉切り包丁を拾い上げた。
こんなものを触るのは生まれて初めてだった。持った包丁はずしりと重かった。
男たちは二人を完全に包囲し、どんどんと間合いを詰めてくる。
「お嬢様!」
「さくら……」
互いを呼ぶ。逃げられない。この囲みを突破できない。しかし、このまま捕まって拉致されるわけにはいかない。
蘭子は震えながらも包丁を両手で持って、男たちに向かって突き出した。
せいいっぱいの抵抗の意思を示した。さくらのような武芸の心得はない。
誰もそんなことを教えてくれなかった。否、知る必要もなかった。戦い方を知ったとしても振るう機会はなく、屋敷に閉じ込められたまま一生を終えたかもしれない人生だった。
……本当は、その方が良かったのか。
父が死んで初めて自由を得て、外に出たのは間違いだったのか。
包丁を握る手が震えた。怖い。どうしようもなく怖い。
怖いが……それでも蘭子は顔を上げて、毅然と前を睨み据えて叫んだ。
「来るならば、来なさい。お前たちの思い通りにはさせません!」
追いつめられても、前を向かねばならない。いつだって気丈に、前だけを。
生まれもっての高貴な身分、その誇りが身を縛るのなら、貴族は貴族らしく最後まで
下郎に膝を屈してはならない。許しを、命乞いなどしてはならない。
こんな輩に引き倒されて蹂躙されるくらいなら、せめて一人でも刺し違えて一矢報いたい。
戦わなくてはならない。断固として戦わなくては。
「ひゃああああ!」
雄叫びをあげて飛びかかってきた男に対し、蘭子は無我夢中で包丁を振り回した。
怪我させるなという指示通り、蘭子に角材や木刀は向けられなかった。だが、腕を掴まれ足を蹴られる。ブラウスを引っ張られ、ビリリと袖が千切れた。
「お嬢様ァ」
さくらの叫び声と共に、また殿春が一閃した。
蘭子の髪を掴んだ男の肩から腕までが、殿春の鋭い軌道と共にぱっくりと裂けた。
うぎゃああという悲鳴と共に、血しぶきが舞う。
さくらは荒い息を吐いた。
手に持つ得物の統一性のなさといい、息の合わなさといい、男たちは決して訓練を受けた手練れではない。ただの寄せ集めだが、それでも数が多すぎる。囲まれて取り押さえられるのは時間の問題だ。
「……さくら、おかしいわ」
蘭子がハッとして呟いたのに、さくらは後悔と自責を込めて返した。
「ええ。もう、とっくの昔に、大変とってもおかしい状況です。やはり、お嬢様をこのようなところへお連れするべきではありませんでした」
「思えば斡旋所に入った時から、色んなことが食い違っていた。もしや、これは端から仕組まれていたのでは……」
自分は紹介を受けて、鳥海人材斡旋所に出向いてきたはずだった。
しかし、鷹丸らはそのことを一切知らなかった。依頼も代理人も立てることが可能だった。蘭子自身がこの場に来る必要はなかったのだ。
「……まさか、木村? 妾とお前以外で、今日ここへ出向くことを知っているのは彼だけ……」
蘭子が疑問を交えながらも、憎々しげに言い捨てた瞬間だった。
その言葉を待っていたように、天から声が降ってきた。
先程と同じようにどこまでも軽妙で、しかし今回は抑えきれない
「へえ、それってもしかしてこいつのことか」
蘭子は声がした方を見上げた。
赤煉瓦の二階に張りついた大きな時計盤の、さらにその上、屋根に生えた角と角の間に鷹丸が立っていた。
蘭子とさくらは目を見開いた。いつの間に、そんなところによじ登ったのか。
しかも、鷹丸は一人ではなかった。
わざわざ引き上げたらしい、くたくたのスーツを着た男の胸倉を掴んでいる。
捕らわれた男は反り返ってぐったりとし、「ああ……ああ……」と小さな悲鳴を洩らしていた。その両眼は既に潰されており、眼窩からはぼたぼたとひっきりなしに鮮血が滴り落ちて、赤い屋根を殊更に赤く染めていた。
木村だった。目だけではなかった。既に制裁を受けたのか両足は粉砕され、膝から下はぐにゃりとして、あり得ない方向に折れ曲がっている。
鷹丸は大の男を右手だけで易々と支え、その口もとに氷のように冷たい微笑を湛えていた。
「やっぱ上からみた方が早いな。戻ってきたら案の定だ」
蘭子はごくりと唾を呑んだ。信じられなかった。
鷹丸は自分を探すため、わざわざ木村を抱えて屋根に上ったというのか。なんのためにそんなことを。
鷹丸は見るのも嫌という風に、木村から露骨に顔を背けた。
「……にしてもこいつ、くっせえな。ポマードか? 鼻がひん曲がりそうだ。が、おかげですぐに場所はわかったぜ。こいつは裏から十軒以上も離れたとこに隠れて、『赤毛の女を攫え。連れて来たら十円払う』なーんて炊きつけてやがった。十円か、あんた様も随分安く売られたもんだな」
鷹丸は蘭子を見据え、ニッと残忍な笑みを浮かべた。蘭子のその視線だけで肌がひりついた。
「き、木村さ……」
男たちも、鷹丸たちを見上げたまま口をポカンと開けている。
さっきまで自分たちを集めて指示を出していた雇い主が、目を潰され、足を折られて肉人形のような有り様になっている。何が起きたのかついていけない。
「鷹丸!」
蘭子はやっとのことで鷹丸を呼んだ。やめなさいとは言葉が続かなかった。やめるも何も、木村は既に半死の状態だ。
「そこの烏合の衆……おっと
そう言いながら、鷹丸はがくがくと容赦なく木村の胸を揺さぶった。
木村はもがく様に何度も首を振った。差し出した手は虚しく空を切るばかりだ。
目を潰されたからにはもう何も見えない。自分が一体どこにいるのかも、誰に捕まっているのかも、何も何もわからない。底のない闇と絶望に彼は
「あ……あ……。許して……くれ。許して……たすけ」
「あ? なんだ? よく聞こえねえなぁ」
鷹丸は愉快そうに笑い、木村の右腕を掴んだ。
彼はなんでもないように、木村の腕をぐるりと
だが、それは人間にとっては残虐にすぎる戯れだった。
腕の皮膚が縦に裂けた。次に鮮血と生々しい薄桃色の肉が露出し、ぱあんと弾けた。ボキッと骨が折れる嫌な音がした。
「うぎゃああああああああ……」
辺りに木村の悲鳴が響き渡った。
鷹丸は素手で、文字通り赤子の手を捻るように、容易く木村の腕を
およそ人間技とは思えなかった。蘭子はその一部始終を瞬きもせず直視してしまった。
怪奇を極めた拷問、あまりの恐ろしい責め苦を見て、地上の男たちの顔も引き攣った。声も出なかった。
「ほらよ」
鷹丸は引き千切った腕をひょいと放り投げた。腕は大きく弧を描き、蘭子の足もとに落ちた。叩きつけられて血が跳ねたが、蘭子の服は汚さなかった。正確かつ絶妙な投擲で、さらに言えば趣味が悪すぎる。
「……」
蘭子は包丁を構えたまま、転がった木村の腕を茫然と見つめた。夢ではない。まぎれもなく血肉と鮮度を備えた本物の人間の腕だった。
「なんだ、驚かねえんだな」
石のように固まった蘭子を見て、鷹丸はつまらなそうに呟いた。
どうやら彼女の悲鳴を期待していたようだ。
途端、女を釣れなかった哀れな獲物に興味を失ったのか、激痛に悶絶する木村から手を離し、その背中をあっさり蹴り飛ばした。
「あ、あああ……」
呆けたような声を上げ、木村は頭から真っ直ぐ落ちて、地上に叩きつけられた。地面にぶつかった衝撃で首の骨が折れたようだ。そのままピクリともしない。
木村は呆気なく死んだ。拷問にしては比較的短い時間で、地獄の責め苦から解放された。蘭子を狙ったツケなのだとしたら、その代償はあまりにも高い。
鷹丸も続いて、その身を宙に投げた。
屋根から飛び降りたにも関わらず、強靭な足は何の衝撃も受けず、すくっと地上に降り立った。とんでもない身体能力だった。
「うわああっ」
目の前に迫った美しくも残虐な死神に、男たちは我に返ったのか悲鳴を上げた。
だが、恐怖で凍りついたのか足が全く動かない。
さらなる不幸が男たちに迫っていた。
斡旋所の扉が勢いよく開き、鵄丸が出てきた。
どうやら木村を抱えて屋根を越えた鷹丸とは違い、彼は地上を走り、地下室を通り抜けて来たようだ。階段を、ぎっとぎっと踏みしめながら登ってくる。その顔は無表情だが、鷹丸同様に慈悲はない。
鷹丸の酷薄な声が辺りに響いた。
「さーて、お集まりの陳腐な
非情極まる死の宣言だったが、さくらだけは瞬時に内容を理解した。
彼は今、確かに殺す対象を「女と盲者以外」と言った。
世にも恐ろしい、およそ化け物としか思えない男だが、どうやら自分たちは見逃してくれるようだ。なら、なんでもいいとさくらは思った。妖怪でも悪魔でも、主人を助けてくれるならそれに乗るべきだ。
さくらは、立ちつくした蘭子の腕をぎゅっと掴んだ。
「お嬢様、今のうちです。逃げましょう」
「えっ……」
「早く」
蘭子の握っていた包丁が、からんと音を立てて地面に落ちた。
右手に殿春を持ち、左手で蘭子の手を握ると、さくらは走り出した。蘭子は引っ張られるままにそれに続いた。
ボギッ、ベギッ、グシャ……。
背後から、叩きつけられ潰される肉の音がする。
「あ、ああ……。嫌だあ、嫌だああああああああ」
「ひいいいい……たすけ……助けてくれぇ」
男たちの悲鳴も聞こえる。
殺戮が始まっていた。始まったからには、もう振り返ってはならなかった。
全力で走り、T字路まで戻ったところでさくらは迷った。
仲通りまで戻って、一気に突っ走るべきか。
いや、そこに新手が
元より、この近辺の土地勘はない。闇雲に裏道を進んだところで、更に奥に迷い込むだけだ。さくらはぎりっと奥歯を噛んだ。懐にしまった地図を開く余裕はない。
「
不意に子どもの声がした。
小さな影が、二人の前方にちょこんと立っていた。
頭にぼろ布を引き被っているが、覗いた幼い顔には見覚えがあった。ここへ来る途中に会い、蘭子を見て一目散に逃げだした少女だった。
少女は、たたっと走り寄ってくると、蘭子の手を取った。
「わっちについてきてください。遊郭の出口までご案内します」
「……お前は?」
さくらが尋ねると、少女は血に濡れた殿春を見て怯えたように顔を引き攣らせた。しかし、彼女は勇気を振り絞ったのか、尚も真摯に訴えかけた。
「お願いです、信じてください。わっちは御方様の味方です。あの斡旋所のことも知っています。この刀を持ったまま通りに出れば、騒ぎが大きくなります。そこで賤民を斬ったところで女士様の刀が穢れるだけ。お願いですから、わっちと……」
少女は懇願するように言った。鷹丸たちのことも知っているようだ。騒ぎになって、関係ない遊郭の人間が傷つくのが嫌なのかもしれなかった。
「わかりました」
蘭子は頷いた。今の自分はそうするしかなかった。
今度は、少女の小さな手を引かれて蘭子は走り出した。さくらは追ってくる者がいないか、何度も後ろを振り返りながら後に続いた。
三人は、地元の人間しか知らないような狭い路地に入っていった。
木戸を開けて妓楼の裏口から入り、庭を突っ切り、干された
小さな橋も越えた。汚水を流す
それを消すためなのか、ツンと消毒液のような匂いも鼻をついた。
少女の足は慣れていたが、まるで入り組んだ迷路の中を進んでいくようだった。
五分ほど、無我夢中で走っただろうか。
やがて少女は立ち止まり、路地を抜けた先を指差した。
「御方様、ここが二丁目の外れです。この通りを右に曲がれば煙草屋と薬局があって、靖国通りに戻れます。通りに出たらすぐ円タクを拾ってください。この辺りを歩いてはなりません。夕方になれば街娼が立ち始めます。それに群がるお客さんたちも……」
蘭子はハアハアと息を切らしつつも、少女に向かって礼を言った。
「ありがとう。お前も一緒に来なさい」
屋敷に戻ってから小金でも与えようと思ったが、しかし、少女は蘭子の申し出に悲しそうに笑い、首を横に振った。
「いいえ、わっちは行けません。姉さんと一緒でないと
姉さんというのが実の姉のことなのか、店の娼妓のことなのかはわからなかった。が、とにかく二丁目からは出れないと繰り返した。
「お前も……身体を売って暮らしているの」
蘭子は信じられない気持ちで尋ねた。こんな小さな子が身を
少女は俯き、消え入りそうな声で言った。
「違います。いずれはそうなりますけど……」
「そう……」
「あの、高貴な御方様、どうかお願いです。もう……ここへは来ないでください」
「お前……」
少女の懇願に、蘭子は胸が詰まる思いがした。
「別に……男の人はいいんです。女郎、あばずれとどんなに蔑んでも、最後はお金を払ってわっちらを買うしかないんですから。男の人は、そうしないと生きていけない人たちですから。でも……御方様は違います。御方様はこことは関係ない雲の上の世界の人です。わっちら女郎は、何があっても同じ女の人から
思わず、蘭子はその場に膝をついた。自分のこれまでの傲慢な振る舞いが、急に恥ずかしくなった。
「……悪かったわ。お前たちの
蘭子は、賤民であるはずの少女に向かって素直に詫びた。
目線を同じ高さにして、子供であっても対等の者として扱った。もう、華族の誇りとやらを振りかざすことはなかった。何の意味もないことだった。
「でも心配だわ。このまま戻ったら、お前が酷い目に遭うのではないの」
「大丈夫です。御方様を
少女の返事に、蘭子は内心ホッとした。
あの二人は人間とは思えない怪力を持ち、殺人も
よくよく考えれば、蘭子は今回鷹丸たちに仕事を依頼してしまったわけで、これからも彼らとの関係は続く。それを思うとゾッとしないでもないが、自分を木村と暴漢から助けてくれたことは素直に感謝したい。
大通りに戻るにあたり、さくらは懐から懐紙を取り出すと殿春についた血を丁寧に拭った。殿春を元通り背負うと、二人が話し終えるのを待って言った。
「お嬢様、もう参りましょう。日が暮れては厄介です」
「ええ、さくら。お前も今日ここで見たことは他言無用よ」
「はい、悪夢と思って忘れます……。本当に悪い夢としか思えませんし」
暴漢や鷹丸たちのことを思い出したのか、さくらは疲労の滲む顔で大きく息をついた。
けれど、その横顔はすっかり落ち着いて平静を取り戻している。肝が座っている。味方なら心強い限りだが、敵に回せば恐ろしいと蘭子は密かに思った。
遊郭に立ち入ってからはずっと緊張を強いられたが、なんとか依頼を終え、賊たちからも逃げのびた。
蘭子はさくらを従え、遊郭を出た先の、自分が住まう明るい世界へ向かって歩き出した。
少女は去りゆく貴人の背中を見つめ、眩しそうに目を眇めた。
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