第35話
僕の女神様 永遠の夜
振り向くと、小さな女の子と手をつないで、いいパパになった悠希君がいた。
(そうだよね。あの後…いい出会いがあったんだ)と私は思った。
「あ、鈴ちゃん、ちょっと、入って」
「はる君、行こうー」と小さな女の子は悠希君の手を引いていた。
私は首を横に振って立ち去ろうとしたら「お願いだから」と荷物を持った手で遮った。
「…でも」
「ずっと会いたかった。お願いだから」
悠希君が真剣に言うから、私は立ち止まる。横にいた女の子が
「この人が、もよより好きな人?」と聞いてる。
「そうなんだ。ごめんね。お話したいから、一緒に家に入ってくれる?」と言うと、その女の子は私の顔をじっと見た。
「いいよ。はる君、ごめんなさいする?」
「うん。だから…」
荷物が大変そうだから、とりあえず中に入ることにした。ポストから鍵を取り出す。いつもの場所だった。アトリエは少しだけ変わっていた。小さな本棚に絵本が並び、下にはぬいぐるみがボックスにいれられていた。
そしてイーゼルには絵がかけられていた。
「…これ」
「うん。俺が描いたんだ。鈴ちゃんの…残した絵を模写して」
あの時、私は絵を持ち出すことができなくて、置いて行った。捨てられるかもしれないけど、私のこと、忘れないで欲しくて。それは打算的だった。
「ちょっとはうまくなったかな」
「すごく、上手」
「お手本が上手いからね」
「…ずっとここで描いてたの?」と私が聞くと、ノートを渡された。
交換日記に使っていたノートだった。
「絵はたまにだけど、このノートはずっと書いてた。描けない日もあったけど、ほぼ会社の帰りにここによって、日記を書いた。金曜は一人で泊まったりしてた」
私はそのノートを開けずにいると、女の子が近寄ってきた。
「はる君。ジュース」と言うから、悠希君は冷蔵庫から子供用リンゴジュースを取り出す。
「先輩の子、桃代ちゃん。先輩は残業だから、代わりに俺が、お迎え行って、しばらくここで預かってるんだ」
私が一番気になっていたことを話してくれた。桃代ちゃんは大人しくジュースを飲んで、本棚から絵本を取り出した。まだ字も読めないのだろう。絵ばかりの本だった。
「先輩の? 悠希君のお子さんじゃないの?」
「…結婚してないよ。あれから…」といって口をつぐんだ。
「私…ごめんなさい」
「どうして鈴ちゃんが謝るの? 俺があの時…冷静になれなくて、鈴ちゃんを傷つけたのに」
悠希君はきらきらしている。三年前と、…それより高校の頃と少しも変わらない。
「ここに来たのは…結婚するから…最後に…」
私は嘘を吐いた。悠希君のことが好きなのに、怖くて言えなかった。
「…そう…なんだ」
ノートは読まずに返そうとしたけど、受け取ってくれなかった。すると桃代ちゃんは私の方に走ってきた。
「お姉ちゃん、結婚するの?」
キラキラした大きな目で顔を覗きこまれる。
嘘を重ねようとしたら、涙が零れた。
「悲しいの? はる君がいじめたから?」
「そうじゃ…」と言いながら、私はどうして涙を流しているのか言えなかった。
突然、悠希君に抱きしめられた。
「鈴ちゃん」
久しぶりの匂いに私は懐かしくて、体中が温かくなった。足元にもふわっと温かさが加わる。下を見ると、桃代ちゃんまで抱きついていた。それが可笑しくて、私は笑ってしまう。悠希君も笑って体を離してくれた。そしてそのまま床に座って、桃代ちゃんの頭を撫でた。
「遅くなってごめーん」と玄関先で声がする。
「ママー」と桃代ちゃんが駆けて行った。
「ごめん。本当に。でも助かった…。あれ?」と先輩が桃代ちゃんを抱き上げながら、こっちを見た。
「はる君の好きな人ー」と桃代ちゃんが紹介してくれる。
「あ、どうも。あ…ら。ごめんなさい。あのお邪魔だから帰るわね。このドーナツ、食べて」と紙袋を悠希君に渡す。
「いや…これは…」
「しっかりやんなさい」と言って、玄関にドーナツを置いて帰る。
「荷物多いから…」と悠希君がお昼寝布団を持って出ようとすると「タクシーで帰るし、邪魔したくない。ひどい青葉の三年見てたから」と出て行った。
玄関に行くと、恥ずかしそうな顔で立っていた悠希君がいた。
「いや、そんなにひどかった…かな?」
「悠希君…ごめんなさい」
「だからどうしてそんなに謝るの? 俺が悪かったんだから。嫉妬して…あんなひどい事して…嫌われても仕方ないよ」
「嫌いになん…か」
「ここに来てくれたから、俺のこと…好きなのかなぁって勘違いしてた。恥ずかしい」
息が止まる。
「そっかぁ。結婚、おめでとう…って言いたいけど…」と言って、私の方を向いた。
まっすぐな目でそして少し悲しそうに笑った。
「言えないや。…でも幸せになって」
あなたのことが好きです。ずっと一生、変わらないまま…。
「私も…悠希君の幸せを願ってます」
「ありがとう。最後に…ドーナツ食べない?」と明るい顔で言ってくれた。
私は少しでもその笑顔が見たくて、頷いた。
「じゃあ、お茶でも入れるからさ」と小さな台所のガスコンロでお湯を沸かした。
「悠希君は、ここで絵を描いてたの?」
「たまにね…。飲み会の後、家に帰るの面倒だったりしたら、ここで寝たり…。休日もここでぼんやりすることもあったよ」
古い柱を触る。ここに寄りかかって座っている悠希君を思い出した。
「そこ、座り心地いいんだよ。晴れた日はガラス戸開けて、空を眺めたりして、通行人と目があったりすると気まずいけどね」
後ろから抱きしめられた。
「こんなことしたら…怒られるかな」
私は腕を振りほどけない。
「ずっと夢見てた。君がここにいるのを…。三年は長かったよね。ごめん」
なぜか悠希君が謝る。
「電話したの…。通じなくて…。悲しくなった」
別れてすぐ、電話してしまったことがある。繋がらなくて、その日は何度も電話した。
「鞄を電車に忘れて。それでスマホ…盗られちゃって。電話番号…ちゃんとメモしとけばよかったって。お店にもいったけど、もう辞めてしまった後みたいで…」
お店は怖くて、二度と行ってなかった。ずっと悠希君の腕の中にいたい、と思ったけど、お湯が沸いたから、腕を解いて台所に行った。
「私はもう会いたくないのかと思ってた。あんな人に…会いに行ったりしたから」
「鈴ちゃん…。それは違う」
悠希君は紅茶を入れてくれて、小さなテーブルに乗せてくれる。ドーナツも紙皿に出してくれた。
「エコじゃないけど…」と私の方に差し出してくれる。
「本当に鈴ちゃんが好きだったから嫉妬してしまって。責めるつもりなかったのに。なんだか自分が情けなくて」
「私は…そんな…悠希君が思ってくれてるような…じゃなくて。打算的なところもあるし…」
ドライイチゴのトッピングされたドーナツだった。
「…俺さ。鈴ちゃんのこと、分かってないし、勝手に想像してたけど。…練習遅れて行って、いつも美術部の前を通る時、窓から少しだけ覗いてた。一生懸命、絵を描いてる鈴ちゃんが可愛くて、綺麗で。いつも遠回りして体育館行く前に通って見てた」
「え…」
「だから…嬉しくて。この部屋まで借りてしまって。でも…嫉妬深くて、それで傷つけて」
「そう…なんだ」
気が付かなかった。そう言えば、視線を感じて、二回ほど、目が合うと、さわやかに手を振ってくれたのは覚えてるけど、偶然だと思ってた。
「私…」
「なに?」
柔らかく微笑まれると言葉が粉々になる。
「絵の具…ホームにバラバラ…。あの時…」
「ん? あの時?」
あの日、絵具箱の留め金が一つ外れているのに気が付いていた。ホームで直そうと思った時、向いのホームに青葉君がいたことに気づいて、でも私は臆病で手を触れなくて、気づいて欲しくて、もう反対側の留め具を外した。
散らばる絵具を見ながら、ホームの向かい側の青葉君を見た。
手を振ってくれることを期待していたのに、顔を背けられた。横から差し出される絵具は家庭科部の先輩が拾ってくれていたものだった。
「…手を振れなくて…。絵具を…落としたの。私に気づいて欲しくて」
悠希君の目が大きく開いた。
「卑怯な…手を使って…ごめんなさい」
「鈴ちゃん」
また抱きしめられた。青葉悠希君の匂い。私の青春だった人。
終電を逃した私たちはずっと思い出を話していた。夜が永遠だったらいいのに、と思った。
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