第33話 神器の守護者
聴覚は今や殆ど麻痺している。それでもつんざくようなあの音は、今もエルランドの脳と平衡感覚を痛めつけていた。
「これが……! これが神器の『音』だと言うのか……!?」
暗闇に向かって叫ぶが、自分の耳には届かない。
エルランドにはすでに感じ取れていた。
この破滅的な音。拒絶。不信。不安。憤怒。
全てが、この〈神器〉から発せられているものだと言う事が。
エルランドが知る唯一の神器の音。あの〈生命の胎動〉での『音楽』。センリの清らかな声……。
今まさに〈ディヴァイン・フルート〉から発せられる攻撃的な音波は、およそそれとは似ても似つかない。
「神器よ……! 何故、そのように荒ぶられる……!?」
暗紫の光刃が縱橫からエルランドを攻め立てる。
〈下弦の月〉の一薙ぎが二筋の光刃を霧散させた。
死角から襲いかかった光刃が、エルランドの脇腹を抉りながら暗闇に消えていく。
「ぐうっ……!」
無限に閃く光刃。激痛に気が遠くなるが動くのを止めるわけにはいかない。
際限なく膨れ上がる破滅音。神器は『怒り』に支配されていると言うのか。
(『音詠みの聖譜』に触れたセンリも、これを聴いたのか……)
昨夜のセンリの顔が、朦朧とした頭にふとよぎる。
――『心が壊れちゃいそうなくらいに、悲しい音だったんだ』
この音……、いや彼女が聴いたのはこれ以上に激しい、心を砕くような神器達の慟哭だったかも知れない。それを彼女は受け入れ、『助けたい』、そう言ったのだ。
(本当に、強い子だ)
もはや無意識的に身体を動かしながら、エルランドはどこか穏やかな気持ちでそう思った。
不意に、エルランドが剣を下ろし足を止めた。
「あの子と同じようになれるかは分からない。だが…………」
ゆっくりと目を閉じる。
瞼の向こうではおびただしい数の光刃が自分を切り刻もうとしているだろう。
大気を震わし、耳を貫く音。
その中でなお、耳を澄ます。
「センリ。教えてくれ……」
神器〈ライフ・クラヴィーア〉の清らかな音の中で、鳥のように舞うセンリの歌声。その姿を思い出す。
まるで、世界と溶け合うような――――。
その瞬間。
りぃん。
鈴のなるように軽やかな、しかしどこか哀しい音がエルランドの耳に確かに聴こえた。
かっ、と目を見開く。
鼻先まで迫る暗紫の光刃。
しかし、エルランドの視線が捉えたのは、その奥に現れた微かな白い揺らめきだった。
僅かに首をひねる。光刃が頬を浅く切り裂きながら通り過ぎる。
と同時に、エルランドは爆発的な瞬発力で跳躍した。
「うおぉぉッッ!」
目を凝らさねば闇に消えていきそうな微かな純白の揺らめきに、〈下弦の月〉を打ち付ける。
優しく。導くように。
〈下弦の月〉の弧を描く刀身は、まるで意思を持つかのようにしなやかに動いた。
――りぃぃん。
破滅的な騒音の中で、清らかな、今ままで聴いたことのないような美しい音が響いた。
暗闇に、一筋の白い輝きのラインが伸びる。
「聴こえる……! 神器の声が……!」
轟音にまぎれて聴こえる、今にも途絶えそうなほどか細く、美しいその音。
闇の中、幾つもの白い揺らめきがおぼろげだが確かに見えた。
無数の暗紫の光刃が襲いかかる。
それを〈下弦の月〉でいっぺんに払い飛ばすと、エルランドは白い揺らめきを次々と解放した。
傷の痛みも疲労も忘れ、エルランドは夢中で剣を振るった。
清澄な音色は折り重なり、大きな一つの流れを織りなす。
純白のラインが紡がれ、輝きを増し、闇を少しずつ打ち払っていった。
無心で身体を動かすうち、エルランドは自分の精神が神器の音と――いや、世界と一体化していくような感覚を覚えた。
そして気が付けば、エルランドは眩しいまでの白い光の中にいた。
撒き散らされていた轟音は掻き消え、神々しいまでに澄みきった響きが、一つの流れ、大河のような『律』を奏でている。
「これが……。あぁ……」
目を焼くように眩さを増していく光の中で、エルランドは静かに目を閉じた。
ゆっくりと瞼を上げると、元の遺跡からの景色に戻っていた。
沈まなかった太陽は、打って変わって遠くの地平線に半ば以上その身を隠している。
紫色の薄夜の空に、群れをなして飛ぶ鳥のシルエットが浮かんでいた。
「元の空間に戻ったのか……?」
自分の身体を見回すと、あれだけ傷ついていたはずの身体も衣服も、何事もなかったかのように無傷でそこに存在している。
「あれは一体……」
神器に試されていたのだろうか。
右手にはしっかりと〈下弦の月〉が握られている。
薄闇の中、銀月のように輝く刀身は、当然何も答えることは無かった。
足元を見ると、〈下弦の月〉の鞘が落ちていた。跪くようにそれを拾い、〈下弦の月〉をゆっくりと鞘に収め立ち上がる。
正面に変わらず鎮座する神器〈ディヴァイン・フルート〉に深く頭を下げてから、エルランドは〈イオニア〉を下りるべく踵を返した。
どこか遠くから、『りぃん』と美しい笛の音が響いてきた気がした。
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