第30話

僕の女神様 引っ越し


 部屋を借りてわくわくしっぱなしだ。翌週、俺は松永さんと一緒に奥の部屋にはフローリングマットを敷いた。絵具が畳の上に落ちないように、落ちても取れやすいようにと。松永さんは絵具セットとイーゼルと運んできた。俺はすのこにマットレスを置いて、寝袋をその上に置く。


「寝袋?」と松永さんは驚いたような顔をするけれど、それでよかった。


 平日は家に帰ろうと思っていたからだ。小さな冷蔵庫とこたつを手前の部屋に置いた。松永さんが座椅子を二つプレゼントしてくれる。


「後はおいおい揃えて行こうかなって思ってて」


「…私のためのアトリエみたい」


「いや、そんなことないよ」と言いながら、そうだといいな、と思った。


 俺が会社で仕事をしている間に、松永さんが来て、絵を描く。そしてバイトへ向かう。一緒にいるのはきっと週末だけだ。


「私も…泊まっていいですか?」と松永さんが言うから驚いて、俺は頷いた。


「寝袋買ってくるね」


 綺麗な笑顔で微笑まれた。あの時、悲しそうだったけれど、それは終わったのだろうか。心配していたが、こちらから切り出すことはできなかった。


「あの、ちょっとお願いがあるんだけど」と俺は意を決して言う。


「何?」


「名前…で…鈴ちゃんって…呼んでいい?」


 松永さんは驚いたような顔で、でもしばらくすると頬が赤くなって頷いた。


「す…ずちゃん」


「はい…。悠希…くん」


 成人したというのにお互い、十五、六歳のような照れ方だ。呼んだことも呼ばれたことも恥ずかしくて、でも下の名前でずっと呼びたかった。


「これからよろしくお願いします」と俺は改めて言う。


「こちらこそ」


 松永さん…、鈴ちゃんにまた会えた。あの頃のように近くにいる。


「毎日…来るつもりなかったけど、もし…」


「バイトがあるから私、お帰りまでいませんけど…手紙置いておきましょうか?」


「え?」


「何かノートに書いて。もし来られたら見てください」


 そんなことを言われてしまったら、俺は早速、鈴ちゃんのいないアトリエに寄った。油絵の独特の匂いが溜まっている。こたつの上にノートがある。寝袋も増えていたし、ラジオがイーゼルの横に置かれていた。


「十月九日 初めまして。こんにちは。悠希君。ありがとう。素敵なアトリエ。今日は最初なのでこのアトリエから見える擦りガラス越しの向こうの大木を描きます。久しぶりの油絵楽しみ。イラストの仕事もしてるから、ちょっと眠くて、昼寝しちゃうかも。じゃあ、またね P.S.油絵の匂い臭くない?」


 イーゼルに掛けられた絵を見に行くと、ささっと描かれている下絵があった。俺はそれをスマホで撮る。少しずつ出来上がる絵が楽しみだ。


「十月九日。初めまして。こんばんは。鈴ちゃん。嬉しい、嬉しいっていう気持ちが、文才ないから書ききれないくらい。小さい頃に夢だった秘密基地みたいでわくわくしています。それから、たっぷり寝てください。俺もこれから寝ます P.S.家に帰るし、匂い大丈夫。」と書いた。 


 毎日、毎日、アトリエに寄っては交換日記を書いた。


 平日、鈴ちゃんのアルバイトがお休みの日はアトリエで待っていてくれた。


「おかえりなさい」


 その一言でめまいがする。


「ただいま」と言って顔が赤くなる。


 鈴ちゃんがお弁当屋さんに行ってくれてて、から揚げ弁当を買って来てくれていた。


「食べましょ?」と嬉しそうに微笑む。


「うん。ありがとう。いくらだった?」


「いいです。アトリエ代、たくさん出してくださってるし」


「そんな…たくさんじゃ…」


「だって、結局、悠希君は家に帰ってるでしょ?」


「まぁ、着替えとか洗濯とか…甘えてて」


「だから本当は必要ないのに…」


「ううん。絶対、必要。俺、今、すごく楽しいし、仕事もすごく頑張ってて」


「いつか私がちゃんと払えるように…」


「気にしなくていいよ」


 俺はそう言って、から揚げ弁当を受け取ろうとした時、鈴ちゃんが両手で俺の手を掴んだ。


「あの…」


「…はい?」


「ありがとうございます」


「うん。俺もありがとうございます」


「好きになっても…いいですか?」


 許可制だったのだろうか、とくだらないことを一瞬考えて、俺は首を横に振って「好きなんだ、俺が」と言った。


「あ、でも。私、ほんとに…嫉妬とかしちゃうし、それに打算的だし、人のこと羨んだり…」と俯いて言うから、鈴ちゃんの手を振りほどいて、抱きしめた。


「それは一生懸命生きてるから、でしょ? 誰かのこと羨んだり、打算的になったりって、一生懸命だからじゃん」


 抱きしめた体は柔らかくて温かくて、震えていた。


 キス。


 ファーストキスじゃないけれど、俺は覚えていたかった。そっと顔を寄せて唇に当てた。

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