第36話

僕の女神様 


 月曜日、出社するとそわそわと近づいてきた愛先輩が笑顔で俺を見た。


「うまく行った?」


「行きませんよ」


「え? どうして? うちの子…何かした?」


「桃代ちゃん関係ないですよ。彼女…結婚するそうです」


「嘘!」


「だったらいいですけどね」


「じゃあ、私と結婚する?」


「傷心中だから…辞めておきます」


「…青葉…一夜で年取ったね」


「そう…かもしれないです」


 あの時、鞄を電車に忘れなければ、あの時、俺がもっと優しく話すことができれば…あの日、反対側のホームで俺が手を振れたら…と後悔はしきれなかった。でもこれだけうまく行かないのは二人はうまく行かない運命なのかとさえ思えてくる。



 二人で明け方まで喋って、部屋がゆっくり明るくなるのを見ていた。前と別れた時と同じだ。でも今は鈴ちゃんと俺は一つの寝袋を頭に敷いて、並んで天井を見ていた。木目がいろんな模様に見える。


「鈴ちゃん…。もうこの部屋、解約するよ」


「…はい」


 楽しかった思い出より、一人でこの場所でじっとしていた記憶の方が多い。


「絵はもらっていい?」


「じゃあ、私は悠希君が描いたの…もらっていいですか?」


「そんな…俺のなんて」


「きっとすごく時間かけて描いてくれたんですね。絵具が…盛り上がってて…。三年の長さを知りました」


「鈴ちゃんへの想いを乗せてみた」と冗談っぽく笑いながら、本当のことを言う。


 君がいないこの部屋で、君が描いた絵の模写をして、俺は一体、何がしたかったのか自分でも分からない。


「…悠希君。本当にありがとうございます」


「手をつないだら…怒られないかな」と俺が聞くと、鈴ちゃんから手をつないでくれた。


 冷たい指先がなんだか悲しくて、包むように握った。


「ずっと応援してくれて、私、勇気がでました。だからこれからも絵を描きますね。いつか美術館の壁に展示されるように」


 天井を見たまま言うから言葉が降ってくるようだった。


「これからも応援してる。いつでも辛いときは頼って欲しいし、いつか展覧会ができた時は教えて」


「…はい。必ず」


 俺たちは携帯を失くすかもしれないから、とお互いの絵の後ろに電話番号、住所、メールアドレスを書いた。そして駅まで鈴ちゃんを送って、俺はまたアトリエに戻った。部屋を片付ける前に少し眠った。



 季節が変わって、残暑も薄らいだ頃だった。アジア支社で働いていた上司が帰ってきたと、社内で噂が回った。


 外のランチに愛先輩から誘われて、いきなりお願いされた。


「あの…悪いんだけど…、金曜日にお迎え行って…桃代を預かってくれない?」


「え? もうあの部屋解約したんですけど?」


「あ…そうよね。えっと、じゃあホテル代出すから、そこで待機してて」


「協力はしてもいいですけど…なんですか?」


 観念したように、今度アジア支社から戻ってくる人が桃代ちゃんのお父さんだと言った。


「え? 桃代ちゃんのこと…知ってるんですよね?」


「彼が向こうに行ってから、気づいたのよ」


「付き合ってないんですか?」


「付き合ってないわよ」


「じゃあ、どうして…」と口をつぐむ。


「好きだから…仕方ないわよ。とりあえず、知られたくないの」


「そうは言っても…いつかバレますよ」


「…青葉の子にしていい?」


「えええ」と俺は思わず声が出た。


 愛先輩…嫌いじゃないけど、とため息を吐く。


「とりあえずお預かりしますけど…。今後、どうするんですか?」


「それは…」


 答えられずに俯いた。なんだか、鈴ちゃんを思い出した。


「まぁ、ゆっくり考えてください。味方になりますから」


 そういうと、愛先輩がハンカチで目を押さえた。鈴ちゃんは幸せだろうかとふと思った。


 金曜日にやって来た新しい上司はスポーツをしていたのか肩幅が広くて、でも少し愛嬌のある顔で、桃代ちゃんを思い起こされた。愛先輩は澄ました顔で仕事をしている。


 上司が近づくと、愛先輩は席を立ってどこかへ行ってしまった。


「こんにちは。えっと…」


 仕方なく俺に話しかける。


「青葉悠希です。よろしくお願いします」


「青葉くん。ちょっと話があるんだけど、いいかな?」


 ここではできないのか、場所を移すように促された。さらっと空いている会議室を使用中に変える。


「あのね…。あ…石崎さんが出産したって聞いたんだけど」


「あ…そうですね」


「君が父親?」


「へ? あ、すみません」と変な声が出たことを謝った。


「社内の噂で君が父親とか聞いて…。本当?」


「違います」


「じゃあ…僕か」


 それは「はい」とも「いいえ」とも言えない。


「その様子だと父親が誰か知ってるんだ?」


 さすが短期間で上り詰めただけある。俺の固まった表情だけで理解する。


「いえ…それは…」


「いや、今ので分かったよ。彼女は何も言わないから…」


「でも…お付き合い…されてないって…」


「そこまで聞いたんだ?」


 俺は墓穴を掘り続けているのかもしれない。


「そろそろ…し、仕事に戻らないと…」と後退りをする。


「そうだね。彼女には何も言ってないって。僕も何も聞いてないってことにするから。後ね…もう君は首を突っ込むべきではない」


「…は…い」


 愛嬌ある顔に凄みが出て、怖かった。俺は脱兎の如く机に戻った。すでに戻っていた愛先輩が


「どうしたの?」と心配そうにいう。


「お腹…壊して…」


「えー? 大丈夫?」


「お迎えは行けると…思い…ます」


「ごめんね。助かる」と言って、予約してくれたホテルのアドレスを送ってくれた。


 終業後、速やかに俺は会社を出た。愛先輩のことに関わるな、と言われたのもあるが、園のお迎えは伸ばせない。


 迎えに行くと相変わらず


「Daddy is comming!」と言われる。


「はるくーん」と走ってくる。


 俺は昼寝布団を肩にかけて、手を繋いで歩く。小さな手が心を温めてくれる。


「はるくん。あそこ、行きたい!」


「あそこ?」


「はるくん家」


「そこはもう…引っ越したんだよ」


「…でも行きたい」と手を引っ張るから、散歩がてらにいいか、と思った。


 俺もちょっと興味があった。どうなってるのか見てみたい。


 共同の門を潜って中庭を井戸を横目に通る。俺が借りてた部屋から灯りが漏れ、数人の笑い声が聞こえて来た。


「もう誰か借りてるね」と桃代ちゃんに言うと、桃代ちゃんの背丈より小さな看板が置かれていた。


「絵画教室 アトリエ すず」


 桃代ちゃんは看板に描かれている花の絵を指でなぞっている。

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