明夢と時游民
三月初旬の、一月並みに冷え込む夜だった。
渡利が待ち合わせ場所である新橋駅近くのおでん屋に入ると、山田は既に来ていて
やがて渡利は本題に入ることにした。山田に対し、遠回しに腹の探り合いをしたところで時間の無駄だ。ネタを得るなら直球だ。
「なあ、山田さん。そういえば、あんたも綾小路家を追っかけてただろう。何か
渡利のどこか弱気な問いに、山田は始め愉快そうに声をあげて笑った。
「なんだよ、もうどん詰まったのか。ネタを盗もうたってそうはいかねえぞ」
「違う。俺は伯爵夫人じゃなく鏑木の方に切り替えたんだ。どうもあっちの方がきな臭いんでな」
「そうか、俺もだ」
「えっ」
山田の意外な返事に、渡利はぎょっとした。
山田はぬるくなった酒をぐいっと
「といっても鏑木じゃない。俺が追っているのは、五年前から行方不明になっている蘭子の
「……花澄」
「綾小路章浩の妾の子で伯爵夫人の異母妹だ。ちょっと調べりゃ名前くらいはすぐにわかる。この娘の周辺がどうも奇妙なことばっかりでなぁ。記者の血が
「異母妹ねえ……。鏑木とは関係なさそうだな。一体、何が奇妙なんだ」
「おかしいんだよ。新聞も雑誌も蘭子の出生疑惑に関してはガンガンやってるだろ。けど、異母妹についてはどこもだんまりだ。花澄は綾小路家の後継者と
「……そう言えばそうだな」
渡利も相槌を打った。山田はやや得意気にしゃべり始めた。
「お前だから教えてやるよ。まずは不可解な殺人事件からだ。今から五年前、八六年の今くらい……三月のことだ。章浩が偽名で借りていた池袋の別宅で火事が起きた。家は全焼してしまい、焼け跡から女の死体が二つ出てきた。それは章浩の妾と住み込みの女中と判断された。ところがな、当時の調べじゃ女たちの死因は焼死ではないんだな」
「というと?」
「念のため解剖して調べたら、ガイシャの気道や肺は至極綺麗なもんだった。煙を吸って気を失ったわけじゃなかった。その上、二人共胸に深い刺し傷があった。どちらとも的確に心臓を一突きだ。こうだな」
山田は、渡利の胸に、えいやっと刀で刺すような振りをした。
渡利もノリ良く、胸を押さえて痛がってみせた。
「刺し傷……つまり、女たちは殺されたんだな」
「そういうことだ。そして、当時十一歳だった花澄だが、焼け跡から子供の遺体は見つからなかった。母親と女中を殺した輩に、身代金目的で誘拐された可能性はあった。父親は華族で大富豪だからな。人質としての価値は充分だ。だがその後、章浩の元にそういった脅迫は一切来ていない。花澄は火事の日を境にして煙のように消えちまった。今現在も生きてるのか死んでるのかわからん」
「で、あんたは花澄の生死を調べてるのか」
「なんとなく気になってな。そもそも花澄の母親は……。いや、これはまだ確信はしていないんだが……」
「なんだ。章浩の妾だったという女か」
「そうだ。花澄の母親は、『明らかな夢』と書いて
「おいおい、特殊嗜好ってのはなんだ」
色めいた響きに、渡利の声は思わず弾んだ。これは面白いことになりそうだとわくわくしたが、山田は至極真面目な顔のまま言った。
「大きな声じゃ言えんが、先天的不具者だよ。明夢には生まれつき舌がなかったらしい。当然まともに口も利けないが、世の中にはそういうのばかりを特に好む連中もいる。まあ、それはいい。舌の有無なんて外見上はわからないしな。章浩を変態紳士と断ずる気はないさ。
それで、俺は明夢が籍を置いていた深川の『あきはし』という芸者置屋に行ってみた。老いて隠居した元女将が出てきたんだが、どうもおかしなことを言うんだな。明夢が殺されて、警察も当初は殺人と放火の線で捜査を始めた。置屋にも刑事が聞き込みに来て、女将は明夢が置屋に売られてきた時に持っていた戸籍証書を見せた。ところが証書は本物じゃなかった。偽物だったんだが、調べても彼女に該当する子女は見つからなかった。最初から戸籍なんてなかったんだ。明夢という女は、元からこの国に存在しなかった」
「私生児だったんじゃないか。なんらかの理由で役所に届出できなかったんだろう」
「俺もそう考えたさ。ところが、明夢の戸籍が存在しないことがわかると警察は突然殺人事件の捜査を打ち切った。それどころか置屋に残っていた明夢の写真や、私物を全て没収して持ち去った。女将が抗議すると、明夢が写っているところだけ写真を切り取って返すほどの徹底ぶりだった。解剖を終えた明夢の遺体も戻ってこなかった。報道も三行記事で片付けられた。家が燃えて女二人が死んで、しかも綾小路家の跡取り娘が失踪したんだぜ。信じられん扱いだ」
「そりゃ変だな。なんらかの圧力があって、明夢に関して隠蔽工作が行われたとしか思えない……」
渡利が冷静に指摘すると、山田の声が急に怯えたように
「……なあ、渡利。変なこと聞くけどな。お前は『
「時游民……」
渡利は、はてと首を傾げた。大日本帝国の身分制度は、天皇を頂点として、皇族、華族、士族、平民。そして公にはなっていないものの、平民の下に万量賤民と呼ばれる最下層の貧民が存在する。賤民たちはいわゆる社会のあぶれ者で、平民から転落した者、乞食や犯罪者、娼婦、身売りを兼ねた旅芸人なども含まれる。
だが、「時游民」とは初めて聞く名称だ。
「なんだそれは。聞いたことがない。任侠者のことか」
「違う。ヤクザなんてチンケなもんじゃない。もっと深くて暗くて
奴らはどの時代に置いても『存在しながら、決して存在し得ない者』だ。
「別世界へ行き来……」
そこで渡利は、とあることを思い出した。確か最近、似たような話を聞いた気がする。
上司の大木戸が話していた、芥川龍之介の臨死体験であることを思い出すと、全身から一気に力が抜けた。自殺を図った芥川が、いつの間にか異世界に行ってもう一人の自分に体面したという話。しかし、あれはあくまで小説家が考えた小説の筋書きである。
渡利は、山田の肩に手を置いて軽く揺さぶった。
「おい、山田さん。あんた酔ってるだろ」
「酔ってねえよ」
むきになって言い返す山田に、渡利はわざとらしく溜息をついてみせた。
「確かに、歴史の裏側にはそういう『草の者』は存在しただろうよ。伊賀甲賀の忍者とかな。だけど特殊能力、別世界に行ける、そんなふざけたこと信じられるか。うちのオカルト記事じゃないんだからさ……。第一、二千年以上も表沙汰にならない民ってなんなんだ。お上が感知しないはずがないだろう」
「それだが、奴らはいつの時代も権力者と密接に繋がっていた。暗殺集団、間者、お前が言う忍者とやらも、時游民の傍流なのかもしれん。時游民は権力者のために力を貸し、権力者は見返りに彼らを
唾を飛ばしながら、尚も山田は熱っぽく語った。
渡利は内心、ネタを得るための話が完全にオカルトになってしまったことを嘆いた。
まさかこんな斜め上のトンチキな方向へ行くとは思わなかった。山田のことを現実主義者と思っていたので、落胆を禁じ得ない。
「山田さん、落ち着いてくれよ。存在しない者をお上が隠匿するなら、なんであんたはそれを知ってるんだ」
「時游民たちも一枚岩じゃないからだ。奴らの中にも、時々狂人が出る。頭がイカレて、自分たちのことをうっかりしゃべっちまう奴がな。俺たちから見ても只の狂人にしか見えないが、色んな時代に同じことをしゃべる人間が出てくると多少は信憑性が出て来る。じゃあこいつの話を書き留めておこうとなって、各地の伝説・伝承になる」
「……いやあ、参ったなあ。怪奇小説の筋書きなら面白いけどなあ。五年前の事件の報道に関しては、綾小路家が新聞社を買収した線もあるだろうに」
渡利に真っ向から否定されて、山田は少し怒ったように言った。
「馬鹿野郎、小説なんかじゃない。時游民くんだりは、じいさんからガキの時分に聞いたことだ。子供騙しの怪談だと思っていたが、今なら信じられる。綾小路家は、明夢を通して時游民の連中と繋がっていた。が、母子はなんらかの陰謀に巻き込まれて殺された。いや、違うんだ渡利。もう俺の興味は花澄よりも時游民の謎そのものに移っている。綾小路家は只のとっかかりに過ぎない」
「……大丈夫なのか、あんたの言うことが本当なら、奴らは国家権力と繋がってるんだろ。危なすぎる橋じゃないのか」
しかし、山田はどこから湧いてくるのか妙に自信たっぷりに答えた。
「大丈夫だ。賤民だが、信頼できる情報屋にスジをつけた。上手くいけば近いうちに時游民に接触できるかもしれない。まあ、お上には逆らわん主義だ。記事にはできないだろうが、お前には見聞きしたことを話してやるよ」
「そうかい……。そりゃ酒の肴として最高だな。応援しているよ」
渡利には山田の断言も、空元気としか思えなかった。
時游民云々の話も全く信じていなかったが、山田が意気込むほどに妙に不安を覚えた。
これまで自分が可触することのなかった扉、本来決して交わることのなかった暗澹の闇が、舞台の幕のようにするすると開けてきた……そんな気がした。
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