第47話 奇跡のマリアージュ

 長靴が歩くたびに異臭を放つ。

 少しサイズの大きい長靴は、長沼が歩くたびに足裏と靴内に空間を作り、それを足裏で圧縮することで小さな上昇気流を生む。長靴の煙突のような形状が被害を大きくしているのであろう。

 魚の腐乱臭が、長沼の鼻をいい感じにくすぐる。


「うええええ」


 勇んで長沼にくっついてきた男は、長沼よりももっと最悪な臭いを嗅いでいる。

 男の足裏にそもそも付いていた匂いが、長靴の芳香と合わさって、とんでもないマリアージュを醸し出しているのである。

 ワインソムリエならば、この奇跡の香りを何と例えるであろう。

 男子校運動部の試合後の匂い一年分濃縮タイプ……? 屋外フェスの仮設トイレ百個分……?

 ともかく、想像したくもない恐ろしい匂いの中で、事務員の男は果敢にも立ち向かっているのである。


「マスクしていても……辛いです」


 青ざめた顔で事務員の男が弱音を吐く。


「我慢なさい! 匂いくらい!」


 まさか奇跡のマリアージュが実現しているとは思わない長沼は厳しい。


 長沼は、フラフラしている事務員の男を放置して、松子を観察する。


「今日は……血まみれじゃあないのね」

「え、血まみれ?」


 松子が大げさに驚きながら周囲を見回してみせる。


「どこも……血なんかついていないけれど……」

「この間、あなた血まみれになっていたじゃない! 忘れたとは言わせないわよ!」

「この間……ねぇ。力斗、分かる?」

「いや? 長沼さんには、俺は初めて会うんだ。分かるわけないだろう」


 松子は、長沼が来た時に、ほっけの返り血を浴びたのだ。大福のご飯の準備に失敗して。忘れたわけではないが、長沼には惚けてみせる。


「ほら、真っ赤に染まっていたじゃない!」


 松子達に惚けられて、長沼がイライラしてくる。


「真っ赤! ああ、あれか! ほら、動物実験の!」

「おお! あれかぁ! あったなぁ!」


 松子と力斗の二人して合点する。


「ほら、危険な動物実験をしていて返り血を浴びたんでしょう?」


 天宮も言っていたのだ。

 この施設では、動物実験をしているのだと。


「きゅいいいい!!」


 聞こえてきた……。

 長沼は、唾を飲む。


「な、なんですか? あの聞き慣れない鳴き声は……」


 フラフラしながらも、事務員の男が鳴き声に反応する。


「猛獣の鳴き声よ。それか怪獣ね」

「猛獣? 怪獣?」


 事務員の男が怯える。

 強烈な匂い、危険な猛獣。

 敬愛する長沼のために頑張って付いてきたが、こんな想いをするくらいなら、外で清掃作業に参加しておけば良かった! と、男は後悔する。


「ちょ、ちょっと! え、猛獣? 怪獣? そんなのどこにいるのよ?」

「本当だよ。何の話だよ」

「さっきから何を白々しく惚けているのよ! ほら……」


 長沼が声を荒げている間にも……。


「きゅいいい!」


 例の鳴き声が聞こえてきた。

 勇気を出した長沼が、音の聞こえてきた方にある扉に歩み寄る。


「あ、ちょっと! 勝手に動き回らないで!」


 松子が止めても、当然のごとく全く長沼は聞き入れない。

 むしろ止められたら、止められた分だけ怪しんで長沼の勢いは増すばかりだ。


「この扉ね!」


 松子を押し退けて、長沼は勢いよく扉を開け放った。

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