第44話 さよなら。


 無限の空間を飛び降りるエルランドとセンリの頬を、黄金の風が撫でる。


「センリ。怖いか?」

「ううん……大丈夫」


 エルランドが着地する軽い衝撃。

 そのまま助走をつけると、エルランドは風のように次の足場へ跳躍した。

 センリの心から、いつの間にか恐怖心は無くなっていた。

 エルランドがいる。向こうではトレイスとフィーネが戦っている。

 センリは、自分が『為すべきこと』をただ思っていた。

 飛翔とも言えるような長い跳躍のあと、柔らかく着地したエルランドは、静かにセンリを地面に降ろした。

 目の前に祭壇と神器があった。

 圧倒的な黒炎が吹き荒れ、渦を巻くように神器を取り囲んでいる。

 辺りには神器から発せられる、ひび割れた重低音のノイズが撒き散らされていた。


「…………」


 センリは黙って、その神器の『音』に耳を傾けた。

 神器の本当の『音』を聴くことが出来れば、きっと神器をこの苦しみから救うことが出来る。

 しかし――――


「だめ……! 神器の声が……本当の音が聴こえないよ!」


 首を振って言うセンリの肩を、エルランドが抱いた。


「センリ。その手で触れれば、どんな小さな『声』でもきっと聴こえるよ」


 そう言ってセンリの手を握り、神器の方に一歩進むと、腰から勢い良く〈下弦の月〉を抜いた。


「行こう……!」

「……うん!」


 センリがはっきりと頷く。

 二人は、荒れ狂う黒い炎に包まれた神器に向かって駆け出した。

 途端、炎が二人に対して明確な敵意を持って襲いかかる。

 刃のように研ぎ澄まされた憎悪の炎が、眼前から迫った。


(全てとの調和……。真なる『律』……!)


 エルランドが翻る黒炎を導くように、優しく剣を振るう。

 しゃらん。

 軽やかで美しい音が〈下弦の月〉から鳴り、黒炎は行き場を失くしたように――否、在るべき場所に帰るように消えていった。

 次々に、幾筋もの黒炎が二人を燃やし尽くそうと降りかかる。

 襲い来る炎の刃を〈下弦の月〉で包み込むように消滅させながら、エルランドはひたすら進んだ。捌ききれないで掠めた炎が服や白い柔毛をチリチリと焦がす。

 それでも、センリの手を繋いだまま、懸命に前に進んだ。



   ◆


 ウォルフガングの錫杖の爆光が、いよいよトレイス達のいる浮巨岩を捉えた。

 大気を震わす爆音。砂煙を膨れ上がらせながら、一瞬で巨岩が粉々になる。

 と、砂煙の尾を引いてフィーネを抱えたトレイスが飛び出した。


「あっぶね……!」


 眼下の浮巨岩に着地し、フィーネを降ろす。


「……っと。アンタ、意外と重いな。食い過ぎじゃないか?」

「なっ……!? 何の話ですか! 戦闘中ですよ!? 緊張感無いんだからっ!」

「はっは。それも長所の一つでね」

「短所です! ああ! ほら、来た……!」


 二人の元へ光輪が迫ってくる。

 しかし、それは頭上高く軌道を逸らして明後日の方向へ飛んでいった。


「外した……?」

「待て。様子がおかしい!」


 ウォルフガングは、悶えるように頭を押さえていた。


『何だ……!? 力が……!』


 金色の衣が、弱まったように輝きを失っていく。


『ぬうぅ……! 障壁を越え、神器に近付こうと言うのか……!』


 ウォルフガングは神器に肉薄しようとしているエルランド達に気付くと、金衣をたなびかせながらそれを阻止すべく降下していった。


「くそ! 俺達も追うぞ!」


 トレイスが叫んでフィーネを抱えようとすると、彼女はそれを押しのけて『総譜』を開いた。


「総譜・第八章〈鼓舞の章〉、二十八頁! 駆け給え! 〈ヴァルキューレ〉!」


 フィーネの身体に半透明の光の帯が纏わり付いたかと思うと、フィーネはそのまま巨岩から身を躍らせた。


「お先に行きますよ!」


 『総譜』の力か、トレイスよりも軽々と足場を飛び移って行く。


「ああ……。そういう便利なのがあるんスね」


 トレイスは何とも言えない表情で呟くと、すぐさまその後を追った。


   ◆


 センリはエルランドに手を引かれながら、必死に悲鳴を上げないように我慢していた。


「っ……!」


 顔のすれすれを炎が掠める。圧倒的な熱波で、息をするのも苦しい。

 この黒い炎は、きっとウォルフガングの憎悪そのものだ。

 全てを求め、全てに嫌悪され、力にだけ安らぎを見た者の哀しみ。怒り。

 自分なんかには想像もつかない。

 怖い。直視したら、気持ちが砕けそうだ。今すぐにでも背中を向けて逃げ去りたい。

 ただ……この炎の――神器のノイズの奥の何処かから伝わってくる『救って欲しい』という微かな感情。それから、センリは逃げ出すことは出来そうに無かった。

 エルランドが手を引き、自分を導いていく。

 初めて出会った夜……あの、アボイドから逃げて森を走った時のように。


「渦を抜けるぞ!」


 エルランドの声が聞こえた直後、黒炎の壁に塞がれた視界がまるで嵐が過ぎ去ったように開けた。

 瞬間、炎もノイズも、遥か遠く感じる。

 静けさの中に、自分と神器〈アース・ドラム〉がいた。

 エルランドの手を離し、近づいて行く。

 微かに届く、鼓動のように優しい、一定のリズム。


 ――聴こえるよ。きみの『音』が。


 センリは、気が付けば透き通った声で旋律を奏でていた。

 古い太鼓の優しい鼓動は、どこまでも広がっていく。

 センリの歌は、その脈動を受けて生命の喜びを溢れさせた。

 周囲を取り巻いていた黒炎が、みるみる掻き消えていく。


「ああ…………」


 エルランドの頬を幾筋もの涙が伝う。

 私は……私達は間違っていなかった。そう思えた。


『虫ケラどもがぁぁぁぁぁ!』


 ウォルフガングの声が響く。

 見上げた先で、ウォルフガングが錫杖と光輪を振り上げていた。怒りに狂った形相で振り下ろす。


「――っ!」

「庇い給え! 〈キエフの大門〉!」


 光輪が翡翠色の防壁に軌道を逸らされる。

 錫杖の爆撃が付近に浮遊する巨岩を粉砕した。


『ぐあぁぁ……!』


 錫杖を持つウォルフガングの右腕に二本の矢が深々と突き立っていた。


「間に合いましたね!」


 頭上から飛び降りてきたフィーネがホッとしたように言う。

 続いてトレイスも飛び降りてきた。


「あいつ……」


 センリを見つめる。

 センリの歌が響き渡り、神器が光を放った。

 慈愛に溢れた、神聖な輝き。全き善の力を取り戻そうとしている。


『ゴアァァァァァ!』


 ウォルフガングの苦しげな咆哮が空間に轟いた。

 もはや、そこからは最後まで僅かに残っていた人間らしさすら消え去っていた。

 ウォルフガングがその手に持っていた物を投げ棄てていく。

 錫杖。光輪。経典…………。


『クルシイ。ニクイ。ウラヤマシイ。チカラガ。ナゼ……』


 最後に残った〈嵐〉を、四つの掌で包んだ。


『スベテニ、ハカイヲ…………』


 ウォルフガングの全身を、雷電を孕んだ嵐が包む。


「何か来るぞ!」


 エルランドが叫ぶ。


『ガァァァァァァァ!!』


 咆哮。

 その瞬間、途轍もない勢いで黒い嵐が膨れ上がった。

 空間全体に風雷が荒れ狂う。

 浮かぶ無数の巨岩がすり潰されるように消えていった。


「――っ!!」

「この空間ごと消滅させるつもりなの……!? そんなことをすれば、自分も道連れに――!」


 吹き荒れる破壊の嵐。

 しかし、エルランド達の周りだけは、まるで神器の光におおわれるように嵐から守られていた。

 だが――、


「っ……!」


 センリが歌を途切れさせてうずくまる。


「センリ! しっかりしろ!」


 エルランドが走って抱きかかえる。


「エ、エル……。神器を……『音楽』を……止めないで…………」


 センリはそう言ってゆっくり瞳を閉じた。

 駆け寄ってきたトレイスが慌てて声をかける。


「おい、センリ!」

「大丈夫、気を失っただけだ」


 センリが気を失った今も、神器は神聖な音と光でエルランド達を守っている。

 だが、その範囲も次第に縮小し始めていた。

 このままではやがて嵐に飲み込まれるだろう。

 トレイスとフィーネは、エルランドと彼に抱きかかえられるセンリの前に跪いた。


「エル。付いてくぜ」

「エルランド様。ご随意に……」


 嵐は今や、弱まった神器の光ごと一行を飲み込まんと迫っている。

 エルランドは二人の目を順に真っ直ぐ見つめたあと、センリの手を握り目を瞑った。


(センリ。力を貸してくれ……)


 荒れ狂う黒い嵐。

 弱まりつつある、豊かな太鼓。

 自分の鼓動。血の流れ。


 そして――――その中に、微かに聴こえた。


 小鳥の囀りのような、弓の弦が朝露を弾くような、美しく軽やかな音。


 神々しいまでに澄み切った、どこまでも伸びる透明な響き。


 あの二つの神器の音が、たしかにエルランドには聴こえたのだ。

 目を見開き、立ち上がる。


「おい、エル……! 剣が!」


 〈下弦の月〉を顔の前に掲げる。刀身が眩いまでの輝きを放っていた。

 エルランドが、大きく頭上を薙ぐように剣を振る。

 光の粒が盛大に舞い上がり、吹き荒れる嵐を大きく押し返した。

 二人を振り返る。


「トレイス、フィーネ。終わらせよう!」

「おう!」

「はい……!」


 フィーネが立ち上がり『総譜』を開く。


「余力の全てを……。総譜・最終章〈禁曲の章〉、第一頁――!」


 総譜から溢れる光にフィーネの全身が包まれ、髪の花たちが狂おしいほどに咲き誇る。


「――導き給え。『火の鳥』……!」


 エルランド達の周りに純白の焔が吹き上がった。

 やがて、辺りを包み込むその白焔は巨大な翼となり、一羽の鳥を象る。

 『火の鳥』は燐光を撒き散らしながら一度大きく羽ばたいて消え去り、代わってトレイスの構える〈賢人の弓〉に燃え移った。


「あとは……お願いします……!」


 フィーネが力を使い切ったように膝を折る。


「……任されたぜ、フィーネ」


 舞い散る羽根のように白焔を纏った弓を、トレイスが大きく引き絞る。

 まるで、弓そのものが『火の鳥』だった。

 辺りは荒れ狂う黒い嵐で何も見えない。しかし今、トレイスは空高くから見下ろしているかのように、ウォルフガングの正確な場所を感じていた。

 放つ。

 高い嘶きとともに、一本の矢となった火の鳥は燐光の尾を引いて嵐を穿ち消し去りながら進んでいく。

 その先に、ウォルフガングの姿を捉えた。


『ウガァァァアァァ!』


 火の鳥がウォルフガングの腹部に突き刺さり燃え上がった。


「エル!」


 トレイスが名を叫ぶと同時に、エルランドは駆け出していた。

 浮巨岩の縁から跳躍。

 海を割るように穿たれた嵐の中に、火の鳥の残した燐光が道のように伸びていた。


「オオォォッ!」


 光の道を駆け抜ける。両手で持った〈下弦の月〉が光の粒の尾を引く。

 ウォルフガングの手前で跳躍。

 獣のような咆哮を上げるウォルフガングと、一瞬、目が合う。

 〈下弦の月〉が、ウォルフガングの胸に深々と突き立った。


『ガアアァァァァァァ……!!』


 途端、油膜に石鹸を垂らしたように、空間を覆っていた嵐が消え去っていく。


『キエタクナイ……』


 最後にそう呟くと、ウォルフガングは自身の作り出した黄金の空間ごと、眩い光の中に消えていった。



   ◆


 センリは誰かに抱き起こされて、ゆっくりと目を開いた。

 濃いオレンジ色の夕陽が、自分を抱きかかえるエルランドの横顔を照らしている。


「センリ。大丈夫か?」

「うん……」


 ぼんやりとしたまま上半身を起こして辺りを見渡す。

 トレイスとフィーネも、それにホッとしたようにセンリを見つめていた。

 そこは、あの祭壇があった元の岩棚だった。ウォルフガングの姿も無い。


「えっと……。あれ……?」


 たしか、自分は神器の音を聴いたあとすごい嵐が起きて、それから……。

 混乱していると、エルランドがその頭をそっと撫でた。

 白い柔毛の至る所が傷つき、血で濡れている。


「終わったよ……、全部。センリのお陰だ」

「終わった……?」


 ふらふらと立ち上がって神器を見る。〈アース・ドラム〉は、穏やかな光を湛えて静かにそこに存在していた。


「そっか……。わたし…………」


 その瞬間、センリの身体が神器と同じ光に包まれた。


「え……!?」

「センリ……!」


 身体が浮き上がり、足元から少しずつ存在が薄れるように消えかけていく。


「まさか、元の世界に……!?」


 エルランドが驚いてフィーネを振り返ると、フィーネは複雑な表情で「恐らく……」と返した。


「そんな……! 嫌だよ! エル……! まだ一緒に――!」


 センリが手を伸ばす。

 エルランドはその手をしっかりと握った。


「センリ、大丈夫だ。きっと、また会えるよ」


 いつもの、優しい笑顔で言う。


「きっと……! きっとだよ……!」

「ああ。必ずだ」

「トレイスも……! フィーネさんも……!」

「ええ。もちろんです」

「あたりめぇだろ、ちびっ子」


 光が強まる。エルランドの手が離れた。


「さよならだ、センリ」

「エル……! エル……!」


 世界が、遠く離れていった。


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