第14話 慟哭


 掴みかかってくるウォルフガングの腕は、あのトレイスの腕に比べたら半分ほどの太さしかなさそうだが、それでもセンリの力では振りほどくことも出来ない。


「……やめっ……!」


 半ば腰を落とすように両腕を振り回すと、握った左手が司教の顎に偶然当たった。


「ぐぉっ!」


 顎先を殴られた司教が手を放し、顎を押さえながら一、二歩たたらを踏む。

 センリはその隙に走って逃げようとしたが、まるで悪夢の中にいるように身体が言うことを聞かない。

 扉の前に立つ修道士の方を見ても、彼は無表情に目の前の光景を眺めているだけだった。

 尻餅をついたセンリをウォルフガングが血走った眼で睨みつける。


「貴様ぁ……!」


 次の瞬間、ウォルフガングの平手がセンリの頬をしたたかに打ち付けた。


「っ……!」


 センリの軽い身体が跳ねるように床に倒れこむ。

 その腕をウォルフガングがひったくるように掴むと、センリの掌を羊皮紙の中心に押し付けた。


「さぁ、感じろ! 貴様に呼びかける〈神器〉の声を……!」


 ウォルフガングがヒステリックな叫び声を上げる。

 しかし、その声は既にセンリの耳には届いていなかった。


 〈音詠みの聖譜〉に触れた瞬間、センリの聴覚の限界まで押し寄せ溢れかえる『音』。

 弦の甲高い叫声。太鼓の低音の激震。笛が協和と不協和を行き来し、ラッパが雷槌を落とす。

 センリの触れている場所を中心に〈音詠みの聖譜〉が白く光りだし、薄っすらと模様のようなものが浮かんでくる。


「おぉ! 『聖譜』に紋様が……! ははは! 素晴らしい!」


 ウォルフガングが嬌声を上げる。

 しかし、それもそこまでだった。

 センリの意識が闇に覆われていくと同時に『音』も次第に遠ざかって行く。


「……ちっ。おい、起きろ!」


 再び頬を打たれるが、起き上がる余力も残ってはいなかった。


「う…………」

「役立たずが……!」


 三度、ウォルフガングが腕を振り上げる。

 と、その時。


「司教様」


 無言で扉の前に立っていた修道士が静かに口を開いた。


「無理をすれば命を落とす可能性も御座います。ここは焦らず時間を掛けるのが得策……」

「……ふん。確かに死なれては困るな。まぁ、よいだろう。この〈音詠みの聖譜〉に記された断片だけでも大きな収穫だ」

「間違いないかと」


 修道士が恭しく、しかし感情の籠もっていない声で言うと、ウォルフガングは掴んでいたセンリの腕を床に放り、立ち上がった。


「アイネ、こいつを部屋に軟禁しておけ」

「かしこまりました」


 『アイネ』という名だった修道士の男は、口元に薄っすら血を滲ませたセンリを軽そうに抱え、そのままウォルフガングに一礼すると静かに部屋を出て行く。

 そして、完全に扉が閉まった後の廊下で、


「クズが」


 アイネはごく小さい冷めた声でそう呟いた。

 腕に抱えられたセンリは、その声を聞くか聞かないかの内に意識を失うように眠りに落ちた。


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