第37話
僕の女神様
悠希くんと別れて、私は高校の非常勤講師をしながら、自分の作品を作ってみた。そして応募しては落選するという時間を過ごしていた。それでも落ち込むことは少なかった。何よりも努力をしようと自分で決めていた。悠希君が応援してくれていると思うと勇気が出た。
交換日記を読むと悠希君の想いが詰まっていた。
「鈴ちゃん。
昨日見た夢は鈴ちゃんの絵が美術館に飾られているのを二人で見たという夢でした。
心から…すごく幸せな気持ちでした。
君が成功したから、嬉しくなって、一緒に手をつないで、ぶんぶん振り回して喜びました。
そんな日がいつか、きっと必ず来るから。ここで待ってます」
交換日記には楽しいことしか書かれていなかった。辛い事もきっとあったはずなのに、嬉しい事、よかったこと、立ち食いうどんが温かくて美味しかったみたいな、ほんの些細なことだけど、幸せなことばかりで埋まっていた。それがどれだけ悠希君と、私のために書かれたのか伝わったから。落ち込んでいる暇はなかった。
恵梨ちゃんとも連絡を取って、二人展をしようと話しを進めると同時に、私はやはりあのアトリエを借りることにした。幸い、まだ借り手が付いていなかったので、すぐ借りれた。
古いアパートは英会話をする場所や、ヨガレッスンをする場所として借りている人もいたから、私もアトリエ兼絵画教室として借りれるか聞いてみると、すんなりOKが出た。改装も壁をぶち抜くとかでなければしてもいいと言ってくれた。
カルチャーセンターの講師は辞めて、自分の教室を始めることにした。カルチャーセンターから移動してくれる生徒さんも何人かいて、嬉しくて、気持ちがさらに上向きになる。夏の暑い時期に、いろいろDIYをして、ちょっとすてきなアトリエになったと思う。板張りの床、壁は卵色にした。DIYは恵梨ちゃんも手伝いに来てくれた。
「男手がいりますね。今度、連れてきます」と言って、恵梨ちゃんの好きな人とその友達二人を連れて来てくれて、一緒に作った。
本当に男の人がいて助かった。工具もいろいろどこからか持ってきてくれて、うまく作ってくれる。
「アトリエ素敵ですね」と恵梨ちゃんが汗を額に浮かべながら言ってくれる。
「ありがとう。手伝ってくれて。本当に助かりました」と私は恵梨ちゃん、その他の方たちにお礼を言う。
手伝ってくれた光輔君という人がなぜかかき氷器を持ってきてくれて、みんなでかき氷を食べながら、ガラス戸を開けて広がる夏の空を見上げる。
「夏って感じだねぇ」と恵梨ちゃんが微笑む。
「はい」と私は悠希くんと過ごせなかった夏を思い出す。
恵梨ちゃんは私が失恋したことを分かっていそうなのに、何も聞いてこなかった。
「しかし…かなり古いなぁ」と手伝いに来た佐伯さんという人が感動したように言う。
そして私がお金がないのが分かったようで、自分が経営しているカフェで二人展をしたらいい、と言ってくれた。
「いいんですか?」
「いいよ。恵梨ちゃんの絵は好きだし、恵梨ちゃんが素敵な絵を描く先輩だからって言ってるし」と言ってくれた。
「わーい。佐伯さん、大好き」と恵梨ちゃんが言うと、恵梨ちゃんの好きな男の人、淳之介さんはちょっと口を曲げた。
「ありがとうございます」と私は頭を下げた。
そんな風にほんの少しだけ前進した気がする日々だった。
夜はすっかり気温が下がって、涼しい日だった。夕方のクラスが終わろうとしていた時だった。
「あー、だめだー」と還暦過ぎた男性が絶望的な声を上げる。
絵を描くのにそんなに絶望することがあるのか、と誰もが一瞬、黙りこんで、すぐに笑い声がはじけた。みんなの明るい笑い声にちょっと照れながら、その男性も笑った。
「大丈夫ですよ。油絵は何回でも、何度でも描き直せるので、好きなだけ、納得いくまで描いてくださいね」と私が言うと、みんなも「そうそう」と言ってくれた。
生徒さんが後片付けをしている間に、玄関に灯りをつけようと表に出た。
「鈴ちゃん…」と悠希君と桃代ちゃんが立っていた。
「…悠希君」
私は思いがけず出会えたことに驚いて動けなかった。
「おめでとう」
「え?」
「アトリエと…絵画教室を始めたんだ」
「…そうなの。今から、夜の部があって…」
「うん。また今度…中を見せて欲しい」
「どうぞ。もし、時間があったら見学もできるの」
「…そっか。ご飯…桃代ちゃんに食べさせてから来てもいい?」
「ぜひ、来て」
「じゃあ、後で」と悠希君と桃代ちゃんが去っていった。
桃代ちゃんが振り返って、手を振る。
生徒さんたちが、ぞろぞろと出てきた。
「先生、今から私たち、みんなで晩御飯行ってきまーす」と生徒さんたちが楽しそうに出ていった。
夕方の時間はみんなリタイアした人たちが多いので、時間も比較的あるのか、そして仲がいい。
「いってらっしゃーい」と私は明るく手を振った。
夜の生徒さんは趣味で絵を描きたいという会社員もいるけれど、美大のためのデッサンをしにくる生徒もいる。モティーフを用意しなければ、と慌ててアトリエに戻った。美大受験のために、いろんな素材を組み合わせる。ガラス、布、果物等、それぞれ描き分けられるようにならなくてはいけない。
悠希君がどうしてここに来たのか分からないけれど、また会えて、素直に嬉しかった。
モティーフをセッティングすると、リンゴの匂いが立った。
夜の部が始まって、三十分ほどで、悠希君が来た。私は桃代ちゃんが退屈しないように画用紙と色鉛筆を渡した。桃代ちゃんは賢く座って絵を描き始める。絵を描く人たちは真剣で、話し声は一つもない。デッサンをしている鉛筆の音が聞こえる。
「…俺も習いに来ていい?」
悠希君はみんなが描いてるのを見て、そう言った。
「一度、体験してみますか?」
「うん」と言うので、私は悠希君にもイーゼルを渡すと、デッサンをしてみたいと言った。
ケント紙と画板を渡して、鉛筆と練り消しで絵を描くことを伝える。
「やったことある?」
「ないけど…やってみる」
しばらく描いていると、桃代ちゃんが少し飽きたようだった。それで慌てて、悠希君はデッサン用紙を置いて私に「また後で来るから…」と出て行った。
私はみんなの絵を見ながらアドバイスしていく。悠希君の描きかけのデッサンの前を通るたびに私はちょっとだけ気持ちが温かくなった。デッサンの人たちは、絵を並べて講評会をする。油絵の人はそれを見て帰ってもいいし、参加せずに帰ってもいい。
悠希君のは横によけて、他の人のデッサンのアドバイスをしていく。
真剣に聞く横顔を見ながら、私も含めて、ずっと絵とこの気持ちで向き合えることを祈った。全員が帰っても、悠希君は戻ってこなかった。私はアトリエの片付けをしていると、スマホが鳴る。悠希君だった。
「ごめん。ちょっともめてて…。でももう出られるから、あの…待ってて」
「え? 大丈夫ですか?」
「うん。本当にごめん」
私はいつもなら、モティーフの生ものを食べたりするのだけれど、悠希君が戻ってきて、リンゴがないと構図的に良くないので、今日は食べずに我慢した。晩御飯を食べる時間を過ぎていたので、冷蔵庫の中を開けると、冷えたバナナがあった。モティーフにしようと買っていたものだ。
「んー。昨日のモティーフの食パンは食べちゃったしなぁ」と呟きながら、ちょっと表に出て何か食べるものを買いに行くことにした。
月が綺麗で夜空が澄んでいる。悠希君が習いに来るなんて思ってもなかったけれど、それだけで嬉しくなる。私はコンビニに入って、おにぎりを買った。
(あー、これもビニールとラベルの紙の質感と…ご飯。いいモティーフになるなぁ)と最近はどんなものを見てもデッサンの素材に見える。
ペットボトルのお茶もガラスとは違う質感があるし、と思いながらレジに進んだ。その時、電話をしながらスーツ姿の大柄の男の人が入って来た。私が目に入らなかったみたいで、ぶつかられてしまう。おにぎりが落ちてしまった。
「すみません」と言われた。
「あ、大丈夫です」と言うと、拾われて「僕が払います」と言って、また電話で「ちょっと、フェアじゃない。すぐ行くから」と強めの口調で言う。
電話しながら私の買い物の会計を済ませてくれる。
「あの…そんな」
しかし私の声は届かないみたいで、自分は充電器を買って、表に出た。
「鈴ちゃん」と悠希君に声をかけられたが、同時にその男の人が「青葉さん」と悠希君を呼んだ。
「え? 何があったの?」と悠希君は言ったけれど、男の人がすごい勢いで「石崎さんがどこにいるか知っていますか?」と聞いた。
「先輩なら…」と観念したように、居場所であろうホテル名を告げる。
「ありがとう。それから、すみません」と最後は私の方に言って、去って行った。
「どうしたの?」
「…いや、まぁ、鈴ちゃんも? 知り合いだった?」
「ぶつかられて…おにぎり落としちゃって。それで支払いしてくれただけで、さっき偶然会った人だけです」
「俺の会社の…上司で…多分、桃代ちゃんのパパ」
「え?」
「あー、俺は明日、先輩に殺される」と青ざめた顔をしていた。
「言っちゃいけなかったの?」
「うん。…俺、桃代ちゃんをホテルで預かってて、先輩が来たから戻ろうとしたんだけど…。桃代ちゃんのパパに何か話したかって言われて。まぁ、話しちゃったんだけど…。それで…揉めて、なかなか出てこれなくて。遅くなってごめん」
「それはいいんですけど…。大丈夫かな?」
「かなり不安…」と悠希君がちょっと困ったような顔で眉間に皺を寄せる。
「大丈夫なように祈ってますね」
「鈴ちゃん、もう帰らないと…。ごめん。引き留めて」
「大丈夫ですよ」
「え? でも…結婚して」
私は嘘をついてたことを謝らなければいけない。
「結婚は…ごめんなさい」
「え?」
嫌われてしまうかもしれないと思いながら、嘘をついていたことを告白した。私は自分に自信がなかったことを、このままでは良くないと思ったということを悠希君に告げた。
「…どうして」
「悠希君がキラキラしてて。私はなんだか自分がくすんでしまったように思えて」
「くすんでなんか…」
「絵を描きたいって思ってたのに、私…」
高校の非常勤講師として働き始めて、付き合った人がいることを伝えた。
「好きだったの?」
首を横に振った。告白されて、日々、日常に流されて、という言い訳は口に出せなかった。
「それで、俺に嘘ついたの?」
私は優しく聞かれて、頷いた。
「鈴ちゃん…俺は、どんな鈴ちゃんでも一緒にいたいんだけど」
おにぎりとお茶が入った袋を持った手を握られた。アトリエに着くまで、無言だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます