鏑木の黒い疑惑



 翌日の午前十時少し前、渡利は綾小路伯爵邸の裏口近くへ足を運んだ。

 少し離れた電信柱の影に立って様子を見ていると、伯爵家御用達らしき八百屋や魚屋、肉屋、菓子屋の車が現れた。どの車にも新鮮な食材が積み込んであるらしく、屋号の入った前掛けをした男たちが、車から木箱を降ろしている。

 十時きっかりに裏口が開き、中からほうきを持った制服の少女が出てきた。咲だった。

 彼女は男たちと顔見知りらしく、すぐに彼らを邸内へと引き入れた。

 厨房まで持参した食材を運び、料理人たちがその日の料理に使うものを選んで買い取るようだ。

 店員が全員邸内に入ったのを確認すると、渡利は電信柱から離れ、咲に近づいた。

「咲さん」

 名を呼ぶと、邸内に戻りかけた咲が振り返った。突然現れた見知らぬ男を警戒したのか、箒の柄をぎゅっと握った。

「このお屋敷に勤める咲さんですね。実は少しお伺いしたいことがあるんですが」

「……その前に、あなたがどちら様なのか伺ってもよろしいですか」

 少し棘を含んだ声に、渡利は慌てて名刺を取り出す。

 咲に渡すと彼女は名刺に視線を落とし、はっきりと読み上げた。

「明新社、月刊誌『東京奇譚』記者……渡利公博さんですか」

 自分で名乗るつもりだった渡利は、咲がすらすらと難しい漢字を読んだことに驚いた。

 この国の国民の識字率は欧米諸国に比べれば高いが、華族や士族はいざ知らず、平民のそれも女中になる階層の女は小学校卒業程度で社会に出る。上の女学校、大学まで行って学問を修める女性はほんの僅かだ。女中の仕事は単純な家事労働、元より学は必要ない。

 渡利は未だ十代の、おそらくは平民出身であるはずの咲がどこで教育を受けたのか気になった。

 それでも彼は疑念をおくびにも出さず、飄々と明るく言った。

「実は、今日は取材に来たんです。ここの綾小路伯爵夫人と鏑木男爵が六月にご結婚ということで。朝のお忙しいところ恐縮ですが、お話を伺いたいと思いまして」

 咲はそれに対し、極めて事務的に答えた。

「新聞に発表されたことが全てです。お話することはありません」

 おそらくは記者が来たらそう言うように指導されているのだろう。拒絶は想定内だが、渡利も記者の意地で食い下がる。元より引く気はない。

「いやいや、新聞に書かれたことだけでは、到底説明不足でしょう。何せ社交界一の美男子・鏑木男爵は齢三十五にして四度目のご結婚なんですから。……いやぁ、すごいですよねえ。結婚なんて一生に一度と臨むものじゃないですか。二回、三回ならまだしも四回なんてそうあることじゃない。しかも今度のお相手は華族の中でも大富豪の綾小路家伯爵夫人。全くもって羨ましい限りです」

「……」

 咲は黙ったまま、じっと探るように渡利を見た。

「ですがねえ、どうも怪しいんですよ。咲さんは鏑木男爵の三人の前妻のことはご存知ですか」

「いいえ」

 咲の素っ気ない返事に、渡利はにやりと笑った。

「それが、三人とも離別ではないのですよ。ご不幸というのは続けて起こるもんなんですかね。三人が三人とも死別なんですよ」

「そうですか。それがお嬢様とのご結婚と何か関係があるのでしょうか」

「まぁ、世間話と思って聞いてくださいよ。鏑木男爵は華族でありながら、身分には拘らない方でしてね、過去に娶った妻は全て平民でした。いわゆる自由結婚の先駆者で、そこが男爵の大きな魅力でもあるのでしょうね。

 男爵の一人目の妻は、十三銀行の頭取の跡取り娘・平田有紀子。結婚二年目に自動車事故で死亡しました。元から運転が趣味だったようですが、愛車を走らせている最中に突然民家の塀に突っ込んだんです。しかし、不思議なことに車にはブレーキを踏んだ跡がなかった。結局、警察は彼女の死を自殺として片付けました。

 二人目の妻は九州の炭鉱王の跡取り娘・秋田未藤みふじ。風邪一つ引かない健康な女性だったようですが、結婚後は原因不明の病気で寝ついてしまい半年後に死亡。死に顔は風船のように膨れ上がって真っ黒だったようです。

 三人目の妻は千葉の植松病院の跡取り娘・植松千尋ちひろ。彼女はなんと八カ月後、白昼堂々暴漢に襲われ、めった刺しにされて死亡しています。たまたまその時に別行動していた鏑木男爵は助かりました。夫人を殺した犯人を見た者はおらず、未だに捕まっていない。全くもって不可解な事件だ。ねえ、面白いでしょう」

「……いいえ。とんでもありません。鏑木様のご不幸を思えば胸が痛みます」

「そして、この話には続きがあります。亡くなった妻たちには、全員多額の生命保険がかけられていた。保険金の受取人は夫である鏑木男爵です。また妻が所有していた土地や邸宅、株なども男爵のものになっている。勿論妻たちにも親族がいますし、全部ではありませんがおよそ半分は渡ったようです」

「渡利さん、何が言いたいのです」

「いや、庶民の不粋な詮索ですが、ここまで調べて俺は思いました。これはどこかで聞いたような話であると。『青ひげ』です。仏蘭西フランスのペローの童話ですが知りませんか」

「さあ、存じません」

「とあるところに大金持ちの男がいた。男は自分の財力にものを言わせて美しい女を娶った。暫くすると妻は姿を見せなくなり死んだものとされた。そして男はまた新たな妻を迎え……という話です。さっきの話を聞くだけだと、まるで鏑木男爵はペローの童話に出てくる青ひげのようで」

「馬鹿馬鹿しい。偶然でしょう」

「そうですかね。数年の間に、妻が三人も続けてですよ」

 咲は、渡利に軽蔑の眼差しを向けた。

「鏑木様も災難だわ。あなたたち記者は、人の不幸が大好物。どうせ大袈裟に書き連ねて、雑誌を売りたいだけでしょうに」

 渡利も負けじと咲を見つめ返す。二人の視線が交錯し、見えない火花を散らした。

「それは違う。我々は真実を追求し、それを世間にあまねく知らしめるのが仕事です」

「過激に煽りたいだけの大衆誌に真実などあるものですか」

「鏑木男爵に関わった女性は皆、非業の死を遂げている。それは事実です。……まぁ最後まで聞いて下さいよ。彼が青ひげと決定的に違う点が一つあります。裕福な生まれ育ちではないということです。鏑木家は明治の後期に叙爵されましたが、事業の失敗も相まって没落の一途を辿っていた。生活も華族として体面が保てないところまで困窮していた。ところがここへ来て、鏑木男爵の結婚で一気に盛り返したんです。彼は死んだ妻の財産を手に入れ、贅沢な生活を享受していた」

「……」

「だが、悪夢が訪れた。去年の恐慌です。男爵も肝心なところで詰めが甘いですね。資産をそっくり預けていた十三銀行が倒産し、前妻たちの株は只の紙切れと化してしまったのです。都内に邸宅を幾つも抱えていますが、不動産の維持にも莫大な費用がかかる。余裕ぶっていても、今鏑木家の内情は火の車のはずなんですよ。保険金と遺産で築いた財産を失って窮地に追い込まれている。そこで男爵は、最近家を継いだばかりの綾小路伯爵夫人に目をつけた。世間知らずの彼女を誑かして四度目の結婚を画策し……あいたっ」

 渡利の、一見ひがみと悪意に満ちた推理はそこで中断された。

 咲が箒の柄で渡利の腕をぴしゃりと叩いたからだった。

 咲は怒りに燃える双眸で渡利を睨みつけ、毅然と言い放った。

「渡利さん、男爵様はお嬢様と結婚される御方です。つまり私の主人も同然。これ以上の侮辱は許しません」

「怖いな……意外と気性が激しいんですね。もしや先代の伯爵譲りですか」

「……!」

 そう言った瞬間、咲の顔に僅かに走った動揺を渡利は見逃さなかった。

 咲は足を踏み出し、尚も箒で叩こうとした。渡利はひょいと後ろに飛び退すさる。それを何度も繰り返し、二人の攻防はしばし続いた。

「早々にお引き取り下さい。でなければ人を呼びますよ」

「……参った。今日のところは帰ります。帰りますよ」

 渡利は、諸手もろてを上げて降参する

「それではまた来ますよ。野原咲さん。いや、違うな。これは本当の名じゃない」

「どういう意味です」

「俺はね、既にあなたの正体に見当をつけているのですよ。名刺、確かにお渡ししましたからね。またこちらから伯爵家にお電話しますので。友人からということにしておいてください」

 渡利はポケットから皺くちゃになった影絵芝居のチラシを取り出し、咲に手渡した。

「渡利さん、あなたは一体何を企んでいるのです」

 チラシを見た咲の問いに対し、渡利はひらひらと手を振った。

「ご安心を。俺の目的は記者の使命を逸脱いつだつするものではありません。詳細は今度会う時にお話ししましょう。そうですね、その影絵芝居の初日なんかどうですか。銀座で夜のデートとしゃれこみましょう」

 渡利はそう言いながら、咲に背を向けて一気に走りだしたい気分に駆られた。

 目的を達成できたことが心底嬉しかった。

 

 

 渡利が咲と接触した一週間後のことだった――。

 天皇と最も近しい皇族が住まう、皇居の外堀に男の水死体が浮かんでいるのが発見された。

 駆けつけた警察の調べで判明した男の身元は、海成堂出版社の記者・山田研介だった。

 彼は数日前から無断欠勤を続けており、失踪理由も特に見当たらないことから家族から捜索願が出されていた。

 山田は発見時、死後数日が経過しており、既に腐乱が始まっていた。

 身体には目立った外傷も抵抗した形跡もなかった。警察は事件性は薄いとして、堀に誤って落ちて溺死したと断定した。要するに事故死だった。

 しかし、どうにも不可解なことがあった。

 天皇が住まうとされる皇居周辺の警備は、当然ながら日本一厳重である。

 一年中、三百六十五日、昼夜関係なく武装した皇宮警察が一時間おきに見回っており、許可のない人間は皇居どころか、堀に近づくこともできない。侵入を強行すれば、警告もなく射殺されてしまう。

 それなのに、当日現場近くで山田を見かけた者は一人もいなかった。

 落ちる際の声や水音も聞こえなかった。山田は死後数日経ってから、堀の水底から忽然こつぜんと現れたのである。

 訃報を聞いた渡利は、信じられない気持ちのまま葬儀に参列した。

 山田が時游民じゆうみんについて調べていたことを思い出し、一人戦慄した。

 もしかしたら山田は、奇々怪々の民を追及しすぎて、口封じに殺されたのかもしれなかった。

 なのに、不思議なことに、山田の不可解な死への怒りは何故かいて来なかった。

 彼は完全に死んだのではなく、心が求めるままに謎を追って新天地へ旅立った……そんな気がした。どうしてか、そんな気がしてならなかった。

 

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