第9話

Re:女子大生生活最後の時


 目の前に置かれたインスタントコーヒーは香りだけを漂わせて、熱が冷えて行く。私はどうしたらいいのか分からなくて、じっと富田くんを見た。


「中身が五十歳でも…俺は今、目の前にいるゆうちゃんが好きやから。別に…」


 口をぽかんと開けてしまう。


「年の差とか…あんまり分からんし。もし帰るって言って、帰れるなら…諦めるけど」


 見えてる世界が違い過ぎていた。私には子供のような富田くんだった。それなのにいつの間にか、惹かれてしまって、同じ気持ちで側にいる。


「もし帰れるとして、帰れるまでの間でも…俺は構わへんけどな」


「え? そんな…」


「一緒にいれるんやったら、一緒にいたいっていう気持ちやねん。いつ死ぬか分からんし。一緒にいたの幸せやったし」


「こんな私でも? 五十歳のおばちゃんでも?」


 私が繰り返して言うと、富田くんは笑った。


「五十歳でも可愛いやん。大地震があるって、走って来てくれるし」


「大地震は本当に大変なの」と私は説明した。


 高速道路は横になぎ倒され、地割れ、そして大きな範囲に広がった火災を説明する。被害は甚大で、近年見ることのない災害だったと説明した。


「じゃあ…十六日は帰ってくるし…。おやじには家具のないところで寝るように言う。だから…帰ってきたら、付き合ってくれへん?」


 私は震える声で「五十歳…」と言うと、笑いながら「承諾してくれんかったら、帰っていへんで」と言う。


「そんな…」


「脅迫してでも付き合いたいねん」と顔を近づけられる。


 押し切られた。


 唇が触れて、温かい感触がする。すぐに唇が離れると、そのまま抱きしめられて、きっと富田くんは私が頭おかしいことを言ってるだけなんだな、と思ってるんだと思った。頭がおかしくてもいいって言ってくれてるってことは五十歳でもいいのかな、と思った。


「ゆうちゃん。好きやけど…まだ不安?」


 私は首を横に振った。未だに帰る方法も見つからないのだからと、私からキスをした。愛し、愛され…何もかもが優しくて、温かさをくれた人。



 富田くんが関西に行くまで、よくご飯を作りに行った。


「なんか…信じられへんけど。その手際の良さはやっぱり」と言うから、私は怒るよりもため息を吐きそうになる。


 そうすると、富田くんは突然抱きしめて「俺ってラッキーやな」と言ってくれた。


「おばちゃんなのに?」


「可愛くて、料理が上手で、何も文句ない」


「じゃあ…もし逆だったら?」


「逆?」


「五十歳の見掛けで二十歳の中身」と意地悪なことを聞いてみる。


「うーん。…想像つかへんけど…。うーん。でも…うーん」と必死で考え込んでいるのが分かる。


 意地悪なことを聞いたと思うから「ごめん」と言った。


「でも五十歳のゆうちゃんも可愛いと思う。…会ってみたいな」


「わー。やめて。シミとか皺とか白髪とか…」と心底ため息をついた。


「でも…五十歳のゆうさんも素敵やと思う。俺はそんなところも好きやから」

 

 後ろから抱きしめられながら、そんなことを言われて私は体が熱くなる。本当に私を認めてくれた…。そんな気がした。本当に富田くんは私の乾いたところを満たしてくれる。

 でもやっぱり心のズレがどこかにあって、私はこのままでいいのか、この幸せのままで暮らしていいのか分からなくなる。


「ゆうちゃん。ほんまに…好きやから」


 久しぶりに聞く愛の言葉も甘くて、泣きたくなった。


 そうしてあっという間に富田くんが関西に行く日になった。


「絶対に帰ってきてね」と私は電話をした。


「うん。約束やから。待っててな」


(どうか無事でありますように)と私は願って、電話を切った。



 そして目が覚めた。


 私はベッドの上で、元の世界に戻っていた。どうやら忘年会の帰りに事故に遭ったらしい。目が覚めなくて心配した、と言われたが、たった二日だったそうだ。病院から連絡をもらって、駆けつけた夫も子供も安心したような顔をしている。


「良かったー」と家族が言ってくれるのを見回す。


 夢の中でとっても好きになった人がいた。あんなに思い悩んでドキドキしたのに…夢だったのか、と私は淋しさが溢れ出す。


「優子…気分は?」と夫に聞かれた。


 夫を見上げて


「ごめんなさい」と涙を溢した。


 この涙の意味は夫にも私にも分からない。


 事故にあってしばらくは家族は優しかった。私が家に戻って、元気に動けるようになると、また日常がゆっくりと腐っていく。それでも私は誰にも褒められなくても朝、お弁当を作り続ける。あの夢は神様がくれたリフレッシュだったと思うことにした。


「お弁当、忘れてるよ」と子供に言うと、面倒くさそうに取りに戻る。


 私はその姿を見て、悲しむことを辞めた。

 あの夢で私は富田くんと恋をして、流されたのではなく、自分の選択で家族を捨てたのだから。


「優子、今日は早く帰るから…」と夫は珍しくそんなことを言ってくる。


「晩御飯のリクエストは?」と聞いたら「肉じゃが」と言った。


 ふと初めに富田くんに作ったメニューだと思い、懐かしく感じる。


「どうかした?」と夫に声を掛けられる。


「え? 何も。肉じゃが作って待ってる」と慌てて笑顔を作った。


「最近…」


「何?」


「いや。行ってきます」と言って、夫は出て行った。


 夫は私が浮気でもしているのか、と思ったのだろうか。


(ビンゴ)と私は心の中で言った。


 そして長く休みをもらっていたスーパーに向かう。パート先で富田くんを見る度に変な罪悪感を感じてしまうけれど、彼は気にせず明るく挨拶をしてくれる。でも色々思い出すからパート先を変えようかな、と思いながら仕事を終えた。


「あ、佐々木さん」と富田くんに呼び止められた。


「あ、どうしたの?」


「僕、今日で最後なんです」


「そうだったの? お疲れ様でした」


「佐々木さんには優しく指導してもらって。あの…お渡ししたいものがあるので。佐々木さんだけ、特別です」


 そんなこと言われて、私はなんて言っていいのか分からなくなった。


「え? 私だけ?」


「すごく優しくしてくれて。他の人はちょっとイライラしてたりするんですけど…。佐々木さんだけいつも穏やかで」


「あ、それは…子供みたいに思ってたから」と私は少し恥ずかしくなって言う。


「父の会社に入るんです。それで辞めようかと。今日、車で皆さんにお配りするのを持ってきてて。ちょっと取りに行くんで、来てもらっていいですか?」


「あ、はい」と私は富田くんの後をついて、駐車場に向かった。


 富田くんは黒いセダン車に近寄って、後部座席から紙袋をいくつも持ってきた。


「これ、佐々木さんの分です。佐々木さんは甘いもの好きですか? 特別、大きいのにしました」


「あ、大好き」と言って紙袋を受け取った。


 きっと子供が食べてしまうかもしれないけど、これはこっそり隠して自分だけ食べようかなと考えた。


「じゃあ、ありがとうございました」


「こちらこそ。頑張ってね」と言うと、富田くんは紙袋を抱えてまたスーパーの中に戻って行った。


 私は紙袋の中身を確認して、歩き出そうとした。


「ゆうちゃん?」


 振り返ると、車から出た三十年後のこうちゃんが立っていた。

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