雨の日の密会



 春の温和な気配に、最も早く感じるのはやはり自然の草花だろう。

 薄桃色の桜はあっという間に咲いて散り、五月になった。

 六月の結婚式を一ケ月後に控えた綾小路伯爵邸は、上から下までその準備にかかりきりとなった。綾小路家と鏑木家の結婚式は華族会館で、披露宴は日比谷のTホテルで行われることになっていた。

 鏑木と蘭子の不和は、表向きは解消されたように見えた。

 お互いに妥協を覚えたのか、それとも干渉を諦めたのか、鏑木は蘭子に小言を言わず、蘭子は鏑木に突っかかるのを止めた。

 二人は粛々と婚礼への準備を進めた。

 古式ゆかしい伝統にならって、厳かに婚礼の儀式を完遂し、世間につつがなくお披露目するのが華族の務めだった。上流階級における婚姻の殆どがそうであるように、そこに情愛は必要なかった。二人は適度な距離を保ったまま、世間に不仲を勘繰られない程度には仲睦まじくしていた。鏑木と白々しい笑みを交わしながら、蘭子はじっと黙考を続けていた。鷹丸からの連絡はまだ来ない。だが、焦れるにはまだ早い。彼らからの報告を得るまではありとあらゆる可能性を考え、屋敷内のことに目を配り、鷹揚に待つしかない。それが今の彼女にできる全てだった。

 

 気温が上がるにつれ、綾小路邸の庭園には様々な色合いの薔薇が咲き始めた。

 通いの庭師が日々丹念に世話するそれはどれも大輪で、特に赤薔薇の真紅の花弁は遠目にもよく見えた。

 咲は朝露に濡れた薔薇を摘んでは、邸内のあちこちに飾るのが日課となっていた。

  早朝から、ぱらぱらと冷たい小雨が降っていた。

 夜は明けていたが、まだ五時であるからには家人は穏やかな微睡まどろみにあるはずだった。庭園の見頃を迎えた薔薇が、今日も爛漫らんまんに咲き乱れている。湿気を含んだ、むせ返るほどの豊潤な花の香りが敷地内に充満していた。甘やかでいて、眩暈を呼ぶような妖しい香りだった。

 咲はいつも通り朝一番に庭に出ると、馥郁ふくいくたる薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。それから手頃な薔薇を数本選び、はさみで切りとって手提げ籠に入れていった。

 彼女が何本目かの薔薇に手を伸ばした瞬間、手先にチクリと鋭い痛みが走った。

「あっ」

 咲は短く叫び、右手をはたと押さえた。人差し指を見れば、先端の皮が切れている。薔薇の棘が、柔肌にふつりと食い込んだのだ。すぐにぷっくりと赤いたまが盛り上がってきて、落ちてきた雨粒にゆるりと混じってけた。透明な水滴に滲む鮮血は、水彩画のように儚い色を帯びて、細く柔らかな指を伝っていく。

 咲は鮮血が滴るのを茫然と眺めたが、やがて思い出したように指先を口に含んだ。温かな咥内に、鉄錆びた味が広がっていった。

 背後からすっと逞しい腕が伸びてきて、彼女の肩に触れた。

 咲が振り返ると、黒い蝙蝠こうもり傘を差した鏑木だった。

「大丈夫かな」

「鏑木様」

 男の気遣いに、咲は嬉しそうに破顔した。鏑木は傘を咲に差しかけた。二人は黒の帳にすっぽりと隠れた。舌で傷ついた指をちろちろと舐りながら、咲は鏑木に媚るような吐息を洩らした。

「いつからいらしたのです。全く気づきませんでした」

「昨夜はうっかり飲み明かしてしまってね。気づいたら銀座の倶楽部の長椅子ソファの上だった。自宅に戻る気にもなれず、ここへ来てしまった」

 そういえば、鏑木からはどことなく酒の匂いがする。

 咲が視線を落とすと、彼の足は少しふらついている。どうやら酒が抜けきらず、まだ酔っているようだ。

「木陰から君の様子を見ていた。真紅の薔薇に囲まれた君は、まるで一枚の絵画のようだった……」

「そんな。お戯れを」

「戯れではない。小雨に濡れぼそる、小さくも可憐な花よ。誰の手も触れないうちに摘み取ってしまいたくなる」

 そう言って、鏑木は馴れ馴れしく咲を抱き寄せた。

 咲は乙女らしい矯羞きょうしゅうを含みながらも、迫る男の胸をやんわりと押し返した。表向きは拒みつつも、決して突き離すことはない思わせぶりな態度である。

「何故私に構うのです。私は所詮卑しい生まれ。同族のお嬢様の方が、余程お気が合いますでしょうに」

「確かに、蘭子さんの気品や美貌は賞賛に値するがね。しかし、彼女は男を立てるということを知らない。気の強い女はほとほと疲れる。私は心休まるひと時が欲しい。そういう君はどうなんだ。私のことをどう思っている」

「それは……」

 咲は鏑木の問いかけに返事を躊躇ためらった。

 酔っ払いの戯言ざれごととはいえ、ここは綾小路伯爵邸の中である。

 彼がここまで大胆な求愛をしてくるからには、もはや蘭子に知られても良いと思っているのかもかもしれない。

 実際、鏑木は咲を自分の愛人とすることを甚だ楽観視していた。

 あとは婚約者である蘭子が許容するかどうかだが、激怒したとしてももう結婚まで一ケ月弱しかない。今更騒ぎ立てて、婚約解消することはあるまいとたかくくっていた。

 例え自分が他所に妾や愛人を持ったとしても、蘭子の妻としての地位が揺らぐことはない。むしろ上流社会では、浮気は男の甲斐性であり、家内の鬱憤うっぷんを晴らす気晴らしみたいなものと割り切るのが常だ。妻も妻で、愛人ごときに目くじらをたてるのは狭量とされている。

 それに蘭子は、伯爵夫人の地位を持っている。

 当主として自ら後継者を選定することができ、例え他の女が鏑木の子を産んだとしても、その子に綾小路家の家督相続権は与えられることはない。蘭子は自分の子、もしくは指名した血縁者に伯爵を継承させれば良いのである。伯爵夫人が、たかが女中風情を恐れる理由はどこにもなかった。

「君は何の心配もいらない。私が蘭子さんにきちんと話してあげるから」

 鏑木は咲を安心させようと、耳もとに優しくささやいた。

 咲は男の胸にそっと寄りかかり、愛おしそうに頬を摺りつけた。

「ええ、全てを鏑木様にお任せしますわ。私の運命は、あなた様の手に」

 そう言うと、鏑木の手を握り、安心したように目を閉じた。



「……」

  二人の仲睦まじい姿を、旧館の二階からじっと見ている影があった。

 咲が鏑木との束の間の逢瀬を終え、花籠を持って旧館に戻ると、階段に思わぬ人影があった。数段上に立っていたのは、紺の浴衣ゆかたに帯を締めただけの寝巻き姿のさくらだった。

 咲を見下ろすさくらの瞳には、言い知れぬ悲しみが浮かんでいた。その目を見ただけで、咲はさくらが今し方の密会を見ていたことを知った。

「先輩……」

 二人はしばし無言のままで見つめ合った。

 やがてさくらは諦めたように首を振り、重い口を開いた。

「……咲、信じたくないけど私は問わなくてはならないわ。いつからなの。鏑木様と相通じるようになったのは」

「……」

「鏑木様はお嬢様の婚約者なのよ。お嬢様に申し訳ないと、主人への重大な裏切りであるとは思わないの。お前がそんな不忠者だったなんて」

「……その不忠者を、殿春でお斬りになりますか」

 今更申し開きをする気もないのか、咲はさくらの顔を真っ直ぐ見据えて静かに言った。そこには、密通に対する後ろめたさは微塵も感じられなかった。

 さくらは大きく溜息をついた。咲を斬るなんて、そんなことは考えたこともなかった。

 彼女は大事な同僚で、可愛い後輩でもある。キクによる鞭打ちという騒動はあったものの、それが原因で辞めることもなく、その後は蘭子に従順かつ職務を忠実にこなしてきた。少なくともさくらはそう信じていた。

 先程の、あまりに大胆すぎる密通を目撃してしまうまでは――。

「斬る、ね……。お嬢様が命じるのならね。そうでないなら、私にお前を斬る権利はないわ」

「でしたら、先輩の懸念は杞憂に終わりますわ。お嬢様も私の想いをお咎めにはならないでしょう」

「何故そう言いきれるの」

「お嬢様は、鏑木様を愛してはいらっしゃいませんもの」

 傲岸不遜な返事に、さくらは思わず声を荒げた。

「口を慎みなさい。……だったら何なの。お前はお嬢様以上に鏑木様を愛しているとでもいうの」

 さくらの問いに、咲は何の迷いもなく頷いた。

「はい。お嬢様よりは千倍も万倍も、あの方を愛しております。世間一般にいう恋愛感情とは違うかもしれませんが……。どうか先輩も、私と鏑木様の幸せを願ってください」

「……」

 さくらは俯き、密かに煩悶はんもんした。

 実際問題、さくらは鏑木と恋愛関係にあるらしい咲を声高に責める気にはなれなかった。何故ならば、自分も先代の主人の慰み者、則ち愛人だったからである。

 一般的な社会観念からいっても、咲が鏑木の妾になることはそう悪い話ではなかった。綾小路家で女中として過ごし、退職後に平凡な会社員の妻となるよりは、華族の愛妾になった方が遥かに良い暮らしができる。強制ではなく、咲自らが望むのであれば尚更だ。身寄りのない彼女にとっては、願ってもない話だろう。

 けれど……本当にそう上手くいくのだろうか。一介の女中が貴人に見初められて想い人となり、一生を愛に包まれ、豊かな生活を約束されて暮らせるのだろうか。

 さくらは純粋に咲のことが心配だった。鏑木が本当に誠実かつ実直な男であるならば、婚約者の使用人に、しかも結婚直前になど手は出さないはずだ。あまりに軽率かつ不誠実な行いに思われた。

 緩くかぶりを振って、さくらは諦めたように言った。

「……わかったわ。私はもう何も言わない。でもお嬢様には知る権利があるわ。今朝のことをこれからご報告します。それで何かご処断があっても、すみやかに従うように」

「そうですか。ではご随意に」

 咲は主人の怒りも怖くないのか、厨房の方へすたすたと歩き出した。さくらはその小さな背中が消えるまでじっと見つめていた。

 

 

 数時間後、蘭子の居室に複数の影があった。

 部屋の主は寝起きのガウン姿のままで、いつものように寝台脇の鏡台に向っていた。

 ピカピカに摩かれて曇り一つない鏡面には、自身のどこか醒めた顔と、扉の前に控えるキクとさくらが写っていた。部屋には重苦しい空気が立ち込め、さくらは悲痛な面持ちで深く項垂うなだれていた。

 さくらは咲に宣言した通りに、咲と鏑木のことを蘭子に報告した。彼らが男女の関係になるとしても、それは蘭子の了承のもとで行われるべきと判断した。

「よくしらせてくれました」

 二人には背を向けたまま、蘭子は落ち着き払った声で言った。

 彼女も鏑木の不実には薄々気づいていたのか、取り乱すことはなかった。

「なんてことでしょうか。お嬢様、このままでは屋敷内の風紀が乱れます。咲に暇を出しましょう」

 キクが声高に進言したが、蘭子は諦めたように力なく首を振った。

「いいえ、暇を出しても同じことよ。男の人の考えることは同じ。惟光様は外に咲を囲うだけでしょう。お父様がそうだったようにね。だったら、まだ監視がきく邸内に置いておいた方がいいわ。……少なくとも妾の婚儀が終わるまでは」

 それを聞いて、さくらは胸が締めつけられるような思いがした。

 平然としていても、主人は婚約者の裏切りに酷く傷ついているに違いないと思った。キクに至っては小刻みに肩を震わせ、咲にまた危害を加えかねないほど激怒していた。

「お嬢様はそれでよろしいのですか。厚顔無恥の卑しい小娘に、鏑木様をたぶらかされて悔しくはございませんのか」

「……とは言っても、人の心はしばれないものよ。それにまだ外部の人間でなくて良かったわ。惟光様も妾の使用人に手をつけておいて、あっさり捨てることはないでしょうし。いずれは正式に咲を妾にしたい旨の申し出があるはず。それを許せば、妾の矜持は保たれます」

「……なんとお寛大な。あの娘が図に乗らねば良いのですが」

「それに、咲には密通以外の別の疑いがあります」

「えっ、疑いとは」

「これが本当なら……彼女は真実が明らかになるまで、この屋敷にとどめておかなくてはなりません」

 蘭子は思いきったように、鏡台の半開きになった引き出しの中から茶封筒を取り出した。

 茶封筒の中から、さらに一枚の便箋が出てくる。

 便箋を開くと、そこには急いで書き殴ったような乱れた字でこう書かれていた。

 

 『野原咲ハ野花ニアラズ ユメマボロシノ花澄ナリ』

 

 蘭子は振り向いて、便箋をキクとさくらに見せた。

「お嬢様、これは……」

 さくらは驚き、紙面に顔を近づけて何度も読み返した。

 蘭子はさくらの表情を注意深く伺いながら、真剣な顔で説明を始めた。

「お前は供をしたから覚えているでしょう。先日、新宿の探偵に妾の血縁者について調査を依頼しました。その報告書の一部です」

「そんな、郵便受けには何もありませんでしたのに。いつの間に……?」

 キクが会話に割って入ってきたのに対し、蘭子は冷静に返した。

「郵便だけが伝達手段ではないわ。これは今朝、妾の部屋に直接届けられました。花澄は妾の異母妹、そして綾小路家の正統な後継者でした。その正体が野原咲だというのです。……さくら、お前はこれをどう思う?」

 暫く沈黙した後、さくらは悄然しょうぜんと顔を上げた。口もとを手で押さえたが、その声は微かに震えていた。

「……そんな。そんな、まさか……。いえ、咲は……もしかしたら、咲はそうなのかもしれません。実は以前、料理人たちが噂しているのを小耳に挟みました。咲は生前の章浩様を知っているようだと。もしかしたら花澄様じゃないかって……。その時は信じませんでしたが、今思えば花澄様と歳も同じ頃ですし、あの子には女中とは思えない気品と教養があります。少なくとも士族並みの教育は受けているようです」

「それに咲には、船橋恭太郎氏という立派な後見人もいるようよ。どうして女中になったのかしらね」

 蘭子は軽く嘆息し、今度はキクに向かって尋ねた。

「キク、お前はどう思う?」

 キクは便箋を眺め下ろしながら、やや興奮気味に蘭子に尋ね返した。

「……お嬢様は咲が花澄だとしたら、どうなさるおつもりなのですか」

「花澄は綾小路の血を分けた唯一の兄弟。争うつもりはありません。そうね、生きているのなら花澄にも妾と同じ権利を与えます。財産分与、それに家督も望むなら譲ってもいいわ。私には『当主の証』もないのだし。第一、この洋人の貌では、綾小路の隆盛は望めないでしょう。華族の身分を捨てて平民に交じり、自由気儘に生きるのも悪くないかも」

「……なりません。そのようなことは、絶対に、絶対になりません」

 キクは怒鳴るように一気に捲し立てた。

「お嬢様、詐欺まがいの報告に惑わされますな。市井の探偵など、ろくな者ではありません。どうせ金目当てに適当なことを書いたに決まっています」

「そうかしら、凄腕の者と聞いたのだけど」

「咲は花澄様ではありません。断じて違います、断じて……。あんな顔ではありません」

「……キク」

 蘭子は、キクの剣幕に気圧されたのか呆気に取られた。

「お嬢様、お信じくださいませ」

 尚も縋りつく勢いのキクに、蘭子はぎゅっと便箋を握りしめた。

「……キク、落ち着きなさい。わかりました。よくわかりました。お前たちはもう下がっていいわ。君塚を呼んでちょうだい。咲以外の使用人全員に下問します」

 そう強く命じると、二人は動揺を滲ませつつも一礼して部屋を出ていった。

「……」

 蘭子は完全に一人になってから、初めてうっすらと笑いを浮かべた。

 白魚のような優美な手は、抑えきれない興奮から微かに震えていた。その先端の爪先は僅かにインクで汚れていた。

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