第38話
僕の女神様
アトリエに着くと、鈴ちゃんは電気をつける。俺がいた時とは別の部屋のようにきれいになっている。
「後輩の恵梨ちゃん…覚えてますか? あの恵梨ちゃんとその好きな人とお友達に手伝ってもらって」と板間になったアトリエに置かれたテーブルの椅子をすすめてくれた。
鈴ちゃんは俺に断って、おにぎりを食べ始めた。相変わらずかわいい食べ方をしているなぁ、とぼんやり見てしまう。
「お腹空いてますか?」
「ううん。違う、違う」と俺は慌てて否定する。
もぐもぐと一生懸命口を動かしている鈴ちゃんはやっぱり可愛くて、好きな人だ。離れている間に、誰かと付き合っていたと聞いて、ショックじゃなかったと言えば嘘になるけど、でも今、目の前にいてくれる。それだけでいいんだ、と三年で思えるようになった。
「絵、うまくなるのは難しいね」と俺は自分が描いた描きかけのデッサンを見て、ため息をついた。
「大丈夫ですよ。いい先生がいますから」と鈴ちゃんは冗談を言った。
ちょっと今までとは違っていて、まっすぐ前を向いている。
「でも俺が上手くなるまで待っていられなくて…」
「え? 何かあるんですか?」
「鈴ちゃん。あのさ、お願いがあるんだ」
「何ですか?」
「俺…本を出したくて」
そんなことを言うと、鈴ちゃんは驚いた顔を見せる。
「アメリカ横断した話…覚えてる?」
「はい」
「そのことを描きたくて。…鈴ちゃん、絵を一緒に描いてくれないかな?」
「本の挿絵?」
「うん。でも、俺が見た景色を伝えたくて。一緒に本を作って欲しい」
鈴ちゃんは目を大きく開けて、驚いて言葉が出ないようだった。
「鈴ちゃんなら、俺の見た世界をきっと描いてくれると思うから」
「でも…本を出すお金なんて…」
「まぁ、お金はなんとかするから。それでフリマで売ったりしよう?」
「フリマ?」
「文学フリマとか…。ネットとかでも販売できるし」
俺は何か一緒に鈴ちゃんと作ってみたかったし、俺が絵を描けるようになるまでにはきっと果てしなく時間がかかってしまう。
「もし売れたら、半分こしよう」と言うと、鈴ちゃんは笑った。
「経費が出てからですね」
まぁ、売れなくてもいいんだけれど、俺は何か一緒にしたいと思って言った。
「鈴先生はお忙しいとは思うんですけど…」
「…じゃあ、水彩で描きましょう。そしたらちょこちょこ進められるので」
「ありがとうございます」と俺は頭を下げた。
(ちょこちょこって言い方可愛いなぁ)
「そんな…。悠希君はいつも応援して下さってて、私が今度はお手伝いする番です」
「鈴ちゃん…」と俺はテーブルの上におでこをつける。
「どうしたんですか?」
「ううん。幸せだ…って思ってた」
「幸せ?」
「そう。こうして鈴ちゃんと一緒にいられることが…嬉しい」
「私も…来てくれて嬉しいです」
「鈴ちゃんの顔を描いていい?」
「え?」
「あんまりうまく描けないとは思うけど」と言って、俺は描きかけのデッサンを裏返して、鉛筆でイラストを描いた。
丸い顔に長いストレートの髪と、小さな目と口。
「…あれ? なんか違う」と自分で描いてもおかしいと思った。
鈴ちゃんが覗き込むと「ゴマ粒みたいな目ですね」と言った。
「う…いや、なんか、可愛くしようと思ったんだけど」
俺がどうにか自分の絵をフォローしようと思っているけれど、鈴ちゃんは笑ってくれた。
「まったくダメです」と言われて思わず顔を上げる。
まだ笑顔のままで「いいですか。そもそも紙には裏表があるんです。裏に描いちゃだめです」と言った。
「はい」
「それから…女性の目を描くときは実際よりちょっと大きく描いてあげてください」
「はい」
「後…とっても気に入りました。ありがとうございます」
「はい?」
「次は表にちゃんと描いてくださいね」と言って、新しい紙を用意してくれた。
そして先に俺のイラストを描いてくれる。ちゃんとつんつんした髪型と細い目を描いてくれて、デフォルメされているが、なかなか恰好良く見えるイラストだった。その横に俺が鈴ちゃんのイラストを描く。さっきより少し目を大きく描いた。
イラストの二人は横に並んで立っている。
「なかなか今度はいいですね」と鈴ちゃんが言って、紙を自分の方に寄せるとイラストの俺たちの手を消した。
そしてその手が繋がれるように描き直す。
「いつか…本が出た時、このイラストも載せましょうね」と微笑んだ。
一緒に本を作る。俺は幸せな気持ちになった。同じ方向を見て、その先もまだ続いていくのか分からないけれど、不安で今のわくわく感を失うことはもうない。鈴ちゃんはイラストの俺の足元にバスケットボールを描き足した。
高校の頃はバスケットボールをしながら彼女を見ていた。好きなのにどうしていいか分からなくて、そのまま遠くなった青春。
「もう一度、好きになっていいですか?」
イラストを見ていたら、胸が苦しくなって、俺はいつかの鈴ちゃんみたいに聞いていた。
「私も…好きです」
鈴ちゃんはイラストに足元に散らばった絵具を描いた。
「それ…消していい?」と俺は紙を取って、消して、そして鈴ちゃんの足元に絵具箱を置いた。
ようやく絵具を俺は拾ってあげれた。それまでに何年かかっただろう。
「ちょっとパースが歪んでます」
確かに絵具箱は奥が大きくなっている。それを鈴ちゃんが手直ししてくれた。
「ありがとうございます。…青葉君…好きです。高校生からずっと…」
久しぶりに苗字で呼ばれて、あの頃に戻った気がした。あの時の夏休みのように夏をスキップして二人でいる。
秋が近づく深夜。どこかにいる虫の声が聞こえる。
「松永…鈴ちゃんは俺にとって、ずっと…憧れで、支えで…。だから」と言って、鈴ちゃんの手を握る。
一緒にいたいと言って、イラストの二人のようになれたら素敵だと思った。
鈴ちゃんが椅子から立ち上がったと思ったら、ふっと頬に唇が当てられた。その瞬間、虫の音も聞こえなくなる。息も心臓も止まった。
「はい」と微笑む女神様だけがそこにいた。
〜終わり〜
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