第43話

揺れる


 朝、目が覚めて何も解決していないことに絶望する。私は重たい頭で体を引きずりシャワーを浴びた。昨日、夫に襲われかけた記憶を消し去るようにシャワーで体を流す。いろいろ考えると気力が失われそうだった。


 二番目に好きだった人のはずなのに今では本当に気持ち悪いとさえ思ってしまう。


 シャワーを浴びると少しすっきりした。私はリビングに行くと、吐しゃ物まみれの夫の服が入ったゴミ袋が無くなっていることに気が付いた。義兄がゴミ置き場に持って行ってくれたようだった。


 床に転がっているりんごを取り上げ、水で洗って、そのまま齧ってみる。すっきりとした甘味が口に広がった。熟れたりんごは香りも運んでくれる。


「離婚…しよう」


 どんな手を使っても、と私は思った。スマホが鳴ったので、出るとお姉ちゃんからだった。


「麻衣、大丈夫?」


「あ、うん。大丈夫。心配かけてごめんね。昨日、お兄さんが来てくれて…」


「そうなの。少しおかずを持って行くように頼んだのに、渡し忘れたって持って帰ってきちゃって」


「…あ、うん。昨日ね。夫が来てて。それで…叱ってくれたの。思いがけなかったから、忘れたんだと思う」


「え? 来てたの? 何しに? 大丈夫?」


「うん。大丈夫。相変わらず離婚しないの一点張りだけど。お兄さん来てくれて…追い出してくれたから…」と私は本当のことで言って良さそうなことだけをピックアップして伝えた。


「そう…。なんか、様子が変だったから」


「あ、そう。お姉ちゃんに心配させたくなくて、ちょっと言わないでって言っちゃって。だから怒らないであげて」


「そっか。もう、なんか心配しちゃった。でも元気そうでよかった」


「うん。頑張って離婚するから。お姉ちゃんは頑張って赤ちゃん産んでね」


「…麻衣。ごめん」


「どうして謝るのよう」


 そう言いながら私は胸が張り裂けそうだった。


「何もしてあげられなくて…」


 そう。姉は優しい。私は早く電話を切りたくて、明るい声を出した。


「ううん。そんなこと…。それより赤ちゃん楽しみ。ちょっと仕事増やしたりするから…。忙しくなるけど心配しないで」と言って、電話を切った。


 齧りかけのりんごをまた食べ始めた。


 ヌードモデルでも何でもとりあえず稼いで離婚しよう。離婚を一番の優先に決めた。弁護士の無料相談を予約する。後、友人に知り合いの弁護士がいないかも聞いてもらった。私が離婚するという話をすると一様に驚いていたが、みんな同情的だった。一日かけて離婚について調べた。


 慰謝料をもらえることも頭になかったけれど、そのお金があれば後はなんとかなる。とりあえず、手付金として払うお金を用意すればいい。まだ離婚していないのだから相手から生活費も受け取れるらしい。


 目途が着いたら少し落ち着いた。



 夕方、夫からの着信がある。また家に来られても嫌なので、電話に出た。


「もしもし?」と何事もなかったように出る。


「…麻衣。昨日は…本当にごめん」


 私はうんともううんとも言わずに黙って次の言葉を待った。


「話がしたいから…、外でいいから会って欲しい」


「外?」


「よく行ってた駅前のカフェにいるから」


「オレンジコーヒー?」


「そう。来てくれるまで待ってるから」と言って切れた。


 行かなくてもいいとは思ったけれど、また家まで来られても迷惑なので、行くことにした。カフェで暴れることもないだろう。



 夕方のカフェはそこそこ混んでいてほっとした。少しがやがやしている方が気が楽になる。私は窓際に座っている夫を見つけた。よく仕事帰りの夫と待ち合わせした場所だ。仲は良かった方だったと思う。夫も私に気が付いた。気まずそうな顔で微笑みかける。その笑顔が遠く感じた。


「ごめん」


「…話って…浮気してないってこと?」


「…ごめん。した」


 そんなのもう分かっているのに、と思いながら席に着いた。


「私は離婚したいの」


「…俺はしたくない」


 注文を取りに来たので話は中断される。私はりんごジュースにした。


「珍しいね…。麻衣がジュースなんて」と言うから皮肉に聞こえるかもしれないけど、胃が良くなくて、と言った。


 悲しそうな顔をするのも本当は見たくない。


「麻衣が…俺のこと好きじゃないの知ってた」


「え?」


 夫は私が義兄を好きだということに気が付いていた、と言った。


「最初はそれでも良かった。でも…お姉さんが妊娠したって知った日…。こっそり泣いている麻衣のこと分かってたのに、何もしてあげられない自分が悔しくて…。結局、俺はずっと愛されないんだなって思ったんだ」


 そんな時にかわいい後輩から迫られたという。


「あいつがお義兄さんの間…、つまり一生、俺は麻衣に愛されないって」


 私はこの人と結婚してはいけなかった。


「それで…浮気…した。言い訳にしか…ならないって分かってるけど」


 他に好きな人がいるのに、違う人で…というのは私も夫も同じだった。


「…彼女のことは…好きだったの?」


「…うん? どうかな」


 言葉を濁す夫を見て、胸が痛んだ。


「麻衣が好きなんだ。こんなことになっても…まだ好きで」


 私が悪かった? 


「できれば離婚してあげたいけど…ごめん。嫌なんだ」


 心から出た呟きに私は何も言えない。離婚を決意した当日にまた気持ちが揺らぎ始めた。運ばれてきたりんごジュースが目の前に置かれる。本物とは香りが全然違うけれど、私はそれを口に運んだ。


「じゃあ、私が…今から浮気して…。それを分かって、それでも一緒にいたい?」


「え?」


 なんてとんでもないことを言い出しているのだろう、と私は思った。


「それは…」


「難しいよね?」と言いつつ、私はあまいりんごジュースを飲んだ。


「できる」


 勢いで言う嘘。もし実際そうならないと分からないんじゃないかと思った。


「…じゃあ、するから。その後、訊く」


「え? 相手は?」


 そう言われて、私も初めて相当血が上っていることに気が付いた。


「知らない人」と適当なことを言う。


「知らない人って…」


 お互いらちが明かない。夫は鞄から封筒を取り出して私に渡した。


「当分の生活費。…探偵でお金使ってると思うから」


 私は封筒を受け取った。弁護士費用に充てられると考えて、少しほっとした。


「…浮気したら連絡するから」と言って席を立つ。


 めちゃくちゃなことを言っている自覚はあったけれど、私は頭の中がぐちゃぐちゃだった。夫に私が義兄を好きだということがばれていたこと、夫も私も結局は同じ罪を犯しているんじゃないかと思った。


「ごめん」と夫からのメッセージの通知が来た。

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