五、溺れる男爵

兆し



 雪の下にちょこんと芽を出すふきとうを筆頭に、徐々に春の兆しが見え始めると、蘭子は毎日のように外出するようになった。

 先日、新宿遊郭でさくら共々誘拐未遂という目に遭ったにも関わらず、ひるんだ様子は全くなかった。

 むしろ「遊郭に立ち入れて無事だったのだから、どこへでも行けるだろう」と開き直りに近い豪胆さを備えてしまい、興味を覚えたことは伝聞では満足できず自ら足を運ぶようになった。とはいっても、自分の価値を思い知ったのか、治安が悪い地域への立ち入りは自重した。

 その旺盛な好奇心と行動力には使用人たちも驚くばかりで、当初はキクも「はしたない」と愚痴をこぼしていたものの、やがて何も言わなくなった。何故なら外出する蘭子の顔が生き生きとしているからだった。帰ってきた後も上機嫌で、時には土産物まで与え、見聞をさくらや咲に語り聞かせることもあった。主人の機嫌が良いと自然と屋敷の空気も明るくなる。不幸が続いた綾小路家にとって、これは良いことに違いなかった。

 水を得た魚のように、蘭子の世界は急速に広がっていった。

 公的な場所に出れば、何かと記者が追ってくるわずらわしさを除けば、彼女はとても楽しそうで、屋敷に幽閉されて過ごした十八年の年月を取り戻すように青春を謳歌した。

 一月の婚約会見の頃とは違い、もはやどこで何を言われても気にしなかった。

 供は最近ではキクを遠ざけ、さくらと咲を交互に連れ歩くことが多かった。

 花澄の行方を探していること以上に、若く美しい従僕を連れ歩いた方が、世間受けが良いことに気づいたからである。見目の良い使用人もまた財産であり、華族の権勢の表れなのだった。

 

 その日の朝、蘭子は自室に運ばせた朝食を済ませると、咲とさくらに出かける支度をさせた。

 咲は、鏡台の前に座った蘭子の髪に丁寧にブラシを当てた。

 寝ている間にできた幾つもの絡まりを解き、真っ直ぐにした後、咲は髪を編み込むため細い束を作りはじめた。

 しばらくして、咲は突然独り言を言った。

「あら、いやだ」

 自らの左手に視線を落とすと、小指の爪に蘭子の髪が絡まっていた。咲が手を動かしたことで、当然蘭子の髪も引っ張られる。

「咲、どうしたのです」

 蘭子は前を向いたまま、鏡に映った咲の顔をちらりと見た。

「申し訳ありません、指に髪が絡まってしまって」

 咲は詫びながら、小指から一本一本注意深く髪を外した。

 そこで蘭子は咲の小指の爪に、何か白く細いものが張りついているのに気がついた。

「……ささくれね。また絡まっては嫌だわ。そこのピンセットで抜いておしまいなさい」

「いえ、これはささくれではないのです」

 そう言いながら、咲は蘭子にそっと指先を差し出した。

 蘭子がよくよく小指を見ると、ささくれのように見えたものは皮ではなく、それ自体が角のように尖った固い爪だった。爪の上に、また小さな爪が生えている。咲は少し恥ずかしそうに言った。

「子爪なのです。抜いても抜いても、生えてきてしまうので困っています」

「そう。ならば絡まないように気をつけてちょうだい」

 全く気にしていない風を装いながら、蘭子は咲の小指を注視した。

 よくよく見れば、咲の小指は第一関節が内側に向かって少し曲がっており、通常の爪には白い縦の線が入っていた。蘭子は数秒で爪の細かな特徴を覚え、咲は再び髪を編み始めた。

 さくらが鍵付きの洋風衣装箪笥チェスト・ワードローブから野茨の金細工を施した大きな宝石箱を取り出し、鏡台の上に置いた。

 箱の蓋を開くと紅玉ルビー翠玉エメラルド蒼玉サファイヤ金剛石ダイアモンドあしらった豪奢な首飾りや、大粒の真珠の耳飾り、金の腕輪、白金プラチナの指輪などが紫のビロウドの上に整然と並べられている。これは綾小路家の宝物と言うべき宝飾類で、綾小路の夫人に代々受け継がれてきたものや、蘭子が襲爵してから特注で作らせた物もあった。本来ならば、この貴重品入れには貴金属である「当主の証」も収められているはずだった。しかし証は失われてしまい、専用の卵型のくぼみにはぽっかりと穴が開いている。

 蘭子は差し出された箱に手を伸ばし、本日着る洋服に合った首飾りや耳飾りを選び始めた。

「お嬢様、今日はどちらまで」

 さくらのさりげない問いかけに、蘭子はほがらかに答えた。

「本郷の東京帝大よ」

「帝大ですか」

 思わぬ返事に、さくらは驚嘆した。

 蘭子は鏡に向かったまま、ふふっと楽しそうに声をあげて笑った。

「帝大教授の山中美磨よしまろ子爵が、生物学の公開講座を講義なさるの。折角なので、暫く聴講させていただくことにしたわ」

「そうなのですか……。私には生物学がどういうものなのかも想像がつきませんが、お嬢様は勉強熱心でいらっしゃいますね」

「熱心ということもないけど、妾は学校というものに通ったことがないから興味津々よ。女に学は必要なしと言われても、大学の門戸は開かれているのだもの。最先端の学問に触れてみたいわ」

「ご立派です」

 さくらはお世辞でなく、学究の徒に連なろうとする主人に心底感心したようだった。

「何故か伯父様もついてくるようよ。妾を一人で行かせては心配なのですって」

「いえ、藤堂子爵様のお気持ちもわかります。ご英断かと」

 さくらは、先日の遊郭での事件を思い出し背筋がヒヤリとした。もうあんな危ないお忍びは二度と御免だった。最近は、大胆不敵な一面も見せる女主人の連れは一人でも多いに越したことはない。

 蘭子は微苦笑しながら貴金属を弄んでいたが、真珠の首飾りを手に取ると咲に差し出した。

「咲、これをつけてみなさい」

「私がですか」

 咲は戸惑いの声を上げつつ、恐る恐る耳飾りを受取り、言われた通りに鏡を覗き込んで耳につけた。

 さらに蘭子に「よく見せてちょうだい」と言われ、正面を向いたり、横を向いたりした。サイドの髪も耳にかけさせて、蘭子は咲の耳に顔を近づけた。

 さらに「大学に行くのだから、地味な方がいいかしら」とか、年頃の娘らしく「それでも華やかなものが良いわ」とあれこれ付け替えさせて十分も迷った挙句、最終的には上品な白蝶貝の耳飾りを選び出した。

「よくお似合いです、お嬢様。とてもお美しゅうございます」

 支度を終えた蘭子に、さくらは定番の一言を添える。衣装係は主人を褒めるのも仕事である。それを聞いて、蘭子は満足そうに頷いた。わざわざ咲をモデルにして装身具を選んだことといい、今日は少しはしゃいでいるようだ。

「本日はさくらがお供なさい。咲は留守をお願い」

「はい、畏まりました」

 咲は蘭子に向かって深々とお辞儀をした。

 その従順な姿勢は、一見すれば蘭子に対する忠誠心に溢れているように見える。

 蘭子は余裕の笑みを浮かべたまま、内心では密かな確信を得ていた。

 さて、この目の前の娘はこれからどのように動き、如何様いかように仕掛けてくるのだろう。

 別に不安を覚えるわけではない。彼女を恐れているわけでもない。

 むしろ、咲の殊勝な態度の裏で、密やかに息づくものが楽しみですらある。

 

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