魔窟の罠



 その日は、珍しく綾小路邸に客人があった。

 一階の、主に身分が下の者と会う謁見用の客間にて、蘭子はうやうやしく差し出された報告書を渋い顔で眺めていた。

 報告書の中身は、彼女が現在行方を追っている異母妹いもうとの花澄のことだった。

 約五年前の火事以来、行方不明になっている花澄を蘭子自身も探していた。

 人探しを生業なりわいとする調査会社に依頼し、一カ月以上探させたのだが、成果はかんばしくなかった。

 そして、本日届いた、一縷いちるの望みを託した最後の報告書には、日々の諜報活動が詳細に記されていたものの、結論をいえば「該当者の生死、及び所在は不明」で終わっていた。その一字一句をくり返し読み、蘭子はひどく落胆した。

 客間は人払いがしてあり、白の大理石のテーブル越しに細身の中年男が縮こまっている。七三分けにした髪にポマードがべったりとはりつき、てらてらと光っている。今回、蘭子が内密に調査を依頼した私立探偵の木村だった。彼は四谷区新宿で探偵事務所を営んでいる。平民だが、元は警察にいたとのことだった。

 蘭子は、新聞で探偵社の広告を見て木村に直接連絡をとった。調査の依頼を、キクを始めとした使用人たちに命じることはなかった。キクに知られるということは、すなわち藤堂家に筒抜けになるということである。蘭子は花澄を探していることを、伯父の忠次らには知られたくなかった。花澄が綾小路家の正統な後継者と目されていた以上、藤堂家が花澄の生還及び帰還を歓迎するはずがない。捜索していることを知られれば、妨害される恐れがあった。

 平民の、それも胡散うさんらしい職業の探偵を呼ぶのは抵抗があったが、結局、蘭子は自身の矜持を保つことよりも花澄の捜索を優先することにした。これは極めて狭い世界で生きてきた彼女にとって、大きな前進であった。

「何の成果もなく申し訳ありません。池袋の旧宅周辺でも聞き込みをしたのですが、なにぶん雲を掴むような話でして……」

 木村は不満顔の蘭子にしきりに恐縮し、両手に膝を置いて深々と頭を下げた。

 伯爵夫人の怒りを買うことを畏れているようである。

 だが、蘭子も萎縮する木村を無能と責める気にはなれなかった。

 花澄は、それこそ失踪当時に父が血眼ちまなこになって探し回ったはずだった。警察のみならず、木村のような民間の探偵にも依頼しただろう。

 それなのに花澄は足跡一つ、着物の切れ端一つ見つからないまま、煙のように消え失せた。

 今になって蘭子が探したとしても、新たな手掛かりが見つかる可能性は低い。

 無駄足だったかと思えば残念しきりだが、他の手を考えるしかあるまい。

 蘭子自身も不思議だった。どうしてこんなにも異母妹に固執するのか、自分でもよくわからなかった。肉親の情で会いたいのはやまやまだが、それ以上に意地になっている部分もあった。父が生前しえなかったことを、当てつけのようにやり遂げたいのかもしれない。

 でも……花澄に会えたとして、その後は一体どうなるのだろう。

 改めて家督を巡っての骨肉の争いか。それとも自分が身を引き、全ての権利を花澄に移譲すべきか。蘭子の内には、唯一の肉親を巡る期待とも不安ともつかない複雑な感情が渦を巻いていた。

 木村はおどおどしつつも、じっと依頼者の許しを待っている。

 男の視線が絡みつくのを感じて、蘭子もこの場は潔く諦めることにした。

「……よくわかりました。ご苦労様でした。こちらの希望は叶いませんでしたが、調査料は規定通りお支払いします。後で屋敷の者に代金を届けさせましょう。では、妾はこれにて」

 毅然としつつも、やはり憂鬱な色は隠せないまま、蘭子は報告書を持って立ち上がった。

 木村は何を思ったか、部屋を出て行こうとする華奢な背に向かって、遠慮がちに呼びかけた。

「伯爵夫人、お待ちください。あの、今回のことは誠に残念でした。その、償いというわけではないのですが、お望みならば……別の伝手つてをご紹介することも可能です。ただし、私どもの管轄ではないゆえ、直接のご案内はできないのですが」

 蘭子は、楚々そそと歩み出した足を止めて振り返った。

 花澄を探し出す手段は、現時点では万策尽きている。ならば、どんな些細な情報であっても耳を傾けるべきだろう。

「伝手……。それはなんでしょう」

「実は新宿に、裏世界に深い根を張る者がおります。根とは情報のあみという意味です。そこは表向きは人材斡旋あっせん業を謳っておりますが、『顧客の望む人材を探してくる』という意味で伯爵夫人のご期待に沿うかもしれません。ですが、場所が場所だけに難しい連中でして……夫人のご威光をってしても従うかどうか」

「……委細を聞きましょうか」

 木村の言うことに興味を覚え、蘭子はひらりと身をひるがした。

 元いた椅子へ再び腰かけると、木村も身を乗りだしてきた。

「まず第一にその斡旋所への依頼ですが、代理人を立てることはできません。新宿の事務所には、依頼人本人が直接出向く必要があります」

 木村は蘭子にずいっと顔を寄せてきた。ポマードの香りがツンと鼻をついたが、男の低く怪しい囁きに蘭子は耳をそばだてた。

  

  

 木村が帰った後、蘭子は二階の自室で暫く思案した。

 それから、何を思いついたのか衣装係のさくらを呼び出した。

 明後日の外出の供をするように命じると、さくらは素直に「はい」と答えた。

 その外出が屋敷の車を使わないお忍びのもので、しかも行先が新宿と知ると彼女は怪訝そうに眉を顰めた。

「新宿……ですか。お買い物でしたら、丸の内界隈で間に合うように思いますが」

 何故、遊戯場ゆうぎばの色濃い新宿などに行きたいのかと言いたげである。

 蘭子は、さくらの清冽な瞳を見つめた。

 彼女のことは、常々誠実で聡明な使用人と思っている。

 だが、ここで本当の理由である花澄のことを話す気にはなれなかった。使用人同士の噂話から薄々勘付いているとしても、身内の、それも過去の醜聞じみた話を聞かせたくない。新宿へは、あくまで「私的な用事」ということにして押し切りたかった。

 かといって、運転手付きの車を使わずに、木村が紹介してくれた新宿某所へ一人で辿りつける自信はない。蘭子はこれまで屋敷の外に一人で出たことがなかった。公共の交通手段もよくわからないし、当然バスや電車、タクシーに乗ったこともない。

 世間は治安が乱れ、何かと物騒だと聞く。昼間であっても誰かに供をさせるべきと考え、そして選んだのが士族で武芸の心得があるさくらだった。

「訳あって詳細は話せないけれど、屋敷の者には知られずに新宿へ行きたいの。手段は問わないわ。妾を、ここへ連れていってちょうだい」

 落ち着いた、しかし有無を言わせぬ声で、蘭子は木村が書きつけたメモをさくらに見せた。そこには件の人材斡旋所の住所や営業時間が書いてあった。

 さくらはメモを読んで、目を丸くした。

「新宿二丁目十二番地……。えっ、二丁目とは一体……。お嬢様、ここは新宿遊郭ではありませんか。娼家に御用があるのですか」

「違うわ。別件です。……そう、ここは新宿遊郭というのね」

 聞き慣れぬ単語を、蘭子は重々しく繰り返した。

 遊郭という場所は漠然とだが知っている。卑しい身分の女が、金銭と引き換えに春をひさぐ色街だ。娼婦たちは高貴な身分に生まれた蘭子が、その生涯で決して交わらぬ人種でもある。

 さくらは血相を変えて、何度も首を横に振った。

「別件だとしても、こんな卑俗なところへ行ってはなりません。お嬢様のような方は、決して足を踏み入れてはならないところです」

 さくらは蘭子よりもより詳しく、新宿遊郭の知識があった。

 立ち入りを禁じられている場所という意味で、当代の婦女子たちの常識でもあった。

 江戸時代は内藤新宿という宿場町であり、各々おのおのの宿に飯盛り女の名目で娼婦が常駐し、明治を経て一大遊郭となった。新宿の二丁目といえば新宿遊郭のことを指し、今や震災で焼けた吉原や洲崎すざきをしのぐ勢いの公娼街である。

 こういう色街の常で、女たちを搾取さくしゅする闇はどこまでも深い。官許を受けた店ばかりでなく、非合法の私娼も多くいると聞く。また女たちを逃がさぬよう、客の横暴を防ぐためにも多勢おおぜいのならず者が雇われているはずだった。堅気かたぎの女性は決して立ち入らないところに、どうして主人を案内できるのだろう。

「お前は新宿遊郭に行ったことがあるの」

 蘭子が何げなく尋ねると、さくらはとんでもないとばかりに一際強く首を振った。

「いいえ。ですが私の実家の近くにも、向島の玉の井という私娼窟がありますから。大体どういうところかは想像がつきます。貸座敷やカフェーが軒を連ね、夜ともなれば客の呼び込みでやかましいでしょう」

「そう。でも娼妓たちの商売は夜からなのでしょう。妾たちは昼間に行くのだから、そう気負わずとも大丈夫ではないかしら」

 と、わざと世間知らずに呑気ぶってみるが、さくらの顔は険しいままだ。

「同じ女人である以上、一見の冷やかしとも見なされません。かの地はヤクザ者が牛耳っているとも聞きます。もし御身に危険が及びでもしたら……」

「お前は心配性ね。何も娼妓をさらいにいくわけではないわ。ただ目的の場所が歓楽街にあるというだけよ」

「ですが、お嬢様。本当に危険なところなのです。どうかお考え直しください」

「それは承知できないわ。妾が直接おもむかなければならないのです」

「お嬢様……」

 その後もさくらは「ご身分」「お立場」「伯爵夫人ともあろう方が」と何度も連呼し説得を試みたが、蘭子は曖昧に笑うだけでそれらを受け流した。

 人材斡旋所が遊郭の中に位置すると知った以上、そういった諌言かんげんは想定内であったし、実は我が身の自由を縛る「大層な身分」とやらも、現実には抜け道があることを知っていた。

 実際、父の章浩は深川の芸者と遊んでねんごろになり、外に家庭を持っていたのだ。伯爵という地位が、彼の遊行を妨げるに及ばなかったことをかんがみれば、自分の希望に格別の無理があるとは思えない。

 何を言っても諦める気配のない主人に、さくらもとうとう折れた。

「……わかりました。お嬢様がそこまでと仰るなら二丁目に参りましょう。ですが、万が一のこともあります。『殿春』の帯刀をお許しください」

「お前の半身刀ね。あんな長物を持ち歩くのは難儀ではなくて」

「それでも刃物ですから、いざという時に威嚇や牽制になります」

 そう言うと、さくらは深々と息をついた。内心では、困った主人だと思っているのだろう。

 反対に、蘭子は明後日のお忍びに胸が高揚するのを感じた。

 遊郭という言葉の響きには後ろ暗いものを感じるが、同時に好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。さくらが切々と語った注意の数々も、初めての冒険の前にはいましめの効果を持たなかった。

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