汚物A



 その日、咲は蘭子から留守番を申しつけられた。

 女主人の留守中は、使用人にとって最も気楽な時間である。咲も料理人たちも羽根を伸ばすとまではいかないが、のびのびと仕事ができる……はずだった。

 ところが、昼過ぎに蘭子がさくらと共に車に乗って出かけた後、すぐに別の来客があった。

 フォードが出るのを見計らったように、邸内に鏑木のロールスロイスが滑りこんできた。最近、鏑木は蘭子の留守中に綾小路家を訪ねることが増えた。電話をかければ蘭子の予定はすぐわかるはずなのにそうはせず、いつも突然に綾小路邸へやってくる。

 とはいっても、早くも主人づらして屋敷に上がりこみ、使用人をこき使ったりなどはしない。せいぜい茶を飲んだり、読書をしたり、暇潰しに使用人と歓談するくらいで、蘭子の帰宅をのんびり待っている。「要するにお暇なのだ」と皆は笑い、有閑ゆうかん貴族の生活を羨んだが、鏑木は綾小路邸そのものを特別に気にいっているわけではなかった。

 彼の視線は、一人の者に向けられていた。咲である。今や鏑木の一番のお気に入りとなり、訪れるたび指名して話し相手をさせていた。

 彼女は女中にしては教養があり、機知に富んだ会話を心得ていて、鏑木を飽きさせなかった。

 蘭子と鏑木の些細ないさかいの後、咲が鞭打たれたことはあっという間に屋敷中に広まった。皆はそれが蘭子の命令ではなく、キクの横暴であることを理解していたが、話を聞きつけた鏑木は誤解して大いに憤慨し、咲に同情を寄せた。

 咲は咲で終始しおらしい態度で、蘭子に対する不平不満を言わない。

 その痛ましくも健気な様が、余計に鏑木の関心をそそった。

 かたや主人の婚約者、かたや使用人という二人の距離は、ここへ来て急速に縮まりつつあった。

 

 やってきた鏑木は、慣れた足で英国式庭園に面した硝子張りの客間へ入った。もっと暖かくなれば、締め切った硝子戸は常時解放され、テラスに出られるようになる。テラスにテーブルや椅子を出して、花を愛でながら食事や喫茶を楽しむことができる。

 鏑木が肘掛椅子に深く腰かけ、寒々しい庭を見ていると、咲が白塗りで金の野茨の装飾を施したワゴンを押して入ってきた。少し前までは、背中の傷のため咲の動きはぎこちなかったが、最近完治したのか動きは滑らかだった。ワゴンには湯の入ったポットや何種類もの茶葉、菓子類が積まれており、担当の者が給仕する。

 飲茶いんちゃ、それも日本茶ではなく紅茶を飲む習慣は綾小路家ならではだった。客人が来ると、まずは紅茶と洋菓子でもてなすのが長年の習慣である。茶葉も客人の方で都度選ぶことができる。

 鏑木は咲の怪我が気になり、一応にも尋ねた。

「咲、背中の傷はどうなんだね」

 鏑木の優しい声に、咲は薄らと微笑んだ。

「もう癒えました。痛みもありません。鏑木様がくださったお薬のおかげです」

「なら良かった。……全く酷い話だ。私が綾小路家に入った暁には、このような旧態然とした暴力は許さない。約束しよう」

「ええ。ありがとうございます。でも、もう良いのです。私のことで鏑木様と蘭子様が諍うことの方がつろうございますから」

「あくまで主人を庇うか。全く君は使用人の鏡だな」

 鏑木は感心したように呟いた。

 咲はこの話題は終わりとばかりに、茶葉の入った缶を持ち上げて見せた。

「さぁ、鏑木様。今日はどういたしましょうか。外はお寒かったでしょう。お茶で身体を暖めてくださいな」

「何かお勧めのものはあるかい」

「そうですね、大英帝国ブリタニア直輸入の東西融和オリエンタルブレンドなるハーブティーは如何ですか。すっきりした飲み口で、焼き菓子にも合うかと」

 茶葉名を聞いて、鏑木は微苦笑した。

「菓子は結構だ。東西融和、ね。確かにこの家には相応しい銘柄かもしれん。ではそれをいただこうか」

 はいと返事して、咲は件の茶葉の缶を手に取ると手際よく茶を淹れはじめる。

 てきぱきと動く手先を、鏑木はしばし見つめた。やがてカップに注がれた紅茶が、砂糖入れやレモンと共に鏑木の前に置かれた。彼はそれを手に取り、爽やかな香りを楽しんでから一口飲んだ。茶は新種の銘柄ゆえか微かに渋みがあった。

「……少し渋いな」

「お気に召しませんでしたか。でしたら、別のもので淹れ直しますが」

「いや、いただくよ。君が淹れてくれたんだ。無下にはすまい」

 鏑木は咲に向かって目を細め、さらに茶を飲んだ。その様子に咲は感じいったようだった。

「鏑木様は本当にお優しいですね」

「そうかい」

「ええ、とても。私の粗相も許してくださいますし、公明正大で本当に心の広い方だと。夫君に選んだお嬢様の目は確かですわ。屋敷の者も皆そう申しております」

「買いかぶりすぎだ。私はそんなたいした人間じゃない。ただの凡俗の極みさ」

「ご冗談を。鏑木様が凡俗というなら、平民の私は一体何になるのでしょう。地を這う虫けらですか」

 鏑木は黙って庭に視線を移したが、やがて少しぼんやりした目で静かに語り出した。

「君や世間が私を持てはやすのは、私の醜穢しゅうわいな本質を知らないからだ。磨き粉で必死にこすり上げ、裏布を当てて取り繕ったうわつらしか見ていないからだ。『この世は舞台なり。誰もがそこでは一役演じなければならない』とはシェイクスピアの台詞せりふだったか……。その通りだ。私も大日本帝国という舞台の上で踊らされる腐れた道化者にすぎない。……そうだな、役名は『汚物A』とでもしておくか」

「……汚物ですか」

 鏑木の甚だ自虐的な吐露に、咲の声はかすかに震えた。戸惑いを隠せないようだ。

「そうだ。世間でははなはだ善人ぶっていても、その正体は汚泥おでいまみれた虫けら以下だ。特に帝国の上層部に、私の下賎な醜悪さは知れ渡っているだろうよ。彼らは酒のさかな嘲笑あざわらっていることだろう。私の足掻あがきぶりを、苦しみもがく様を」

 そこで、鏑木は一旦言葉を切った。

 ちらりと横目で見た咲の顔は怯えたように引きっていた。鏑木は慌てて笑顔を浮かべた。

「いや、すまない。怖がらせるつもりはなかった。そうだ、他愛もない戯言ざれごとだが一つ問いたい。もし、君がこの世界を二分するとしたらそれは何かね」

「……二分ですか」

「二分だ。難しく考える必要はない。例えば……天と地、男と女、生と死、日常と非日常、東と西、日本と海外、人類とそれ以外でもいい。君は何を以って、世界を分け……何に価値の重きを置く」

「そうですね……」

 咲は少しの間逡巡していたが、やがて鏑木の目を見つめ、はっきり答えた。

「もし世界を二分するなら、私は『美しいもの』と『美しくないもの』ですわ」

 それに鏑木は、ほうっと感嘆の息を洩らした。

「それが……君の世界観に……おける、優劣というわけか」

「ええ、同時に厳格な差別でもあります。美的なものには焦がれますが、私は『美しくないもの』に対しては冷淡です。決して愛護も擁護も致しません」

「また大雑把だな……。個々の美の基準など、所詮主観でしかない。人類の数だけ千差万別だろうに。絶対的価値基準など……決して存在しえまい」

「と言いましても、私は凡人ですからあくまで世間様と同じです。美人、善人、花や木といった自然、崇高な精神。皆が美しいと賛えるものに賛同し、迎合します」

「……そうか。だが、もし人が、どちらかにしか、生まれることができないなら、私は……『美しくないもの』が良い……」

 咲はきょとんとし、意外なことを言い出した鏑木をまじまじと見た。

 鏑木の整った顔立ちや歳に似合わず筋肉で引き締まった身体つきは、誰が見ても平均を上回っている。彼もまた舞違いなく「美しいもの」の部類に入るはずだった。

「どうしてですか。美しいものを嫌がる人はそうそうおりません。美しければ、愛に恵まれる機会が増えるではありませんか。愛されれば愛されるほど、人生は豊かになります」

「それはごく一部の……運の良い者だけだ。……美しいものは、その美しさゆえに際立つ。美貌は他者の欲望の火をあおり、大抵はしいたげられる運命にある……。まだ物事の善悪もわからぬうちから、権力の野卑やひの力にもてあそばれ……身も心も蹂躙されつくす。散々に圧搾あっさくされた挙句あげくに野に打ち捨てられる不幸の原力……それが美の本質だ」

 鏑木の言葉は、幾分迷いながらも経験に裏打ちされたような強い響きがあった。

 鏑木様、と咲は熱っぽく呼んだ。

 誰よりも愛おしげに、誰よりも狂おしげに、目の前で苦悶する男の名を呼んだ。

「鏑木様……。何が、誰がそんなにもあなた様を苦しめるのです。咲は許しません。美しく、お優しいあなた様を苦しめるものが許せません」

「ああ、咲。違うのだ」

「何が違うと仰るのです」

「……私も、幼い頃は清らに美しかったのだよ。天性の美童と持てはやされ、ただ美しいというだけで数々の恩恵をたまわったのだ。父は何の才もない暗愚な人だったから、私こそが唯一の人に誇れる財産だった。父は……朝晩と言葉を尽くして私を褒めそやし、やがて私を高貴な人々が集う『お遊戯会』へ連れ出すようになった……。そこにつどっていた男女は皆、仮面を被ったり、扇で顔を隠していて、やはり私の美を持てはやした……。私は人々に甘やかされて有頂天になり、意味もわからないまま彼らの寵愛を一身に受けた。父は……いつの間にか姿を消していた。私はその後も頻繁に『お遊戯会』に招かれた。皆が私を愛した。私はけがされているとも知らず幸福だった……」

「……」

 幸福と言いつつも、鏑木の声音には明らかに不穏な気配があった。

 咲はあえて返答を避け、注意深く次の言葉を待った。しばらくして鏑木は呻くように言った。

「だが……数年の時を経て……突きつけられた現実は残酷だった。とうを過ぎた頃、私は唐突に気づいた。私を愛していた者は手の平を返すように冷淡になり、新たに供給された幼い遊び道具へ心を移した……。私は既に、彼らの忌まわしい美の基準から外れていた……。要するに天使の無性と若さを失い、少年へ、男へ成りつつあった……。私は『美しくないもの』たちの、数限りない……愚かな玩具に過ぎなかった。やがては『お遊戯会』にも呼ばれなくなった。呆気なくてられて、家も見放された……」

 時間をかけ、いっそ泣きそうな声で吐露された過去を、咲は黙ったまま聞いた。

 彼が幼少時に受けた辱しめの数々に怒りをあらわにするわけでもなく、同情を寄せるわけでもなく、ただ目の前の男を静かに見守っていた。

 鏑木は座ったまま縋るように咲を見上げた。

「……だからだ。誰かが『美しいもの』を賛美し、焦がれるのを聞くと、気持ちが一気に冷めてしまう……。人々が愛でる美を……雄叫びをあげて粉砕したくなる」

 咲はそこでやっと慰めの言葉を口にした。

「鏑木様、申し訳ありません。私の愚見ぐけんがあなた様を傷つけてしまったのですね」

「違う。謝ることはない。これは、私的な感情だ……」

 鏑木の左手が伸びてきて、咲の小さな手に絡まった。

「咲、お願いだ。これからも私の傍にいておくれ。私を末長く慰めておくれ……」

「はい。私にできることでしたらなんなりと」

 咲は力強く頷き、男の震える指先をしっかと握り返した。

「君は不思議な女だ……。生まれも育ちも重なる部分は何一つないはずなのに、同じ鼓動、熱い魂を感じる。その声は慰撫いぶの力がある。君は私の全てを肯定し、許し、受け入れてくれる。私は確かに『美』を憎んでいるが、それはおそらく父や家名に対してできる唯一の復讐だからだ……。本当に、どこまでも卑小で醜い……汚物なのだ……」

 咲は鏑木に身を寄せ、その肩を両手で抱いた。

「鏑木様は、かつてお家とご家族のために存分に献身なさいました。ですから、もう楽になさってください。どうぞお楽に……」

 男を守るように抱きしめると、咲は祈るように天井を仰ぎ、やがて目を閉じた。

 もはや何も聞こえなかった。鏑木の声以外は何も聞こえなかった。

 間違いなかった。彼女は、確かに

 広大な邸内の、その空虚な広大さゆえか、客間で寄り添う二つの影に気づく者はいなかった。

 

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