第33話
僕の女神様 大好きな人
悠希君は大好きな人だった。
叶わない初恋が叶ったと嬉しかった。でもやぱり初恋は叶わないんだな、と私は思って、バイト先に向かう。マスターに申し訳ないけれど、ここで働くことができない。正直、怖かった。またあの人が来るかもと思うと怖かった。
キスが原因じゃない。私たちがダメになったのは、私がちゃんと話していなかったからだ。でも嫌われるのが怖かった。一度でも私があの人に会ったことは私にも下心があった。絵を描く世界に行けるんじゃないかと思わなかったと言えば嘘になる。そんなことを悠希君に言えるはずなかった。
悠希君の中では私はまだ純粋な高校生と同じだと思っていて欲しかった。
(私の打算的なところも一生懸命だから、と言ってくれたけれど…私は自分で許せなかった)
マスターは驚いたけれど、待ち伏せされていたことを言うと「仕方ないね」と諦めてくれた。
「長い間…お世話になりました」
「松永さん辞めると…本当に困るし、淋しいけど…」と言ってくれて嬉しかった。
私は新しいバイトを探さなくてはいけない。でも当分、何もする気が起きなかった。そしてバイト先を出ると、不意に涙が零れた。スーツを着た若い男性を見ると、胸が痛む。
アトリエに行ったら、また会えるのだろうか、という気持ちを必死に抑えて、私は家に戻った。
最後に悠希君が苦しそうな顔で私を抱いたとき、何度も「愛してる」と繰り返えしてくれたのに、私は何も返せなかった。
今は大好きな人が幸せになれるようにと祈るしかできない。
それから三年経って、私は昼間は高校の美術の非常勤講師をして、夜はカルチャーセンターで絵を教えたりしていた。高校は母校じゃないけれど、あの頃の私たちをそこかしこで見る気がした。若くて、元気で、そして何も知らない向こう見ずな力を持った生徒たちはきらきらしていた。
幼さと大人の狭間で光り揺れる時間を近くで私は感じていた。
私は働き先の高校で知り合った英語の先生と付き合っていた。
映画を見た後、ちょっといいレストランに連れて来てくれる。注文は全て彼がしてくれた。
「鈴は…どう考えてるの?」とメニューをウエイターに渡しながら聞く。
「え?」
「結婚のこと」
「結婚…」
目の前に座る二歳上の彼は生徒からも好かれている。年上で頼りになる。美形で背も高い。
「鈴はぼんやりしてるから…、家庭と仕事と両立できる?」
英語も喋れる。海外も何か国も行ったらしい。
「あ…えっと」
趣味でサッカーもしている。
「結婚したら、仕事減らしたら? カルチャーセンターのとか…夜遅くなるし」
高校では二年から主将だったと言っていた。
「…は…い」
私は目の前にいる人の良いところをずっとカウントしていた。
「非常勤は続けてくれていいから」
自信のあるところ。
「結婚はいつ頃にする?」
真面目なところ。
「結婚は…あの」
私を引っ張って行ってくれるところ…?
「女性は産める時期もあるし、早めに産んだ方がいいよ。老後は二人でのんびりしたいし」
私の手を取ってそう言ってくれる。
「…あの…ちょっと考えさせて…下さい」
「え? 自分で言うのもあれだけど…優良物件だと思うけど?」
優良物件に私は住みたいのだろうか、と思った時に、私はふとあの古い、でも光が差し込むアパートが目に浮かんだ。古くて、多少床が歪んでて、寝袋で寝るような部屋だったけど、それでも悠希君がいたから、幸せだった。
「不安になったかな? ゆっくり考えてって言いたいけど、そんなに待てないから」
私は頷いた。色とりどりの前菜が運ばれてきた。その鮮やかさに息を飲む。目の前の素敵な人と結婚して、子供を産んで、老後は二人で…と絵に描いたような…確かに絵に描いた幸せを私は望んでいるのだろうか。
「前菜、取り分けてくれる?」
「あ、ごめんなさい」と私は慌ててお皿に盛りつけた。
好きな人のために…と思ったけれど、その時「鈴ちゃんの絵もいつか飾られる日が来るよ」と悠希君の声が思い出される。
「絵を描きたいです」と取り分けたお皿を渡す。
「いいよ。家事の合間に描いたら?」と前菜を眺めて言う。
家事の合間…と聞いて、私は首を横に振った。
「あの…絵を描きたいので、結婚は…考えられないです」
「は?」
唖然とした目の前の美形を見て、私は初めて心から微笑んだ気がした。
「絵をもっと描きたいです。家事できないくらい」
「え? どういうこと?」
「お付き合いも…ごめんなさい」
あれから…いつもずっと応援してくれていた悠希君の期待に応えることができていただろうか、と思うと私は今から始めようと思った。その後、取り分けもせずに無言でディナーを終える。断られたけれど、私は半分払う。店先で頭を下げて別れると、私はあのアパートに行ってみることにした。きっともう別の人が住んでいると思うけれど、もし空いてたら、私が借りてもいいな、と思った。
夜だから古いアパートは本当に怖い。久しぶりに共同の入り口をくぐる。中庭にある木はさらに大きくなった気がする。井戸の方は見ないようにして、一階のかつてアトリエとして過ごした部屋の前に立った。灯りが付いていないから空き部屋かもしれない。私はそのガラスの引き戸に向かって、もう一度頑張ると決意をして帰ろうと思った。
「鈴ちゃん」
懐かしい声が聞こえた。私は振り向けなかった。
「だあれ?」と可愛い女の子の声がした。
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