第42話

異星人と地球で出会う 優しい人


 齧られたねぎまの串を工藤先生の皿に置いて、お財布からお金を取り出す。


「からかってごめんなさい」と謝られたが、許すとか許さないとかそういうのではなかった。


「あの…。私…ねぎまが大好物なんで。欲しかったら、ご自分で頼んでください。それから…二度と声をかけないでください」


「お節介が過ぎました」


「お節介って…ねぎま食べてからかうことですか」


「…そうですね。間違えてました」


 素直に謝られると、許さなければいけない雰囲気が嫌だ。工藤先生のお皿のねぎまを睨んでしまう。


「早く、食べてください。冷めてしまいます」


 私は濃いめのハイボールとフライドポテトを注文した。一気に飲んで、気持ちを収めたかった。そんなこんなでいい加減酔っぱらって、店から出る。


「いいですか。明日から声かけないでください。挨拶もなしです」


「明日は違う学校なので、会いませんよ」


 そうだった。明日は…私は休みだった。


「工藤先生は学校…何校回って…」


「三校です。一校は夜間で…」


 私はたった一校しか行ってない。本格的にアルバイトをしなければ…と思った。いや、アルバイトしたら、正規の教員になる試験勉強が出来なくなる。


 いや、まずは離婚。それには弁護士。やっぱりお金が…と考えていると


「大丈夫ですか?」と工藤先生に気を遣われた。


「大丈夫です。知り合いに弁護士…いたら紹介…あ、でも安くで…」と言って駅まてわ来たので手を振る。


「いや、この駅、俺も使うんで」と言われて、気まずいまま、一緒に改札をくぐった。


 工藤先生は背が高いし、顔もいいけれど、ちょっと薄い顔をしている。薄い顔なのに、パーマをかけているのか、緩いウェーブが顔を少し隠していた。


「酒田先生はお名前通り…お酒に強いんですね」


「…いえ。これは…夫の苗字で…。…早く別れたい」


 電車を待つ間にする会話ではないかもしれないけれど、もうどうでもよかった。


「じゃあ、本当の苗字は何て言うんですか?」


「本当の苗字? えっと紺野です」


「へえ。素敵な苗字ですね」


「苗字に素敵も何も…」と言って、来た電車に乗る。


 座れそうにないので、ドアにもたれかかった。


「…色のある名前っていいじゃないですか」


 そうだろうか。そんなこと思ったこともなかった。その後、黙って、電車に揺られる。乗換駅で、私が下りようとしたら


「早く元の苗字に戻れるといいですね」と言われた。


 私は振り返って、何か言おうとしたけれど、そのまま扉がしまるまで、何も出て来なかった。扉が閉まる瞬間、笑顔で手を振ってくれるのを酔った頭でぼんやり見ていた。



 素敵な苗字…と繰り返す。


「そっか。そっか」


 早く戻りたいな、と本当に思った。マンションに着いて、鍵を開ける。


「ただい…ま」と声が出た。


 玄関に靴がある。夫の靴だ。実家に戻っているはずなのに、ここにいた。


「おかえりー。麻衣。ごめん。本当にごめん。もう二度と浮気なんてしないから」


 なぜか明るい顔で両手を広げて迎えに出てくる。


 その笑顔で、私は玄関先で嘔吐した。



 スローモーションで見えた。マーライオンのように吐しゃ物が体からすーっと出ていった。なんなら、狙いを定めて夫に発射したかもしれない。吐しゃ物まみれの夫を見て、私は第二弾を発射した。


「うわぁ」と叫ぶ夫。


 そうだ。私はあの日からろくにご飯を食べていない。そこにアルコール、ねぎま十本、キュウリ、トマトを食べ、さらにフライドポテトまで追加注文していた。


 胃が当然消化できなかったのだろう。


 夫の顔がスイッチとなり全部吐き出した。


 でもひきつけを起こした胃は止まることなく吐こうとする。もう胃液しかでないのに、気持ち悪い。


「ま…い」


「う…出てって」


「こんな姿じゃ出られないよ」


「出て」と言って、私は夫の横をすり抜けてトイレに入った。


 そして我慢していた笑いを解放する。トイレで一人で笑い出した私の声を聞いて、夫はどんな気分で玄関に立っているのだろう。止められなかった。笑いも涙も。



 トイレから出ると、夫が部屋着に着替えていた。私が吐瀉した汚物まみれの服はゴミ袋に入れられていたし、玄関も片付けられていた。


「麻衣…ごめんって」


「まだいるの?」と私は吐いたことですっきりしたものの、気力が失われていた。


 隙があったのだろう、夫の腕の中にいた。


「離して」


「麻衣、愛してるのは麻衣だから」と言って、私の服を脱がそうとする。


「な」


 激しく抵抗したくても、嘔吐の後では力が出ない。床に押し倒された。


(なんだ…。これ。浮気されたあげく…)


 涙が止まらない。


「麻衣、子ども欲しいって言ってたよな」


 首に舌を這わされて本当に気持ち悪い。それなのに、少しも動けなかった。拒否の言葉を言ってもきっと流されてしまう。


「い…や」


 それでも首を横に振ったけど、夫の顔が気色ばんでいて気持ち悪い。慣れた手つきで服を脱がされた。


 目を閉じて終わるまで待つしかないのか、と思った時、玄関の扉が開いた。


「誰だ?」と夫が体を浮かせる。


 その瞬間に私は夫の下から抜け出した。誰が来たのか分からないけれど、脱がされた衣服を急いで集める。


「お前…」と言ったのは夫じゃなくて、義理の兄だった。


 義兄が入って来た。そう言えば鍵をかけてなかった。


「…なんでお前が来るんだよ」と夫は言う。


 衣服で体を隠して、後ろずさりでソファの影に隠れた。


「大切にしろって言っただろ」と言う声が聞こえたかと思うと、夫が吹っ飛ばされていた。


 そっとソファから顔を出すと、怒った顔で義兄は夫を見下ろしていた。


「痛…って…」と夫は上体を起こす。


「浮気しておいて、やり直せると思ってるだと?」


 義兄がしゃがんで夫と目を合わせている。私はその隙に服を着ようとするけれど、震えてうまくいかない。


「大体、なんでここにいるんだ? 実家にいる約束だろう?」


「お前こそ、夫がいない間に何するつもりだったんだよ!」


 義兄は姉に頼まれて私の様子を見に来たと言った。姉はそろそろ臨月なので、本当は一緒にくると言うのを家で待ってもらったらしい。


 夫は義兄に外に出された。そして義兄はまた戻ってきた。なんとか服を着れたけど、ボタンを掛け違えてたり、ストッキングなんて破れて散々だ。


「麻衣ちゃん? 大丈夫?」


 リビングに入る手前でそう声をかけられる。


「大丈夫…で…す」


「一緒にうちに来る? 真紀も心配してるから」


 お姉ちゃんも義兄も優しい。でも何よりこんな姿を一番好きな人に見られたくなかった。


「…ひ…一人で大丈夫…です」


「何か必要なもの…ある?」


「なにも…ない…ので。ほんとに…」


 泣き声だって聞いてほしくない。震える唇を噛む。


「ごめんな。ほんとに。あいつ…あんなやつだって…思ってなくて」


 苦しそうな声が聞こえた。


「一つだけ…お願いが…あります」


「何? なんでも言って」


「お姉ちゃんに今日のこと…言わないで。心配するから…。赤ちゃんに…良くない…から」


「…麻衣ちゃん」


 本当のお願いはそうじゃない。


 側にいて、抱きしめて欲しい。


「…分かった。でも何でも言って。麻衣ちゃんの味方だから」


「…ありがとうございます」


 去っていく足音を確認して、私は立ち上がり、ドアの鍵かけて、チェーンをつけた。



 リビングに戻ると、バックから飛び出したりんごが芳醇な甘い香りを漂わせていた。


 私はその香りを感じつつ、ソファに横たわり、目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る