第32話

僕の女神様 春の気配


 毎日、毎日幸せで、交換日記も楽しみで、いつも会社帰りにアトリエに行った。ちなみに俺も絵を描いているが変な絵しか描けない。それでも優しく教えてくれる鈴ちゃんは天使だと思う。


 今日も会社帰りにアトリエに行こうとしたら、後ろから同期の陽菜ちゃんの声がした。


「悠希ー。どこ行くの? 駅とは違う方向だけど?」


「え? あ…。ちょっと」


「なになに? 最近、同期会にも来ないし。今日は一緒に飲もう」と腕を取られた。


 俺はアトリエのことは鈴ちゃんと二人だけの場所だから、誰にも言いたくなかった。


「…ちょっと…。用事があるから」


「えー。冷たい。陽菜、泣いちゃう」と腕を絡ませたまま泣きまねをする。


 道行く人が変な顔で俺たち二人を見ていく。


「ちょっと」


「さーみーしーいー。飲みに行くまで離れないんだから」


 ちやほやされるのが好きな陽菜ちゃんはちょっと面倒くさくて、俺は距離を置いていたけれど、それが勘に触るのか、最近、やたらと話しかけてくる。


「俺、禁酒してるんだ」


「嘘つき」と言い合いをしていると、健人が会社から出てきた。


 健人に押し付けようとしたら、なぜか三人で飲みに行くことになった。早く一人になりたいのに、と思っていたがうまく行かなかった。


「後で雅紀を呼んでもいいんじゃない?」と俺は人が増えると抜けられるかもしれないと思って提案する。


「陽菜ちゃん、悠希が好きなんだ」としっかり腕を組まれているのを見て、健人に言われる。


「えー。まぁ、そうかなー?」と笑うので、俺はため息を吐きたくなった。


「まぁ、久しぶりに同期会しようぜ」と両脇を固められて、拉致されるような形で和食の店に連れていかれた。


 四人席に着くと、俺は壁際に追いやられ、隣に陽菜ちゃんが座って、逃げられないようなポジションに追いやられる。雅紀に合流するようにラインだけして、諦めてビールを頼んだ。


「まぁ、確かに最近、付き合い悪いよな。彼女できたとか?」


「そう」と俺は健人に目で訴える。


「えー。誰? 愛先輩?」と陽菜ちゃんが声を上げて聞く。


「…高校の…同級生」と言うと、勘のいい陽菜ちゃんは「あのイタリアンにいた女の人?」と聞いてきた。


 嘘をついたところで、と思ったから、頷いた。そこから二人に質問攻めにあう。


「初恋が実るとか…奇跡じゃん」と健人は驚いたように言う。


「なーんだ。つまんない」と陽菜ちゃんが言った。


「本当に奇跡…で」と言うと、健人は「良かったな」と言ってくれた。


 現金な陽菜ちゃんは席を健人の隣に移して、雅紀も合流し、みんなで久しぶりに飲んだ。同期会も悪くないな、と結構酔っぱらって、みんなで表に出る。


(この時間だと…バイト上がりに会えるかもしれない)と思って、俺はメッセージを送る。


 既読が付かないけれど、鈴ちゃんのバイトの方に行こうとすると、なぜかみんなが付いてくる。どうやら鈴ちゃんをちゃんと見たいようだった。やめてくれと言ったけれど、酔っ払いたちは言うことが聞かない。陽菜ちゃんは興味がないのか帰ってしまった。


 男三人でぞろぞろ歩いて、バイト先に向かうと、ちょうど鈴ちゃんが出たところだった。声をかけようと思った時、ふいに現れた男性に手首をつかまれている。鈴ちゃんは驚いて固まってしまっている。俺は急いでそっちに向かおうとした時、鈴ちゃんは無理やりキスされてしまった。本当に一瞬の出来事で、俺も固まってしまう。同期が「おい、あれって」と声をかけてくれたから、何とか体を動かして、男性の肩を思い切り掴んで離した。


「…悠希…く」と鈴ちゃんは俺を見て、目を大きく開いた。


「警察、呼びますよ」と雅紀が男性に言っている。


 鈴ちゃんは俺を見て、何も言わずに涙を零した。


「大丈夫?」と声をかけた瞬間、走り出した。


 まただ。また逃げられた。


「行けよ」と健人に言われて、俺は追いかけた。


 鈴ちゃんは可愛いけれど、美術部だったから、バスケ部一年半歴の俺にすぐに捕まった。後ろから抱きしめると、震えながら泣いていた。


「…鈴ちゃん。大丈夫なわけないのに。ごめん」


「ちが…。私が…悪いの」


「どうして? 何も悪くないよ 見てたから」


 何も答えない。俺は自分の裡に不安が広がるのが分かった。抱きしめている温かさが震えている。


「アトリエ…。行こう」


 俺は何もかも失うのが怖くて、そう言った。


 アトリエついても無言だった。部屋は寒くて、俺は買っていたストーブに火をつけた。その上にやかんを乗せる。お湯が沸いたらお茶でもいれようかと準備していると、鈴ちゃんが背中に抱きついてきた。


「…ごめんなさい」


「何が?」


 キスされたことを謝っている鈴ちゃんだけど、俺は自分に腹を立てていた。怯んでしまった自分のこと、そしてどう接したらいいのか分からないこと。


「ごめんなさい。私…」


「鈴ちゃんは悪くないよ。突然だったし…。それに…」


 背中で首を横に振っているのを感じる。


 ティーパックのお茶の袋を開けながら「あの人、誰? お客?」と聞いた声が上ずっていた。


「お客さんで…雑誌社の人で…」


「…言ってくれたらよかったのに」


 責めるつもりはなかった。ただ何かの力になりたかった。それだけなのに。口から出た言葉は取り消せない。


「ご…ごめんなさい。私…悠希君に…嫌われたくなくて…」


「あの人と会ってた?」


 どうして振り返れないんだろう。俺もショックを受けていたから、鈴ちゃんの傷までケアできなかった。


「…会ったこと…ある。悠希君と…付き合う前だけど」


「どうして?」


「それは…」


 その後、答えがないまま鈴ちゃんが俺から離れた。ようやく振り向くと、俯いている鈴ちゃんがいて、俺は胸の苛立ちをぶつけるように抱きしめてしまった。本当に子どもだったと思う。それから欲情をぶつけるように抱いてしまった。何も言わない鈴ちゃんにも、こんなひどいことをしてしまった自分も許せなくて、ストーブの上のやかんが白い蒸気を吐き出しているのを見ていた。


「…ごめん」


 謝る俺は自分でどうしたらいいのか分からなかった。鈴ちゃんは首を横に振って体を起こした。優しく抱きしめてあげられたらよかったのに…。俺はずっと湯気だけ見ていた。服を着た鈴ちゃんが「お茶…いれるね」と言ってくれる。情けなくて涙が零れた。


 俺が壊してしまった、とはっきり自覚した。


 お茶を入れてくれた鈴ちゃんは「ごめんなさい」と言った。


 最低なことをしてしまった俺は何もいう事ができなかった。


 終電が終わってしまったので、二人で寝袋に入って、朝を待った。きっと鈴ちゃんも寝られなかっただろう。朝になるとイーゼルと絵具セットと自分の寝袋を抱えて、俺を起こさないようにと静かに部屋から出ていった。俺は最後まで何も言えずにただ、もう二度と絵具を拾うチャンスを失ったと思った。


 自分の愚かさをひたひたと感じながら動けなかった。夕方になって、テーブルの上のノートを開いてみた。


「悠希君へ


 もうすぐ春ですね。まだ寒いけど、空はぼんやり霞んで来ました。桜が咲いたらお花見したいな。

 五月に北海道では桜が咲くというので、見に行ってみたいです。

 それから、高校生の時に行きたかった夏まつりも浴衣を着て一緒に歩きたいです。

 悠希君と再会して、本当によかったです。毎日、毎日、応援してくれてありがとうございます。悠希君の絵も少しずつ上達しています。絵画教室の先生になれるかな? 本当に大好きです。


 でもちょっと時々、不安になります。季節が変わるからかな。春ってお別れの匂いもするから。学校卒業してもう長い時間が過ぎているのに、私はやっぱり春が苦手です。少し苦しい。でも次の春は一緒にいられるから、そんな不安も気のせいですね。


 いつも本当にありがとうです。 鈴」


 交換ノートを見返すと、愛してくれていたことが分かるのに、俺はどうして彼女を傷つけることしかできなかったのだろう。結局俺は同じホームにいても彼女の助けにならなかった。ストーブはいつの間にか灯油切れで消えていた。俺は奥のガラス戸を開けて、空を見上げた。鈴ちゃんが言っていた春の夕方のようにぼんやりしている。

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