第29話
僕の女神様 アトリエ
自分の中の嫌な部分が青葉君の前ではさらに汚く見えたから走って逃げてしまった。絵が好きでただ描いていたあの頃の自分に戻りたい。雑誌社の人の名刺を捨てられなかったのも自分だし、個展に行って羨んでしまう気持ちも今の私だ。
青葉君には知られたくないことばかりだ。
「松永さん」と後ろから声をかけられた。
追いかけてきたようだった。私は振り向けずに立ち止まってしまう。
「落とし物…」
そう言われて、何かを落としたのかと思って振り返る。
「あの日、拾えなくて…」
青葉君はまっすぐ私を見て言うから、あの日のことがホームで私が絵具をまき散らしたことだとすぐに分かった。
「ずっと後悔してた。線路の向こうだったって。彼氏がいるのにって。今更って…。他にも…たくさん言い訳して。あの時、動けなかった自分が情けなくて、ずっと後悔してた」
首を横に振る。私は青葉君が後悔するような人間じゃない。きらきら光って見える青葉君と私には電車の線路以上の隔たりがある。
「青葉君がそう思ってくれてただけで…私にとっては幸せだから」
これ以上、醜い自分をさらけ出せない。
「じゃあ…。絵、絵を教えて欲しい」
突然、思い付きで言った言葉に私は動けなくなる。
「だから俺の絵の先生になって」
「どう…し…て?」
「さっきも言ったけど、松永さんのことも、松永さんの絵も好きだから」
「あの卒業アルバムの? それだけで?」
必死に頷く青葉君に私はそれが嘘でも「嘘つき」とは言えなかった。
「…画材屋行こう。今から準備するから…」
「でもどこで描くの?」
「…」
アトリエがいると無理難題を言うと、青葉君は私に近づいて「不動産屋に行こう」と言った。
「え? 部屋、借りるの?」
「うん。そうしよう」
真剣に言うから私は引き返せない嘘の結末はどうなるんだろう、と少し興味が出てきた。画材を買うまではいいけれど、部屋を借りるとなると大がかりだ。
「今から、行こう」
不動産屋は日曜日でも空いている。
「どこで借りる?」
「それは…青葉君の会社の近くじゃないと…。習うんだったら、その方がいいでしょ?」
「うん。そうだね。そこから会社に行ってもいいし。俺が一人暮らしする感じで…」
青葉君は本気で考えているようだった。不動産屋前で、張り出された物件を見る。新入社員にそんなお金がある訳でもなく、安い家賃を探したけれど、希望は叶わなかった。
「私のアトリエだったら、私も払わないと…」
「僕が寝泊まりするんだから…」
「でも…少しは出す。だって、アトリエだから」
そんな話をしていると、中から人が出て来て「物件、たくさんありますよ」と言ってくれた。
綺麗な部屋じゃなくてもいい、と青葉君が言って、四万弱のボロアパートにすぐに内見することにした。都会なのに、駅から少し歩くと、古いアパートがある。共同の入り口を通ると、中庭があり、古い井戸があった。
「なかなか雰囲気あるでしょう?」と不動産屋さんも困ったように笑った。
古い建物は変な形の二階建てで、その一階になるという。
「住人は…外国の方も多いですけどね。その分、気楽と言うか。風呂ありで、この価格はすごいですよ」
見せてもらった部屋は二間の和室と小さな台所、和式トイレとシャワーのない古いお風呂だった。
「丁度、裏の塀が壊れてて、でもおかげで日当たりがいいんですよ」と言って、奥のガラス戸を開ける。
塀は大木の成長によって壊されていた。木陰が揺れて、光も入って来る。普通の人が住むには少し躊躇するかもしれない。でも私はこの部屋の光が気に入った。畳の部屋だけど、アトリエにするには良さそうに思える。
「あ、壁にひびが入ってるんですけど、家賃がもう少し…」
なんて、隣で青葉君が言っていた。
「えーっと、それは…契約されるのでしたら、ちょっと交渉…しますけど」
今日、思いついて不動産屋に行って、今日、私のアトリエ兼、青葉君の部屋を契約した。
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