第48話 扉の向こう側には

 バンと扉を開ければ、眩しくて長沼は一瞬目を閉じる。

 ゆっくりと目を開けば、窓がこちらに向かってあることにまず気づく。

 広く明るい空間……。

 プールだ。清潔な水を張ったプールが、目に飛び込んできた。


「きゅいいい!」


 聞こえてくる声に長沼が目を向ければ、そこにあったのは……。


「え、ぬいぐるみ?」

「はい。声の出るあざらしのぬいぐるみ、『大福ちゃん一号』です」


 平然と、松子が答える。

 そう。これは、岩太郎愛用の大福のぬいぐるみである。

 天宮が作戦に使うために、嫌がる岩太郎からむしり取ってきた物である。

 大福を守るためと言われれば、岩太郎は泣く泣く『大福ちゃん一号』を手放さざるを得なかったのである。


「動物実験って……」

「はい。この『大福ちゃん一号』によりリアルな声を再現させるための実験ですね。時には、本物のあざらしをここに招いて、その音声を収録いたしました。いや、本当に苦労したってなんの!」


 松子は、天宮達と打ち合わせした通りのセリフを長沼に伝える。


「今は……そのあざらしは?」

「いませんね。ここは『厚生福祉施設』ですから」


 まったく腑に落ちないのであろう長沼が、松子が今までの人生で見た中で一番深っっかい皺を眉間に寄せる。


「うわぁ……そういう皺って、後々残りますよ?」

「うっさいわね。良いのよ! 皺なんか!」


 そう強がりを言いつつも、長沼は眉間の皺を手で擦って消そうとする。気にはしているようだ。


「どういうことよ」

「何がですか?」


 長沼の問いに、今度は力斗が対応する。

 

「これが、どういう役に立つかって話よ」


 こんなマニアなぬいぐるみ、岩太郎にしか需要は……いや、経団連の爺と、保坂ならば喜ぶかもしれないが、そんなニッチな需要で、こんな大げさな施設を建てられれば、無駄も良いところなのである。


「ああ、それな、です」


 松子は、『大福ちゃん一号』を小脇に抱える。「松子、そっと持て! 壊れる!」ぬいぐるみの中に装備したタブレットから、ソルト君が小声で注意する。

 先ほどの声は、ソルト君がぬいぐるみの中に仕込まれて、大福の声を再現していたのだ。


「このぬいぐるみは、お年寄りの生活活性化のために開発されました」

「お年寄りの?」

「はい、年配の方が、楽しく運動してくれるようにと、開発したんです」

「あら、長沼さん。ご存じない? 最近、とある研究施設で発見された脳内物質が、あざらしの音声で活性化するって話を」

「は? 知らないわよ」


 知るわけがないのである。松子の大嘘である。シュガーたんと一緒に楽しく考えた大嘘なのだ。そんな事実はどこにもない。

 いや……あざらしは可愛いし、ひょっとして将来、猫のゴロゴロ音に癒しの効果があると発見されたのだから、あざらしの声にもそういう作用が、発見されることも可能性的にはゼロではないかもしれないが、今のところ、そういう事実は発見されていない。


「あら、勉強不足。界隈では有名な話ですよ」

「ぐぬぬぬぬ」


 松子に勉強不足と言われて、負けず嫌いの長沼の顔が悔しさで真っ赤に染まる。


「ま、まだ返り血の説明が!」

「そうでしたね。あの話、まだ説明していなかったわ!」


 松子がにこやかに微笑んだ。

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