第27話 ずっと、きみと


 夜になっても、賢人の郷は相変わらず美しかった。

 静まり返った湖に反射する蒼い月光が、樹上のテラスに佇むエルランドの横顔を照らしていた。


「…………」


 神器、ピリオド派、失われたはずの『音楽』……。全てがセンリという少女の出現とともに動き出した。

 オスカルバルデス老の言う通り、センリこそが、この混沌の世を治めるべく遣わされた〈異界の民〉だと言うのだろうか。

 だとしたら……


「……神は残酷だな」


 彼女は確かに全き善の心を持った人間だ。……しかし、まだ弱く幼い。

 司教の元から一人逃げ出した時のセンリのあの恐怖に凍りついた顔。

 あんな表情を、まだ幼いあの子に――純粋で優しいあの子にさせてはいけないと、あのとき心から思った。

 いくら元の世界に帰るためとは言え、神器を追う争いはきっと彼女をまた傷つける。


 それならば、いっそ…………。


 その時、エルランドは後ろの木戸が開く音に振り返った。


「センリ……。眠れないのか?」


 そこには、ゆったりとした白い寝間着を着たセンリが、不安げな表情で立っていた。寝間着は、フィーネがセンリ用に用意してくれたものだ。


「うん。何となく……」


 呟いて、エルランドの横に並んで郷を見下ろす。


「トレイスは?」

「熟睡だよ。いびきがうるさいくらい。なんかね、弓が壊れちゃったみたいで、一日ずーっと掛かりっきりだったんだって」


 センリの言葉にエルランドが苦笑する。

 それから少しの間、二人は黙って湖に映る月を眺めていた。


「不思議だなぁ……」


 ポツリと、センリが口を開いた。


「わたし、この世界のひとじゃないんだね」

「……まだ決まったわけでは無いよ」

「ううん。何となくわかる気がする。たぶん、オスカルバルデスさんの言ってたことは本当なんだと思う。何でかって言われたらわからないけど……」

「……元の世界に帰りたいか?」


 エルランドが尋ねると、センリはしばし俯いて考え込んだあと答えた。


「本当はね、わかんない。元の世界の事は結局全然覚えてないし……。今わたしが覚えてるのは、あの森でエルと出会ってからの事だけだから」


 寂しそうに笑う顔が、薄い月明かりに浮かぶ。

 エルランドはずっと考えていたことを口にした。


「センリ。このまま、何処か遠く……誰も知らないどこかで暮らさないか。無理に記憶を戻す必要も、元の世界に戻る必要も無い。思い出は、これから作っていけば良い」


 センリは驚いたようにエルランドを見上げた。


「エル……? だって、神器は? このままじゃ悪い人たちに奪われちゃうんでしょ? わたしがいないと――」

「奪われたっていいさ。君がこれ以上争いに巻き込まれるよりは、ずっとマシだ」

「…………」

「神器も戦いも、君が気にすることではない。だから、これからは普通の女の子として、普通の幸せをこの世界で――――」


 言いかけたエルランドは、その白い短毛の顔をセンリに両手で包まれて言葉を失った。

 つま先で背伸びしたセンリの見上げる視線と目が合う。


「ありがとう……。エルはいつだって優しいね」

「センリ……」

「わたしね、あの『音詠みの聖譜』に触れた時、世界中の神器達の声が聴こえたの。世界の終わりー! みたいな凄い音だったんだけど、それだけじゃなくて……」


 センリは頬から手を離すと、エルランドを見上げたまま話した。


「とても……心が壊れちゃいそうなくらいに、悲しい音だったんだ」


 思い出すように右手で胸をキュッと掴んで俯く。


「わたし神器を助けたいの。元の世界に帰るためじゃない。神器……あの子達があんな悲しい音を出さなくてもいいようにしてあげたい」


 そう言うと、センリは再びエルランドを真っ直ぐ見上げた。


「だから、エル。わたしを神器のある場所まで連れて行ってください。足手まといにならないように頑張ります。神器を司教達に渡したら絶対に駄目だよ」


 一転の曇りもない真っ直ぐな目で決然と言うセンリに、エルランドは中々返す言葉が思いつかなかった。

 圧倒された、と言ってもいいかも知れない。


「……だめ?」

「あ……いや、すまん。君がそういうのなら、もちろん異論は無い。必ず、司教達から神器を守ろう」


 エルランドが頷くと、センリはパッと笑顔になった。


「よかった~! 断られたらどうしようって悩んでたんだ!」


 そういってニコニコと笑うセンリの表情からは、先ほどまでの大人びた印象は消え去り、いつものセンリに戻っていた。


「ふぁ~。安心したら眠くなっちゃった……。先に寝てるね」

「あ、あぁ」


 手を振ってぱたぱたと部屋に戻っていくセンリの背中を見送ってから、エルランドは小さくため息をついた。


「……。やれやれ」


 子供というのは、計り知れないものだ。いや、あの子だから、だろうか。


 しばしのあいだ一人で湖を眺めたあと、エルランドも部屋へ戻った。

 扉を閉めると、ベッドの三つ並んだ部屋を照らすのは窓からの月明かりだけだ。

 一番奥のセンリはすでにすやすやと寝息を立てている。

 薄暗い中、一番手前のベッドに入ろうとすると、隣から声を掛けられた。


「天下のエルランド様も、かたなしだな」

「トレイス。……聞いていたのか」

「ヴューテンイヤーは地獄耳、ってな。……しかし、大したガキだよ」


 トレイスが上半身を起こして隣で寝るセンリを見やる。


「その『民衆を導く異界の民』ってのも、あながち間違ってないかも知れねぇぜ?」

「子供に与えて良いのは未来だけだ。重責ではないよ。これは、あくまでも我々の問題だ」

「あいあい。とにかく、俺らの今後の動きは決まったんだろ? 隊長さんよ」

「隊長になったつもりは無いぞ」

「じゃあ、リーダーだ」


 冗談めかして言うトレイスにエルランドは呆れたように息をつくと、


「ではリーダーから最初の命令だ。早く寝ろ」


 そう言ってベッドに潜り込んだ。

 色々な考えがぐるぐると頭を駆け巡ったが、それもすぐに微睡みの中に沈んでいった。


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