エピローグ 『歌うということ。』


   ◆


「エル……!!」


 自分の叫ぶ声で目を覚ました。


「お嬢様、どうかされましたか?」


 運転席でハンドルを握る白髪交じりの男性――使用人の近藤さんが、怪訝そうに尋ねる。

 そうだ、自分は学校の帰りに迎えの車に乗り込んで……。


「ごめんなさい、寝ちゃってました」

「いえ、とんでもない。お疲れのようでしたので」


 海の見える峠道を、車はゆったりとした速度で走っていく。

 六月の柔らかな陽の光を波がきらきらと反射しているのを、センリは何か長い夢でも見た後のような感覚でぼんやりと眺めていた。


 『エル』……? 


 何かの名前だろうか。自分で叫んだ言葉なのに何の事だか思い出せない。

 何だったか……。何か、大事なことを忘れている気がする。


「……?」


 ふと手元を見ると、右手に見たことの無いブローチが握られていた。

 黄色い蝶の形をしたブローチ。

 見覚えがない。でも確かに自分のものだ、と思う。


「お嬢様、今日はレッスンの日ですが……。どうされますか?」

「…………」


 ここの所、レッスンは休みがちだった。

 『七崎家』は音楽家の名門。センリも物心付く前からレッスンに通わされ、音楽――センリの場合は声楽は、自分の意思とは関係なく自分の人生に纏わり付いていた。

 音楽は嫌いではない。

 ただ、『自分が何のために歌うのか』が、センリにはどんどん解らなくなっていた。


「ご無理はなさらぬよう……。海外公演中の旦那様には、上手くお伝えしておきますので」


 父は、取り分け公演中は、自分の音楽に関すること以外は全て『邪魔』なものと考える人だ。

 元芸能人の母は、センリが何をしていようと興味がない。父がいない間に若い男の人が出入りしている事も、センリも近藤さんも知っている。

 センリが黙っていると、近藤が平然とした調子で言った。


「そうですな、今は鎌倉の辺りの紫陽花が見頃ですか。近藤と先生が紫陽花見たさに勝手に鎌倉に向かってしまっては、レッスンも出来ませんな」


 いつも近藤さんは優しい。先生も『歌いたくなったら歌えばいいのよ』と、センリを待ってくれている。

 センリは黙ったまま、ブローチをぼんやりと眺めた。

 骨董品のような不思議な美しさだ。アクセサリーにしてはピンが大きい。何かを留めるように作られているのだろうか……。


「あっ……」


 刹那に、何かを思い出しかけた。

 しかし、その記憶は手をすり抜けるように再び消えていく。

 ただ、誰かの優しい声だけは心の奥に残っていた。


 ――『きっと、また会えるよ』


「きっと、また…………」


 センリは呟くと、ブローチを制服のスカートのポケットに入れた。


「近藤さん」

「はい」

「鎌倉は、今度でもいいですか……?」


 センリが言うと、近藤さんは少しだけ嬉しそうに「かしこまりました」と言った。

 自分が『何のために歌う』のか……、『何を為すべき』なのか。

 それはまだ分からない。

 でも、それを見つけたい。そう思った。

 『誰か』と、そう約束した気がした。

 そうすれば――――。


 車は海沿いの道を進んでいく。

 センリはその向こうに何処かの景色――深い森、大きな月、馬車の行く大平原、活気と人にあふれる古い街並み……知らないはずの、でもひどく懐かしい景色を見た気がした。




          了

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