新宿遊郭



 正午を少し回った頃、蘭子とさくらは綾小路邸を出発した。

 とはいっても、まさか屋敷の者に「新宿二丁目に行く」などとは言えない。

 さくらでさえ説得には時間を要した。キクが知ったら猛反対するだろうし、その後の騒動を思うだけで蘭子はげんなりした。

 彼女は面倒だが、回り道をすることにした。

 一旦は平松が運転するフォードに乗りこみ、買い物と称して銀座の三越に乗りつけさせた。百貨店近くで待機しようとする平松を、なんのかんのと言って車ごと先に帰し、そこから二人は円タクに乗り替えた。

 さくらが「新宿遊郭まで」と行先を告げると、運転手は不思議がった。

 どう見ても二人はその道の玄人くろうとや遊郭関係者には見えなかったからである。蘭子に至っては、外見のままに西洋人、それも上等な身なりから外交官夫人かと思ったようだった。

 言われるがままに車を出し、一応は新宿方面に向かいながらも、運転手は「なんでまた二丁目なんかに……。観光地じゃなし、夫人にお見せできるようなところじゃありゃせん。あすこは特に堅気さんを嫌がりやす。男女で行っても、水をかけられるところですんに」と、何度も思いとどまるよう言った。

 男性客ならまだしも、遊郭に女性客を連れていくなんて初めてだともぼやいた。

 運転手の忠告に、さくらは相槌を打ちながら内心深く同意した。これで考え直してくださればと蘭子の横顔を伺ったが、蘭子は黙ったまま車外を眺めるばかりで、会話には入ってこない。周囲がしきりに止めるので、もはや意地になってしまっているのかもしれない。さくらは蘭子に気取られぬよう、密かに溜息をついた。只でさえ目立つ容姿の主人を、何事もなく目的地まで導ける自信がなかった。

 蘭子も、彼女なりに今回のお忍びの準備はした。

 さくらに目立たない恰好をと言われて、懸命に考え、自分が持つ一番地味な服を着てきた。襟元にフリルがついた白のブラウスに、紺のロングスカート、その上に黒の短い外套を羽織り、髪は結い上げて灰色のフェルト帽の中に押し込んでいる。化粧はせず、高価な装身具も一切身につけていない。依頼のための資料や革財布は小さな鰐革わにがわ手革鞄ハンドバッグに入れてきた。

 しかし、その地味に見えて上品な装いが、返って彼女の絢爛な美貌を引き立たせていた。黙っていても滲み出る貴人の風格が、彼女の身分を周囲に知らしめてしまう。

 つまり、お忍びであるはずなのに、全くと言っていいほど忍べていなかった。さくらは、自分の私服を着て貰えば良かったと後悔したが、そうしたとしても長身の蘭子には服のサイズが合わなかっただろう。

 さくらの恰好はというと、こちらは従者らしく、いつもの制服の上に同じく支給されたケープの外套を羽織り、帯刀用の革のベルトを背負ってたすきがけにしていた。

 ベルトは胸の前で金具で止めるように出来ており、背中の部分は筒状になっていてそこに薙刀「殿春」を差している。帯刀する時は、殿春の刃の部分に革ベルトとチェーンで繋がった黒の穂鞘ほざやが装着され、人やものを傷つけることはない。これは武器によって形状が異なるが、士族が市中を歩く際の典型的な格好だった。いざという時、さくらは背中の殿春を抜き放って敵と対峙する。

 人のいい運転手の説得も効を奏さず、とうとう円タクは山の手を横断して新宿の靖国通りに入り、二丁目の入口である仲通りの手前で停まった。

 遊郭は特殊な場所なため、車でこれ以上は入れない。蘭子とさくらは礼を言って、車を降りた。ここからは徒歩で例の紹介された人材斡旋所まで行かねばならないようだ。長居したくないところなのか、タクシーはすぐに走り去った。

 遊郭に入る前に、さくらは念のため近くの煙草屋で地図を買い求めた。

 遊客用に売られているとおぼしき地図は、妓楼や料亭の名前は大々的に載っているものの、人材斡旋所の文字は見当たらない。目指す先、十二番地は仲通りを進んだ先にあるようだ。

 蘭子は無知ゆえか、あっけらかんとして通りの先を見つめている。ここまで来て、引き返すという選択枝はなさそうだ。行くしかないと覚悟を決め、さくらは遊郭内に足を踏み入れた。

 

 そこは一種、異様な街だった。

 新宿遊郭を東西に二分する仲通りに入ると、まずは寄席や雑貨屋、美容院らがあり、少し進むと遊郭の独特な建築群が見えてきた。軒を連ねた妓楼は、多くが二階建ての日本家屋で、通りに面した大きな窓には全て面格子めんごうしめられており、屋根や格子のいたるところが赤で塗られている。赤は興奮色である。

 ところが伝統的な大店おおだなを過ぎると、その隣りは瑞々しい水色のタイルを張詰めた現代風な外装のカフェーだった。建物の角は太い円柱が立って丸くなっており、二階に広いバルコニーを備えている。かと思うと、中華風で入り口に安っぽい珊瑚さんごを飾り立てた竜宮城のような妓楼もある。何げなく上を見れば、屋根の上にでんと鎮座しているのは、ペンキの禿げた半裸の天女像と名古屋城にあるような金のしゃちほこだった。竜宮城を過ぎれば、西洋の城のような塔があり、また面格子の木造の妓楼がある。

 他にもエセ和洋折衷わようせっちゅうというのか擬洋風建築というのか、遊客の目を引くためにけばけばしく彩色され、をてらった建物がごちゃごちゃとひしめいている。軒先にぶら下がっている灯りも、丸い軒灯だったり、ずらりと隙間なく並べられた赤い提灯だったり、ランタンだったりとまるで統一性がない。全ての店が存在を主張するあまり、ひどく派手でちぐはぐなのだが、その色彩はどこまでも明るく軽妙で、愛嬌すら感じさせる。

 蘭子は遊郭の摩訶不思議な、奇天烈きてれつとも言える景観に目を見開いた。

 こんな景色は初めて見たし、日本であって日本ではないような、まるで異世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。今は昼間なのでそうでもないが、夜ともなれば一層妖しく幻想的な光景になると思われた。ここは卑猥雑多な夢の世界なのだ。遊客はここで世知辛い現世を忘れ、娼妓の肌に癒され、ひと時の夢を見る。

 

 通り過ぎた店の前には、商売前なのか化粧気のない女が数人立っていた。

 大抵は少女と言ってもいい若い女と、現役なのかそれとも客と娼妓の仲介をする遣手やりてなのかの中年女の組合せで、彼女らは蘭子やさくらを見て一様にぎょっとした。

 明らかに住まう世界が違う堅気の女が、何をしにか遊郭へ入ってきた。二人連れだが刀を背負った士族の女を従えているからには、もう一人は貴人に違いない。興味本位から物見遊山に来たのなら、あまりに悪趣味な行為だった。

 嫌だ嫌だとばかりに顔を背ける者、手で追い払う仕草をする者、憎々しげに睨みつけてくる者もいて、先を行くさくらはひやひやする。女たちに呼ばれたのか、用心棒風の人相の悪い男や、カフェーの店主らしき恰幅のいい主人も店から顔を覗かせた。

 男たちを見て、さくらは足を速めた。元来、素人が迷い込むような場所ではないのだ。彼らに見咎められ、追い出される前に、目的地に辿りつかねばならない。

「お嬢様、決して私の傍を離れないでくださいね」

 ええ、と蘭子は物珍しそうに色街を見渡しながら答えた。その呑気な声に、さくらは胃がきりりと痛んだ。

 ただでさえ自分たちは目立つのに、主人の蘭子ときたら、市井における己の価値を全く理解していないようだった。物騒、危険と聞かされていても、実際そういう目に遭ったことがないので実感が伴わないに違いない。

 大体、蘭子がまとっているのは外套にしたって最高級のカシミヤである。帽子一つ、衣類一つとっても売ったり、質屋に入れればまとまった金になる。女だけなのをいいことに、剥ぎ取ってやろうと思う輩が出てもおかしくない。

「さくら、あの者たちは皆娼妓なの。随分と若いのね」

「賤民です。目を合わせてはなりません」

 と言いつつも、さくらに娼婦たちを蔑む気持ちはなかった。皆無ではないだろうが、自由意思で身を売る女は極めて少ないことを知っていた。

 女たちの多くは親兄弟に売られ、前借り金に縛られ、年季が明けるまではここを抜けだすことができないのだ。さくらにとって遊郭とは、一歩間違えば自分が沈んだかもしれない世界だった。

「……不思議だわ。売春以外の仕事にはつけないのかしら」

 同情でも侮蔑でもなく、蘭子は素朴な疑問を口にした。

 賤民とは、人間扱いされない牛馬のような最下層の人種と聞いた。上流社会では直に見るのも、口を利くのも穢らわしいとされている。

 しかし、蘭子の目には彼女たちは少し違って見えた。身なりこそ貧しいが、自分となんら変わらない同じ人間のように思えた。噂で聞くことと、実際自分の目で見て感じるのとは大違いだ。見もしないで、自分はこれまで身分が低いというだけで平民以下の者たちを勝手に蔑み、差別してきた。そのことが急に恥ずかしく思えてきた。

 さくらが、どこか苦しそうに答えた。

「……この世には、身をひさぐことでしか生きてゆけない者たちがおります。昨年の大恐慌で、農村では多くの娘が売られたと聞きました。それは、決して彼女たちの意思ではないでしょう」

「そう……哀れなことね」

 何げなく言ってから、蘭子はハッとした。これは失言だったかもしれない。父の継室けいしつにも妾にもなれず、使用人のままで虐げられた娘を彼女は気遣った。

「さくら、お前のことではないのよ」

「わかっております」

 蘭子の詫びるような口ぶりに、さくらは前を向いたまま少しだけ唇を上向きに反らせた。わかっていた。主人に悪気はなく、そして自分がかつて章浩から受けた悲しい搾取にも関係ない。

 

 仲通りの大分奥まで来て、さくらは一旦足を止めた。

 木村のメモと地図を照らし合わせれば、確かに十二番地に来ているのだが、該当するような建物が見当たらない。メモには「レンガ造り、ツタ」と書かれている。

 一本奥の通りだろうかと路地裏に入っていくと、木材が積み上げてあり通り抜けできなくなっている。

 木材の脇にまた小径こみちがあり入っていくと、前方から着物姿の子供が歩いてくるのが見えた。

 まだ十歳くらいの少女で、薄手の着物は幾つも継ぎが当たり、襟足えりあしは垢で汚れている。

 肩ほどまである髪はゴムで縛っており、裸足に男物の大きな下駄を引っかけて、歩くたびカラカラと音を立てていた。

 さすがにこんな幼い娘が娼妓であるとは思えなかった。遊郭近隣の住民の子だろうか。

 道を聞いてみようとさくらが思った瞬間、少女は蘭子たちに気づき怯えたように足を止めた。

 蘭子の顔をまじまじと見つめた後、少女はくるりときびすを返して逃げるように駆け去った。

 自分の洋人の貌を怖がったのだろうかと思うと、蘭子は切なくなった。

 しばらくいくと、再び開けた通りに出て、正面に煉瓦造りの赤い建物が見えた。

「あれではないかしら」

 と蘭子が言う。メモの特徴と合致しているようだ。

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